4話

蒼衣は溜息を吐いて立ち上がった。スクールバッグを肩に担ぎ、隣を見る。

「じゃあ、行こっか。深泉さん」

「ええ」

 教室に戻って暫くは何を聞かれるのか、無事に帰してもらえるのだろうかと肝を冷やしていた蒼衣だったが、和装の霊は屋上で話しかけてきたきり何もしてこないし、そもそも連休明けの初日で課題の提出や慧への説明と忙しなく過ごしているうちに一日が終わった。

 水斗は用事があると言って先に帰ったので、今は2人きりだ。

 慧が蒼衣を図書室に誘ったのは話をする為であって、本を借りたいわけではない。和装の霊の言葉を聞いた蒼衣も当然それを承知しているので、借りたい本は何か等の下手な芝居を打つこともなく、道中は静かなものだった。

 ——さて、どのあたりが一番目立たないだろう。洋書コーナーの隅か、百科事典や図録コーナーの裏か……。


「————っ?!」


 図書室の引き戸を開けた蒼衣は愕然と目を見開いた。室内に、人がひとりも居ない。

 普段ならこの時間、図書室は談笑する生徒や課題に取り組む生徒で賑わっている。だが、見渡した室内のどこにもそんな彼等の姿がない。中央に設置された長机にも、窓際の一人ぶんずつ区切られた自習スペースにも——司書室さえも無人だ。

 あまりの静けさに、きんと耳が鳴る。粟立つ首筋を押さえ、蒼衣は震える足を一歩引いた。

「なん、だ……これ……」

「人払いをしただけよ」

 静寂を、一筋の声がすっと切り裂く。弾かれたように振り向いた蒼衣が目にしたのは、平坦な瞳でこちらを見つめる慧の姿だった。

 教室で初めて会った時から物静かな少女だと思っていたが、今の慧は更に無駄な表情を削げ落としたようだ。整った顔立ちも相まって、まるで人形と話しているような錯覚を覚える。

 蒼衣はごくりと生唾を呑んだ。

「中で話しましょう。ほら、入って」

 怯える蒼衣の様子など何処吹く風と、慧は蒼衣の手を掴んで図書室に踏み入っていく。引き戸のサッシにつま先を引っ掛け、転びそうになった蒼衣は慌てて体勢を立て直した。

 真っ直ぐに室内を横切った慧は図書閲覧用の長机に近づき、椅子のひとつに腰掛けた。そのすぐ後ろを和装の霊が付き添い、彼女の右側に控える。

 慧は棒立ちの蒼衣を見上げて小首を傾げた。

「座らないの?」

「あ、うん……」

 完全に場の主導権を奪われた蒼衣はばつが悪そうに眉を寄せ、ぎこちない動きで慧の対面に座った。

 その様子を和装の霊がどこか面白そうに見ている。何だその顔、と突っかかる余裕は今の蒼衣にはない。

 慧はひとつ瞬きをして、背後に佇む和装の霊を指さした。

「で、見えてるわよね」

「……ああ」

「声も聞こえてるんでしょう」

「そう、だね……うわ?!」

 突然、和装の霊がぐんと身を乗り出してきた。目と鼻の先すれすれに迫った美貌にぎょっとした蒼衣は椅子ごと後ろに仰け反る。

 やばい、と思った時には完全に椅子の前足が床を離れてしまっていた。

「————え、」

 衝撃を覚悟して固く目を瞑っていた蒼衣だったが、冷たい床ではなく何か柔らかいものに背を支えられ、恐る恐る目を開いた。

 いつの間にか蒼衣の背後に回っていた和装の霊が、静かな表情で蒼衣を見下ろしている。どうやら彼女が倒れかけた蒼衣の背中を支えてくれたらしい。

 彼女は蒼衣の肩を押し、傾いた椅子ごと蒼衣の体勢を直して頷いた。

『触ることもできますね』

 その確認をする為に転ばされかけたのかと怒る余裕もなく、蒼衣は早鐘を打つ心臓を押さえて息を吐いた。

 もう、何がなんだか。全くついていけない。

「あの、俺もう帰っていいかな……」

 半眼で机に頬杖をついた蒼衣の溜息を、慧はすっぱりと切り捨てた。

「まだ何も話してないじゃない」

『先程スピーカーから聞こえた音、蒼衣様にはどのように聞こえたのですか?』

 矢継ぎ早に繰り出される質問に内心辟易しながら、蒼衣は首を傾げた。さっきから思っていたがこの二人、初対面にしてはどうにも馴れ馴れしい。

 特段気にするタイプではないが、蒼衣自身というよりも慧がフランクに接してくることが気になる。勝手な思い込みかもしれないが、彼女がそういう性格だとは蒼衣には思えなかったのだ。

「なんかこう、ザリザリって……無理やり錆びたドア開けるみたいな……?」

「あの音が聞こえたのは、今日が初めて?」

「初めてだと思う」

 そう、と頷いて、慧は図書室のスピーカーを見上げた。昼休みに聞いた音を思い出しているのだろう。

 その横顔を見つめ、蒼衣は唇を湿らせた。聞くなら今しかない。

「——あのさ、俺も聞いていい?」

「なに?」

「深泉さんと俺、前に会ったことある?」

「…………」

 慧は蒼衣に向き直って肩を竦めた。

「ナンパの常套句よ、それ」

「どっちかというと、ナンパされてんのは俺なんだけど」

 ぐ、と慧が唇をへの字に曲げた。彼女の後ろで和装の霊が顔を背けて肩を揺らしている。

「ちょっと、氷華(ひょうか)!」

『すみません、つい』

 氷華と呼ばれた和装の霊は口元を袖で隠し、一本取られましたね、と笑っていた。

 慧の頬にさっと朱が差す。

 蒼衣はそんな二人のやり取りをどこか呆けた表情で見ていた。薄氷の上を歩くような緊張感が消え失せ、穏やかな時間が戻ってきた気すらする。

「なによ、じろじろ見ないで」

 ふと我に返ると、慧がぎろりと蒼衣を睨みつけていた。彼女は凄んでいるつもりだろうが、赤い頬が膨れているせいで全く怖くない。


 ——慧の奴、ここでからかうと完全にヘソ曲げちゃうから止めとこう。


「………………え?」

「だから何よ、言いたい事があるならはっきりどうぞ!」

 顔を真っ赤にした慧がぐっと身を乗り出してくる。しかし蒼衣は、つい今しがた自分が胸の中で呟いた言葉に頭を真っ白に焼かれていた。

 今、自分は何を。まるで——そう。彼女と自分が、幼馴染であるような親し気なことを思わなかったか。

 ——ぎぃぃぃぃ

「っ!?」

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