6話

 蒼衣の記憶が確かなら、いや、ついさっきまで窓の外には学校のグラウンドがあり、 部活に勤しむ生徒の姿があったはずだ。

 それなのに、いま彼の目の前には黒々と表面を波打たせる海が果てしなく広がっている。まるでこの図書室ごと漂流しているようで、足元が揺れる錯覚に身体がふらついた。


『同じ場所に同じものが在るとも限りません。陰の世界では、ここは海のど真ん中ですね』

 遅かれ早かれ、この図書室も海に変わります。

 平然と言ってのける氷華に、耳元でざっと血の気が下がる音を聞いた蒼衣は唇を戦慄かせる。

「そんな、お、溺れ」

「そうならないように私がいま結界を張っているのよ」

 慧は窓に手をつき、面倒ねと眉を顰めた。

「水中じゃないだけマシかしら」

「っ、深泉さんそれ.......!」

 振り向いた慧の顔、アイパッチで隠している右目。その頬を涙のように血が伝って、制服のシャツにも赤い染みを広げている。

 蒼衣の視線に気づいた慧は鬱陶しげに血の垂れた頬を人差し指で拭った。

「ああ、別に問題ないわ。"これ"使わなきゃいけないし」

 そう言って、慧は血で濡れた指を窓ガラスに押し付け、なにかの紋様を描き殴った。次いで人差し指と中指を揃えて胸の前に構え、早口で何かを呟く。

「──、────」

 言い終わるや否や、窓に描かれた紋様は吸い込まれるように消えていった。慧はそれを見届けることなく、さっさと奥の書架へ目的を定めて踵を返す。

「結界.......?」

「そう。今回みたいに"渡った"先が安全な場所とは限らないから、いつも世界を"渡る"時はこうしてセーフエリアを作るようにしているの」

 あくまでも一時的なもので、外に出れば消えるように設定していると慧。

『今はこの図書室だけを陽の世界の形のまま留めている状態です。見たところ、外はもう8割以上陰の世界に転じているようですね』

 窓に近づいた氷華は外を見渡して息を吐いた。

 そうこうしているうちに、ひと通り検分を終えた猫——もとい、青年は長机に腰掛け、蒼衣を見つめてにこりと微笑んだ。伸ばした指で窓際に立つ氷華を指さす。

『さっき姐様(あねさま)が言った通り、ほとんどのモノは陰の世界では別のものに転じる。陽の世界での記憶もない。姐様の手みたいに、今まで表っ側にあったものが裏側に回るだけさね。何事もなく、いつも通りの日常を過ごす。ただ、世界が瞬きをして目を開けた時、そこに映るのが"こっち"の景色になるだけの話だ。ただ、例外がある。もうお察しだね?』

 青年の口角が吊り上がる。にぃ、と。まるで物語に聞くチェシャ猫みたいに。

『霊力や霊感と呼ばれるもの。それらは大雑把に言うと陰の力だ。それを持つ者は、人間だろうが動物だろうが、世界が反転すれば首を傾げるくらいの違和感を持つ。私や姐様は言わずもがな陰の存在だ。だが、お前さんや姫はどうだい?陽の世界に在るために猫に化けていた私のように形がぶれたか?違うものに成ったかね?』


 猫の、いや、青年の口が。笑って。

 ああ、駄目だ。意識が保てない。じわじわと端から水が沁み込んでくるように、重く、遠く。


『世界が反転しても存在が変わらないものは、陰陽の力をどちらも持つものだ。陰と陽の世界の均衡を保ち、歪みを正す役割を持つ。私や姐様は姫に使役されている式神。姫──深泉慧は陰陽師。そして、お前。柑崎蒼衣も』

 陰陽の力を併せ持つ、陰の世界の人間だ。

 ぐるりと何かがひっくり返るような感覚と共に、蒼衣の意識は完全に途絶えた。

 

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