第2話 陽だまりは翳り、やがて。

 母親らしき女性に連れていかれてから公園に姿を見せなくなった女の子を、わたしは来る日も来る日も待っていた。けど、わたしが行けばいつでもいたあの子とは何日待っても会うことができなかった。

 考えてみれば、おかしかったのかも知れない。わたしがここを通りかかる時間はまちまちなのに、どうしていつでもあの子はここにいたのだろう? 小柄ではあるけど、小学校にはかよっていそうな年齢には見えた――あるいはまだ小学生くらいの子に見えた、というべきなのかも。

 そんな子がどの時間帯もここにいるなんて、よく考えたら普通ではない。


 不意に、頭が痛くなった。


 ――ほんとに、いつまであたしに迷惑かければ気が済むわけ?

 ――何もしないでって言ったよね、手伝ってなんて言ってないよね!? そんなことも聞けないの、あんた?

 ――あぁ……ほんとに時間戻したい


 聞こえるはずなかったのに。

 耳を塞ぎたくても、萎縮して動けなかった。

 頭が、痛い。

 いるはずない、いるはずないのに、そこにいる。すぐそこから、まだわたしを睨み付けてくる……嫌だ、嫌だ、嫌だ!


 投げ掛けられる言葉が痛くて、投げつけられるお皿が痛くて、振り上げられる手が怖くて、置いてある棒が怖くて、押し付けられる火が熱くて放り出されたベランダが寒くて閉じ込められた押し入れが暗くて沈められたお風呂が苦しくて謝っても聞いてもらえなくて許してもらえなくて逆にもっと怒って笑いながら叩かれて手足がしばらく動かなくて変な臭いになった食べ物を無理やり口に入れられて吐き出したら何もなくなって寒くて怖くて痛くて熱くてやめてやめてやめてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいいい子にするから痛いの嫌なの怖いのも暗いのも苦しいのも無視されるのも嫌なのごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ、


――あんたなんか


 やめてやめてやめてやめてそれ言われるの嫌だ、嫌だ、やめて、何でもするから、何もしないから、やめて――


――■■■■■■■■■■

「―――――――」

 罵倒と否定のリフレインが止まらなくて、どんなに首を振ってももういないあの人の言葉は止まらなくて。


 桜の下で目を覚ましたときにまっさきに飛び込んできたのは聞き覚えのある泣き声と、聞き覚えのある怒声。

 公園のなかにはいなさそうだったから、まさか……家? 家からここまで聞こえるような声なの? 不安になりながら声を頼りに進んだわたしがある部屋の窓から見たのは、泣き叫ぶ小さな女の子と、その髪を引っ張りながら怒鳴り付け、苛立ち紛れに畳に叩きつける女性の姿。


『なんでわかんないの、あんた出ると変な目で見られるでしょ!? あんたの為なのに、おとなしくしててって言ってるのに!!』

 釈明もできずに泣き叫ぶ女の子を見下ろす母親らしき女性の顔は、決して“言い聞かせてもわかってくれない我が子に苦悩している親”の顔などではなかった。その顔は、まるで。


 女性は更に女の子を罵倒する。その人格を否定して、尊厳を否定して、何もかもを否定する言葉の数々。その言葉を向けられる気持ちは、きっと向けているあの人たちにはわからない、わかってくれないんだ……だから平気で言える、やめてって言っても駄目なんだ、知ってる、知っていたけど。


『あんたなんか』

 気付いて耳を塞ごうとしたときには遅かった。

『産まなければよかった!』


 面と向かって言われ続けたあの言葉が、また聞こえて。もう、駄目だった。 頭が真っ白になって、ううん、真っ赤だったかも知れない。何が起きたかもよくわからないくらい、無我夢中だった。というより、たぶんそのときのわたしは本当に悪夢のようなものに囚われてしまっていて、そこから逃れようと必死だったのだ。

 だからどういう風にしたのかは、自分でもわからなかった。ただ気付いたらわたしは自分の部屋にいて、そして隣には呆然とした様子の女の子がいて。


『あ……あ、あ……』

 そのとき思い浮かんだのは、誘拐という二文字だった。こんなことが外に知れたら大変なことになるし、それにわたし、ひょっとしたらもっと大変なことをしたかも知れない――まさか、まさか殺じ、


『おねーさん』

 小さな声が、わたしの心臓をわし掴んだ。

『なに?』

 そう尋ねた声は、たぶん震えていたと思う。けれど、彼女はそんなわたしにかまうことなく、屈託くったくのない笑顔でわたしを見上げなから言ったのだ。

『ひさしぶりだね! 元気だった?』

 その日から、わたしの“過ち”は続いている。


 続いていたはずだった。


   * * * * * * *


「ねぇ、れい? 起きてよ……ほら、おいしそうでしょ? 早く食べないとおねーさん食べちゃうよ? ねぇ、ねぇってば……」

 ぐったりとして動かない彼女を前に、どうしたらいいのかわからない。何をどうしたらよかったのか、どうすればこんな……嘘だ、眠ってるだけだ、ねぇ、そうでしょ?

 だってわたしはこんなにも彼女を想っていたし、彼女を救いたいと心から思っていた。この子には幸せになってほしいって思いながら一緒にいたのに……ねぇ、ねぇ。


 震える手を口元に当ててもぴくりとも動かなくて――残酷なまでに、現実は静かだった。

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