5話

全員が図書室のスピーカーを振り仰いだ。昼休み、屋上で聞いたものと同じノイズが部屋全体を揺らしている。触れている机や床もびりびりと振動していて、むしろ昼休みのものより酷い。

刹那、小さな影が視界を横切った。

『姫、どういうことだい、これは』

 何事かと振り返れば、いつの間にか机の上に三毛猫が座っている。

 あ、と蒼衣の口から声が漏れた。猫の視線が慧から蒼衣に映り、その目がにんまりと弧を描く。

「おまえ、朝の?!」

『おお、存外元気じゃないか。逞しいことだ』

 間違いない。この猫は登校中に蒼衣が話し掛けた動物霊だ。図書室の引き戸はピタリと閉まっているし、窓だって空いていない。確かに霊体は壁をすり抜けられるが、猫が喋りかけてくるまで微塵も気配を感じなかった。

 ぞわりと背筋が粟立つ。大概の霊は視界に入る前に察知できるほど、蒼衣には霊感がある。この猫、そこらを彷徨いている霊と同じで大した力もないと思っていたが——これは。

 震える蒼衣を横目に、慧は猫を睥睨して指でとん、と机を叩いた。

「世間話は後にして。どうも何も、限界でしょう。これは」

『それは分かっているとも。しかしまだ1年しか経っていないだろう。姫が“渡って”きた理由はこれかね』

 どうやら、今朝彼が言っていた"姫"とは慧のことらしい。

 鼓膜を削るような酷い雑音の中、いまいち要領を得ない猫の言葉に氷華が視線を尖らせた。


 スピーカーから流れてくる不快な音はどんどん酷くなっていく。


『あなたにはこちら側での定点観察を任せていたはずです。報告を受けた覚えはありませんが』

『そりゃあ報告する事があればしていたさ。“反転”の予兆は今日まで感じなかったよ、本当だ』

「ま、待ってくれ。渡る、とか反転、とか何のこと?」

 慧、氷華、猫の間で飛び交う言葉はどこか不穏な響きを孕んでいて、蒼衣は1人輪の外にぽいと投げ出されたような心許なさに身を乗り出した。ぴたりと動きを止めた3人の視線が一気に蒼衣へ集まり、氷華がくっと顎を引く。

『慧様、私が説明します。貴女はとりあえず結界を張ってください』

「……そうね、お願い」

 慧はひとつ息をつくと、垂らしている右側の前髪を耳に掛け、アイパッチを晒した。立ち上がって引き戸の方へ歩いていく。

その背中を見送り、氷華は蒼衣に向き直った。時間がないので詳しくはまた後で説明すると前置いて、掌を下向きに片手を差し出す。

『まず、全てのものには2つの面があります。陽が射せば影ができるでしょう?掌を陰(いん)、手の甲を陽(よう)と捉えてください』

 体の正面、机と水平になるよう構えた手の両面を、それぞれもう片方の手で指差す。

『"陰"と"陽"、この2つが均衡を保つことで、世界は安定します。そして、均衡を保つために"陰"と"陽"は一定の周期で入れ替わるのです』

 氷華は掌をくるりと裏返してみせた。今度は掌が上を向く。

『この現象を"反転"と呼びます。3年周期で入れ替わります』

「さ、3年?!」

 氷華の言う"反転"が思っていたよりも随分と短いスパンで行われていることに、蒼衣はぎょっと目を剥いた。

 猫がくく、と笑う。

『まあ、これに気づかない奴が殆どさね。私らのことが見えない、感じない人間にとっては何が変わるわけでもない』

『この猫の言う通り、本来であれば何の問題ありません。陽から陰に、陰から陽に、世界の主軸が移るだけ。全ての生命が消滅するだとか、そういう話ではないのです』

 本来ならば。氷華はぞっとするほど冷たい目でスピーカーを睨んだ。

『3年周期で起こっている反転は陰陽の均衡を保つために必要なことです。しかし、前回の反転から1年しか経たないというのにまた反転が起こる予兆が観測された。それで私と慧様はこちら──陽の世界に渡り、原因を調査する任務を仰せつかったのです』

 まさかこんなに早く限界が来るとは思いませんでしたが、と氷華。彼女らが世界を渡ってきたのは、ほんの1週間前だという。もともとの計画では3か月ほど掛けて原因を探る手筈だったらしい。

「.......あの、その世界の均衡が崩れるとどうなるんです??」

『ざっくり言うと、怪異が力を持ちすぎて暴走しますし自然災害の懸念もあります』

 開いた口が塞がらないとはこのことか。

 青を通り越して紙のように白い顔で震える蒼衣を見据え、氷華は続けた。

『基本的に、陰陽どちらの世界にも同じ魂が存在します。ただし、必ずしも同じ生物ではないし、片方では存命ですがもう片方では既に死んでいる場合もある。──ああ、彼がいい例です』

 氷華の指につられて机の猫に視線を移した蒼衣は息を飲んだ。

 猫の輪郭が、テレビの映像が乱れるように時折ブレて、深草色の狩衣を着た青年の姿を透けさせている。

 猫は自分の身体を見下ろし、おや、と呟いた。

『だいぶ進んできたね。姫、手伝いは必要かい』

「結界に綻びがないか確認して」

『承知した』

 猫はふるりと身体を震わせると、完全に青年の姿へ転じた。ひょいと机から飛び降りて何やら聞き取れない言葉を呟いている慧の方へ歩いていく。

『ご覧の通り、彼は陰の世界では人の姿をしています。あとは、ほら』

 氷華が窓へすらりと指を伸ばす。つられて視線を動かした蒼衣はこれまた絶句した。


 海だ。海が広がっている。

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