第3話 咲く日を知らず散る花よ
まず、麗というのはわたしが勝手につけた呼び名だ。『名前は?』と尋ねたときに首を
『おかーさんはね、わたしのことを「おい」って呼んでたよ?』
目の前が真っ暗になりそうだった――自分の名前を知らず、そして彼女の話では外のこともほとんど知らないらしい。どういう経緯でそうなったかはもちろん彼女本人も知らないと言っていたけれど、彼女は部屋の中に閉じ込められていて、ある日あまりの空腹に耐えかねて食料のない部屋から外に出たとき、桜の木を見たのだという。
『あのピンクの木、すっごいきれいだよね! お外に行く前のおかーさんもキラキラしてるけど、あのピンクの木はヒラヒラしてるの!』
無邪気に、綺麗な瞳を輝かせてそう話す彼女を抱き締めずにはいられなかった。戸惑ったような声が返ってきたけど、心が痛かったのを覚えている。
外の世界が綺麗だとは、どうしても思えない。けれど、彼女にとってはきっと外の世界が『綺麗』であることは、ひとつの救いみたいなものだったのかも知れない――わたしが彼女に救われたように。
わたしにとっては、彼女こそが『綺麗』だった。
『ねぇ、麗ちゃんって呼んでいい?』
我ながらどうかしてるとは思った。
名前を自分の知らない少女に自分の呼びたい名前をつけようなんて、普通ならありえない。そう自分でも思うのに、どうして彼女は受け入れてくれたのだろう? 返ってきた答えは『きれいな名前だね!』という明るい言葉だった。
それから、麗はわたしが想像していたよりも年齢が上だった。まだ小学校に上がったばかりくらいだろうと思っていたけど、実際は中学生になるかならないかくらいの年齢だったらしい。だからだろうか、時々わたしの寝ている布団に潜り込んで身体に触れようとすることがあった。
きっとそういう知識なんてないだろうに、たぶん本能のようなものでわたしを求めてきていたのかもしれない。けど、わたしは彼女に相応しくないような気がしたから受け入れることなんてできなかったけど。
それと、長い年月閉じ込められ続け、あんな露骨な暴力に見舞われながらも、麗はまだあの母親を恋しがっていた。
『おかーさん、明日はむかえに来るかな?』
『さびしくないよ、ほんとだよ?』
『おか……えり! おねーさんおつかれさま♪』
……ねぇ、なんで?
絶対にわたしの方があなたのことを想っているはずなのに、なんであんなに乱暴に扱っていた人を恋しがるの?
何かが、壊れていっているのはわかっていた。時々そんな彼女が無性に腹立たしくて、たまに彼女の笑顔を否定したくなって――それでも、麗の顔が曇るようなことはない。その笑顔がわたしの心をいつも晴らしてくれていたのに、だんだん気持ちも変わってきてしまっていた。
外に出すわけにはいかない彼女を養っていくことで認めたくないながらも感じていたストレスにも、眠いのにも構わずぶつけられる彼女自身も無自覚なのだろう欲望にも、それらに答えているのにまるで報われている感じのしない現状にも、もううんざりしてしまっていた。
だから、先週。
『お母さんは、来ないよ』
我慢できずに、それだけ言ってわたしは家を空けてしまったのだ。外に出られないよう、内側からは開けられない南京錠までつけて。
最初は数時間くらいで戻るつもりだった。きっとそれくらい経てば麗は寂しくて泣き出してしまうだろう――それはどこか心が痛んだし、そういう思いさえさせてしまえばこの心も少しは晴れるような気がしたから。
けど、数時間経っても気持ちは曇ったままで。そんな気分のときに思い出した麗の顔は、まだわたしには眩しすぎて。だから、家に向かおうとしていた踵を、また返した。
日が昇って、また沈んで。
それを何度か繰り返して。
時間が経てば経つほど、わたしを迎える麗の顔が明るくなるような気がして苦しかった。そういうんじゃない、わたしが見たいのは少しでもわたしの感じた苦しみを……あれ。
不意に、思い出した。
窓からただ見つめていた昼と夜とを行き来する空。
鳴ることすらやめたお腹と、どこか麻痺したように穏やかな体調。
いくら待っても開かない扉。
何を見ても楽しくなくて、消したテレビ。
やっと帰って来た母がわたしに投げつけた言葉。
『少しはあたしの感じた苦労、わかった? ……うわ、部屋汚してんじゃん、ありえない』
不意に、思い出した。
* * * * * * *
その日は、昼前からひどい雨が降り続いていた。少し頭が痛くて、気分もなんとなく優れなくて……そのうえ胸のなかに積もっている焦りやモヤモヤもそろそろ限界に達しようとしていた。
だから家に向かう足も重くて、息苦しくて、そして、わたしを迎える声はなくて。
ねぇ、起きて。
起きてよ、麗。
どうして、こんなことになったのだろう?
わたしは何故、こんなことをしてしまったのだろう?
うっすら開いた綺麗な瞳には、きっともう何も映っていない。綺麗な世界があったはずの瞳は、ただただ空虚でしかなくて。
手を離したから、砕け散った。
手から滑り落ちて、わたしの“綺麗”は壊れてしまった。
もう戻らない日々の欠片がただ胸を締め付けて、そのまま刺し貫いてしまいそうに痛くて。
さよなら。
声が聞こえた気がして、わたしは、もう。
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