第7話


 かいりくはすぐに動いて弁護士さんに再度依頼したようだ。手紙やICレコーダーでの会話や罵詈雑言ばりぞうごんの証拠も提出済みで、階堂亜実かいどうあみに対して前回の罰則や慰謝料の取り決め通り厳しく請求する方針にしたとのこと。交渉には一切応じない、という一貫した姿勢で臨むらしい。しばらく平穏な日常が続いたが、ある日弁護士さんに静香しずかさんから連絡があったらしく、海と陸を通して私に連絡が来た。何でもお父様が亡くなられたので急きょ帰国してきているとのことだった。それで私にも会えるなら会って話しておきたいことがあるので時間を作ってもらえないだろうか、ということだったので、私はOKしてまた海と陸、弁護士さんを通じてお返事をした。

 当日はこちらが指定したレストランの個室で海と陸と私の三人で彼女に会った。レストランには彼女が一人でやって来て、思ったよりも元気そうだった。

「この度はご愁傷さまでした。お悔やみ申し上げます」

 私たちがそう言うと、彼女は黙って私たちに頭を下げた。それから私たちに言った。

「こちらの都合でお時間を頂いてしまってすみません」

 挨拶あいさつが済んだらすぐに本題に入る人なので、彼女はすぐに話を切り出した。

「ちょっとこちらの事情が立て込んでいるのですが、何があっても亜実に対しての請求を取り下げたりしないで頂きたくて、念のためにお会いしておきたかったんです」

 そうして一緒に食事をしながら、彼女は少しだけ家庭内の事情を話してくれた。先に知っていた方が対処するときに都合がいいだろうから、と言って。

 簡単に要約すると、彼女たちの父親は自死をしたそうだ。彼女は家族や血縁者たちとは既に縁を切っているので法的な手続きのために一時帰国していて、お葬式などには出席していないとのことだった。なんだかちょっとしたお家騒動になっていて、詐欺さぎ脅迫きょうはくまがいのことを家族たちが仕掛けてきたらしく、情けをかけるとぐずぐずになりそうだったので法的にきっちり処理をして静香さんはこれで一切関わらないつもりのようだった。

「こちらの人としての情や愛や誠意につけこんで、どんどん都合よく色んなものを上乗せして、脅したり、同情を買おうとしたり、都合よく話を作って周囲を取り込んだり、嫌がらせをすることで囲い込んで来ようとしたり、とにかく妹の常套手段じょうとうしゅだんのオンパレードでまるで見本市みたいでした。おかげで髪の毛一本ほど残っていた人としての情もきれいになくなりました。それが父からの最後の最高の贈り物だと思います。あんなに自分を甘やかして大切にしてくれた父親が亡くなって少しは悲しみにくれているのかと思ったら早速さっそく悪だくみですもの。本当にあきれました」

 亜実ちゃんは今まで自分を好き放題甘やかして贅沢をさせてくれていた後ろ盾を失ったので、静香さんにしてきたようなことを今後私たちにもしてくる可能性が高いので、そうした戯言たわごとには一切耳を貸さず粛々しゅくしゅくと法的手続きに踏み切るように、と念をおして彼女は去って行った。

「なんか、思わぬところから思わぬ衝撃を受けた気がした」

 帰り道に陸がそう言ったので、なんとなく私と海は顔を見合わせた。

「ふいうちでこれをくらうよりは、先に知っていた方がいい、というのは本当だと思うよ」

 私がそう言うと、海が続けて言った。

「事情がどうであれ、同情を買おうとしたり嫌がらせで囲い込んで来ようとしたりっていうのはあいつの常套手段だし、身内からもああまで警戒されているくらい根が深いものなんだよ、きっと。俺たちがどうこうできるものではないから、俺たちは自分たちのことだけ考えていたらいいんじゃないか。こっちは必要な手続きをする、情けは一切かけない、それでいいんじゃない?」

 私が黙って頷くと、陸も

「そうだな。それに、なんか階堂には他者に対して変な甘えとか期待があるみたいだから、それは通用しないし、自分がしたことの責任も自分でとらなくてはいけないことを知るいい機会なのかも。素直に認めるとは思えないけれど。でももう俺らにはもう関係ないことだしな」

 何となく私たちはそのまま帰り道を黙って歩いた。

「私たちが当たり前だと思っていることって、実は当たり前ではないんだね。一瞬先って、やっぱりどうなるかわからないものなんだね」

 何となく私がそう言うと、陸がうなづいた。

「先がわかっていて安全が保証されているって思うのは、そう思わないと怖くて先に進めないからなのかも。一種のお守り代わりとか、幻想でもそういうことにしておかないと今の生活が回らないから、何となくそう思い込ませているのか、それとも日常に麻痺しているのか、とにかく、実はそうでもないらしいって目が覚まされるまでは、それがずっと続いてしまうものなのかもしれない」

 海は前を見ながら言った。

「死んでから後悔するのは嫌だな。死んだ後にも後悔なんてできるのかわからないけれど。それくらいなら、俺は一瞬先が闇だってことを忘れないでいたいな。だからってびくびくしたりもしたくないけれど。それが平常だっていうくらいにしっかり腹決めして生きていく方がいいな」 




 それから数日後のこと。私はまたもや登校中にあの伝書鳩の女の子に呼び止められて、強引に押しつけるようにして折りたたまれた手紙を渡された。

 すごいな、またかよ。

 ちょっと感心しながらも、私はそれをどうするべきかしばらく眺めてしまった。手のひらにあるった形に折り込まれた小さな手紙。今ここでぽいっとゴミ箱に投げ捨ててもいいわけだし、そうすべきかのような気がしたが、結局怖いもの見たさで開いて見てしまった。内容を要約するとこうだった。


・自分は周りのみんなのことを考えて一生懸命になっていただけだった。

・特に悪意があってやったのではない。

・あのときはもうそうするしかなかったのでそうしただけ。

・つい衝動的にしてしまっただけで、自分も心が傷ついていてパニックになっていた。

・私たち(と海と陸が依頼した弁護士)が追い詰めたので、父親が自殺してしまった。

・もう十分傷ついているのでこれ以上もう責めたり傷つけないでほしい。

・自分に悪意があると考えているのは私たち(と海と陸が依頼した弁護士)の思い込みでしかない。

・特に私(神奈)には被害妄想があるのかもしれないから病院へ相談に行くこともお勧めする。

・統合失調症という病気があるのを知っているか。

・もしその病気であれば障害者手帳が発行され色々なサポートが受けられるのできっと役に立つだろう。


 あきれてものも言えないとはこのことなのだろう。あまりの内容に衝撃を受けていたら、思わず電車を二駅ほど乗り過ごしてしまったほどだ。すごい。何が何でも自分は間違っていない、正しいことにしたいんだ。極めつけに、ご丁寧にこちらを心配するふりで被害妄想の狂人に仕立て上げようとまで画策してる(でもこんなあほらしい戯言たわごとにまともに耳を貸す人なんていないだろうに)! もはや何かの冗談なのか? これはある種のサプライズゲーム?? 何でこうなるんだろう。どういう思考回路でこうなるんだろう。何だか考え出したらこっちがおかしくなりそうだった。

 海と陸に知られたらなんかややこしくなりそうなので、その手紙はなかったことにして、私は自分の生理用ポーチの中にそれをしまった。とりあえずここに入れとけば落とす心配もないし。本当はこれも証拠として提出して、更に厳しく弁護士さんに追及してもらう方がよかったのだろうけれど、私たち(と海と陸が依頼した弁護士)が追い詰めたので、父親が自殺してしまった、という言い分に引っ掛かりがあって、何となくそうした。私は静香さんが滞在しているホテルに電話をして、彼女が帰国する前にもう一度彼女の宿泊先のホテルで会う約束をした。




 そしてその日のバイトの帰りに聖一さんが車で送ってくれている時のことだった。

「僕は昔からちょっと人よりも勘のようなものが良くて、それで仕事でもうまくやってきたんだけれど」

 そう言って彼は煙草たばこに手を伸ばし

「吸ってもいいかな」

 と私に訊いたので私はうなづいた。

 彼は運転席から操作して私の側の窓を少し開けてくれて、自分の煙草に火をつけた。

 煙を吸い込んで吐き出しながら彼は前を見つめていた。

「初めて神奈ちゃんと会ったときに、この子は僕のパートナーになる子だな、って何となくわかったんだよね。僕はたまに何となくいろんなことがわかるときがあって、それは今まで不思議に外れたことがないんだけれど、君を初めてみた時、この子は僕の《ラストダンス》のパートナーでもあるんだな、ってことが何故かはっきりとわかったんだ。人は死期が近づくと、自分の身体に残っているその人生の記憶やエネルギーや経験に最後の表現をさせて語らせることがある。死が見守る中で、人生の最期に追憶をして最後の表現をさせるんだ。そしてそれを贈り物にして遺すことがあるんだけれど、それを先住民族の伝統では《ラストダンス》と呼ぶんだよ。君は僕の最期の贈り物の受け手なんだと思う」

 私は黙りこんでいた。

 彼の不思議な話には慣れっこになっていたから、それに今更驚いたりはしないけれど、でも、この話は違う。あまりにも不穏な要素がはっきりと言葉にして語られてしまっている──死期、とか、死、とか、最期とか──心臓をきゅうっと掴まれたみたいに苦しくなっていたら、彼は窓を大きく開けて

「大丈夫? 気分悪い?」

「うん、だいじょうぶ」

 言いながらも私はちょっと胸が苦しかった。なんだかやたら動悸どうきがしていた。

「そんな顔しないで大丈夫だよ。まだまだ先の話のことだから」

 彼はちょっと笑って私に言った。

 ほっとしていいのか悪いのか、それでも、私はちょっとほっとした。

「そんなに心配してくれなくてもまだ死なないよ」

 あまりにも訊きにくいことを彼の方から笑って言ってくれたので、ほっとしていいのか悪いのか、でもほっとしつつ、それでもまだ動悸はしていたので身動きせずにじっとしていた。

 彼は煙草を片手に前を向いたまま淡々と話した。

「死が近づいてそれに見守られる中で、生命はその一生の最後に死という概念がいねんを超越するような不思議な振る舞いを見せたり、驚くような信じられないような在り様を見せたりする。特別な何か、重要で深遠な出来事が進行中であれば、その間は死さえも延期したりする。そうして最期の贈り物を遺して逝くんだよ。僕はそれを君に受け取ってほしいし、しっかりと受けとめて、それを君の生命の環の中に入れていってほしいと思っているけれど、でもそれは君しだいだ。君がどうしたいか自分で決めることだから」

 そう言って私をちょっと見てから、また前を向いて言った。

「今すぐにどうこうということではなくて、ただ知っておいてほしかったんだよ。頭の片隅にでも置いておいてほしいなと思って」

 私はまた苦しくなってきた。動悸がさらに激しくなり、いきなり見知らぬ場所に放り出されたような、そんな所在ないような、心細さのようなものに襲われていた。

「それって──」

 これは、目の前にいる彼が亡くなるということを既に前提としている話なの?

 彼が亡くなるときに何かを私に伝えるということなの?

 いつかは誰もがこの世を去るわけだけれども──

 ぐるぐると考えが駆け巡りめまいがしそうな感じだった。なんだか汗が吹き出してきて、手のひらがじっとりと汗ばんでくるようだった。

「まだまだ先のことなんでしょう?」

「そう。まだまだずっと先のことだから、そんなに心配しないでいいよ」

 彼はそう言ってから、また前を向いて運転しながらしばらく黙って煙草を吸っていた。火のついた煙草の先から煙がゆらゆらとたちのぼり、空気の中に解けていった。

 煙をなんとなく眺めていたら、また白昼夢の中に入りこむ様な感じになった。私と彼と世界の輪郭りんかくが溶け合い混じり合うような不思議な汽水域きすいいき。そこを泳ぐようにして意識の不思議な領域に入りこみ、私はこれらのすべてを見守っているような静かで明晰な場所に導かれる。

 透明な眼差しでその全てを見守っているような静謐せいひつな空間──時間や世界が停止したような──。そして、次の瞬間には、またふっと意識が日常に戻った感じがした。

 動悸はいつのまにかおさまっていた。

 夜の闇の中をすべるように一直線に走る車の中で、私は黙りこんでいた。

 死とか、死期とか、最期とか、どれもできるだけ遠く離れたところに置いておきたいものばかりだった。あるのは知っているけれど、わざわざ今それを見なくともいいでしょう、そう言って、できるだけずっとないふりをしていたいものばかりだった。でも、いずれはそれをちゃんと見なくてはならないときがくるし、それは避けられない。避けて逃げ続けることも可能かもしれないけれど、そんなことをしても、いずれそれは追いついてくる。

 それが平常だっていうくらいにしっかり腹決めして生きていく方がいいな──

 海はそう言っていたけれど、そんなふうに、死という決定事項にまで覚悟を定めて生きることも可能だろうか。死期が迫った人は皆そういう心境でいるのだろうか。それにたとえ自分に関しては覚悟ができたとしても、大切な人をこれから喪う、となるとまた違う気もするし──というより、刻々と迫りくるその喪失の瞬間にいつもきりきりと胸をしめつけられるようなとても苦しい気持ちで、大切な人を喪うための道を伴に歩いていくようなものなんじゃないだろうか。それはとても苦しい──自分のことよりもずっと苦しい。

 彼は私をちらっと見ていった。

「そんなに怖がることないんだよ。死は最高の教師でもあるんだから。僕らはそこらじゅうにそれが溢れている世界に生きているし、いつだってそこから学ぶこともできる。もっと深いところで自信をもって、視野をひらいておおらかに見ていってごらんよ。それが悲しいものや、苦しいもの、嫌なもの、きたないもの、むべきものというのも思い込みや刷込みでしかないんだよ。治らない病や絶え間のない苦痛にさらされているひとからしてみたら、死は最後の恩恵で解放でもあるでしょう。それがたとえ自死という形であってもだよ。人間の社会でつくられた道徳規範の呪縛からも脱け出して、もっとおおきく見てみてよ。それも自然のプロセスのひとつで、めぐる季節のようなものだと思えばいいんじゃないかな」

 そう言ってから彼は煙草を灰皿で消した。

 廻る季節。そう言われると、視点が少し上方へシフトして、鳥のように舞い上がり上空から見ているようなひろい気持ちになるような気がしてちょっとだけ楽なような気もした。なんとなく救われる、というとへんだけど。鳥の眼差まなざしになってみると、ちょっとしたことだけれど実際に気分が楽だった。楽に息がつける。視点をシフトさせることによる恩恵のようなものかな。そう考えていたら、聖一さんが私を見ていた。いつのまにか車は信号待ちで停車している。彼は私と目が合うと、にこっとしてまた前を向いた。ちょうど信号が変わり、車が静かにスタートした。

「君は自分ですごいスピードで成長しようとしているから、色んなものを見せられたり聞かされたりするだろうけれど、死を自分の中に消化できていけば、何があっても乗り越えていくと思うよ。死と再生の門をくぐって新しい世界に大きく拓かれていくと思う。

 生と死はコインの裏表で別物ではないでしょう。便宜べんぎ上対立する概念としているけれど、本当はそれは同一線上にあるものの両端だったり、円環のスタートとゴールでもあるでしょう。自然のプロセスにもっともっと大きく目を拓いていって理解を深めていくことで、君は新たな力を自分の中に生み出すこともできる。どんどん自分にかけた呪縛や思い込みなんかを解いていくことだよ」

「思い込みや呪縛ってそんなにたくさんあるの?」

 自分ではわからないそういうものがたくさんあるのかな、なんかイヤだな、と思いながら尋ねると

「そうだけど、でもそれは、ある程度までは揺りかごみたいな役割もしてくれるんだよ。それに守られることもある。だから規範とか道徳とか、社会で有用なものとして大切にもされるし、実際にそれは役に立っている。でもあまりにもそれが頑なになりすぎたり、硬直化してしまうと、それを簡単に悪用されることにつながるし、現実に合わないものになっていることすらちゃんと認識しなくなる。そのために、視点を切り換えてそこから脱して物事をバランスよく見れるようになる必要があるってだけ」

 ふーん、なるほど。

 なんかわかりやすいかも。

「分かるような気がする。これがいいこと、みたいな鉄板のものがあると、かえってそれにつけこまれやすい、みたいな感じ? 例えば愛とか優しさとか」

 私がそう言うと、彼は前を向いたままで言った。

「目に見えないものなだけに、そう言い張ってしまえば、本質が異なるのにそれがそうであるかのように通ってしまうこともあるから、だましたり誤魔化ごまかしたい方からしたら都合のよい口実や免罪符だね」

「本当だね」

 私は何となく亜実ちゃんのことを思い出していた。

 彼女は私や海や陸から、愛や優しさのようなものを引き出そうとして、そうしてそれにつけこもうとしていた。人が人を想う自然な思いやりや良心、真心とか、そういったものを強引なやり方で無理矢理に引き出して、そこに色々なものを上乗せして、自分の要求を通すための入り口として使おうとしていた。

 もし私が彼女に対して愛や優しさや思いやりを持たねばならない、と自分で鉄板の戒律を自分に課していたら、あっさり彼女の手口の餌食になってしまっていただろう(幸か不幸か私にはそんな優しさも思いやりも鉄板的戒律もなかったのでよかったようなもので)。それは愛や優しさを要求するようにみせかけて、支配や操作の口実をのませるための、コントロールルームへの開錠を要求するようなものだ。本来ならその相手が入ることは許されない、はじかれるべき場所に侵入するために、愛や優しさを口実にして、おまえには人間の血が流れていないのか、思いやりや優しさはないのか、とか罵倒ばとうされたり同情を買おうとされたりしたら、規範意識が硬直化している人ほどひっかかってしまうんじゃないだろうか。

 こうするべき、こうであるべき、こうしなくてはいけない──それはその人を縛る牢獄にもなるし、そこにとらわれて、彼女のような人間に愛や真心や優しさを要求するようにして、その人の心の奥の最も柔らかな部分にまで侵入されて支配されたとしたら、それはその人にとってある意味では生き地獄みたいなものにもなりうるんじゃないだろうか。

 そこから逃れるためにはもうすべてを捨てるしかない、自分の命さえも捨てるしかない、そうでなければ逃れられない、そんな風に追い詰められてしまうことだって、あるんじゃないのだろうか。

 いい悪いでも善悪でも正誤でもなくただ単に、いやだ、それだけの話なのに。

 なんとなくそんなことを流れる景色を眺めながら思っていた。 

「成長するということは、限界のある今の自分自身の死を受け容れて、それを超えて再生していくことでもあるんだよ。従来の生き方をてて、新しい生き方へと自分を拓いていく。それは死と再生の通過儀礼であり、生きることと死ぬこと/成長することは切り離すことはできない。変化すること、成長することの過程を阻み、制限することは、人間を圧殺することと同じ。いずれ僕たちは全てを棄てていかなくてはならない。真実の自分ではないものの全てを。誰かや何かに押しつけられたもの、自分できちんと判断しないままに受け入れてしまってきたもの、ならってきたもの、そうして受容してきてしまったもの全てをね」

 彼が前を見つめながらそう言ったので、私は彼を見た。

「自分自身の命を喪うことや大切な誰かを喪うこと、その予感ですら、それは魂に生命の飢餓きが感をもたらす。その飢渇きかつの苦しみはそのまま今の生そのものへの執着でもあって、それはそのひとの全存在からき上げてくる業苦のようなもの。一瞬で心も体も凍りつかせ、次の瞬間には猛火に内側から焼かれるような苦痛をも与える、生きながらの拷問ごうもんにもなりうる。これは既に死へ片足を突っ込みながらも、もう片方では生へと必死にしがみつく絶望的なあがきで、狂気のダンスでもある。これが我の消滅への真実の通り道でもあるんだよ」

 彼はちらっと私を見てから、また前を向いた。

 そして言った。

「それがガラス越しに見る風景なら、そこに吹いている風の強さや湿度や温度なんかに直接触れることはできないでしょう。死は生きることの一部でそれは必須項目だけれど、ガラス越しにそれについて考えているだけでは成長することはできないんだよ。でも、死が自分自身に差し迫ったものであったり、愛する誰かに迫るものであれば、ひとはそれを直接受け止めていくしかない。生きることを学ぶためには死ぬことを学ぶ必要があるんだよ。僕らが死との境界線に立つときは、いつでも本当の成長への機会に立っている。成長への一足一足ずつは、そのままその人を縛っていた色々な手枷足枷てかせあしかせを解いていくことでもある。成長するために僕らは絶えず死に、そして生まれ変わらなければならない。毛虫が蝶に変わるように、どうしても今までの自分を捨ててからを脱け出していく必要があるんだよ」





 静香さんとは彼女の宿泊先のホテルの部屋で会った。海と陸には一応彼女に会ってくるとは伝えておいたけれど、亜実ちゃんから渡された新たな手紙については言わないままでいた。

 私は時間を頂いたことにお礼を言ってから彼女にならって、単刀直入に用件を切り出した。

「実は亜実ちゃんから手紙を頂いたんです。知らない女の子から渡されるようにして」

 そう言って例の手紙を出すと、彼女は見ていいの? と私に念のため確認してからそれを開いて見ていた。そして一通り目を通してから、

「父のことを訊きに来たのね?」

 と私に言った。

「そうです」

 ここに書いてあることは本当なのか、それを確かめたかったから。時期的にそれに関しては本当であってもおかしくなかった。彼女に対して厳しく責任を追及する方針を固めて具体的に動き出した矢先だったからだ。

「言ったでしょう。人の持つ愛や優しさや真心を利用してつけこんでくるのが彼女の常套手段。気にする必要などないのよ」

 そして私の顔を少し見つめてから、ひとりごちた。

「でもそれができるなら、わざわざこうして訪ねても来ないわね」

 そうして彼女は私に何か飲む? とルームサービスのメニュー表を出した。

「いいえ」

「じゃあ、紅茶を頼むので一緒に飲みましょう」

 そう言って彼女はさっさとルームサービスを注文してから私に話してくれた。

 父の自死にそれが関わっていたかどうかは、今となっては誰にもわからない。きっかけのひとつではあったかもしれなくても、それだけが全てではない、と。

「娘を甘やかし続けた結果、父は娘を守る父親の役割の牢獄から脱け出すことができなくなった。私とは違って、あまりにも父は優しすぎたのかもしれない。家族を捨てることや見捨てることが本当のところではできなかったんだろうと思う。私も娘だけれど私は自分からそこを出たし距離をとったので、父に対してもわだかまりが全くないとは言えないけれど、それでも気の毒に思う。どうしていいか本当にはわからないまま、大きなうずの中に巻き込まれて呑まれていったように見えるから」

 そう言って彼女は私の顔を見た。

「納得した?」

「何となく」

 私が複雑な心境を正直に話すと、彼女は続けて言った。

「父の個人的な資産はほとんど妹に食いつぶされていたの。残っていたのは個人資産のわずかなものと、まだ相続が完了していない祖父の遺産だけだった。元々その相続問題で身内でもめてもいたので、それもあって父が亡くなった後にまたもめたけれど、そんなことよりも、私にとって一番のショックは、父が自分の健康管理もおろそかにして際限なく甘えてくる娘に尽くすための費用を捻出ねんしゅつしようとしていたこと。ほとんどもう自暴自棄じぼうじきなやり方で、それでもまだ父親の役割を果たそうとしていたことだったの。身体もぼろぼろだったのに、受けるべき治療も受けていなかった。いずれ崩壊の時が来るのは彼自身が一番良く知っていたはず。それでもそこから出られなかったし、出ようとしなかったの。唯一、死というものを通して、ようやくそこから彼は解放されたようなものだったのじゃないかしら? 

 家族という呪縛は、愛するものへの思いを断ち切ることのできない人にとっては、生き地獄のようなものにもなりうるのよ。本当はそのおりから自分で出て行けばいいのだけれど、愛や優しさにとらわれるあまりに出口を見失って、大きな渦に巻き込まれ呑まれるようにしているうちに、気づいたら、いつの間にか、もうそこから自分で生きて出て行くだけの力をすでに失ってしまっている、取り返しのつかないほどに消耗してしまっている、そういうこともある」

 淡々とそう話してから、ちょうどルームサービスが到着したのでそれを招き入れて、彼女は私に紅茶を勧めてくれた。私たちは黙って熱い湯気をたてる紅茶を飲んだ。

「これで納得してくれた?」

「すみません、個人的なお話をほじくるような真似をしてしまって」

「いいの。こんなものでも役に立つなら、私も亡くなった父も本望だと思うから」

 彼女は淡々とした口調でそう言った。

 私はちょっと黙り込んだ。そうしてふと思いついたように、気づいたら聖一さんがしてくれた話──ラストダンス──死を目前に控えた人が、信じられないような振る舞いをして、それを最後の贈り物として残して逝くことがある、という話を彼女につらつらと話していた。先住民族の伝統では、それはラストダンスと呼ばれる最後の贈り物なのだ、と。

 彼女は黙って聴いていた。

「お父さんは、最後の贈り物としてあなたたち姉妹にそれをのこして逝かれたんじゃないでしょうか。それをどう受け取るかはそれぞれだと思いますが、結局は、それぞれがこれからどう生きていくのか、それに尽きることだとそれもすべてわかった上で、それでも最期に贈り物を遺して逝かれたような気がします」

 差し出がましいことを言ってしまったかも──そう思ったときには既にもう話し終わった後で、でも、彼女はしばらく黙って私を見つめてから、

「どうもありがとう」

 と静かに言った。

 それだけ。

 でも、何となく私は彼女に受け入れられたような気がした。

 そうして私たちはお互いにお元気で、と挨拶し合い、微笑みを交わしてから別れた。

 彼女の部屋から帰る途中で私はトイレに行きたくなって、化粧室を探してホテル内を彷徨さまよい、何か貸しホールのような大きな部屋がいくつもあるフロアに出た。やっとそこで化粧室を見つけて一息ついてからまた帰るときに、その貸しホールの一室で法事か何かで集まっている人たちのいる部屋を通りかかった。その会場では両開きの大きな扉を開け放したままで、大きな声で話しているのが外の通路にまでやたら響いていた。ちょうどエレベーターの前にその会場があるので、どうしても聞こえてしまう。

 私はエレベーターを待ちながらなんだか居心地悪い気分でいた。

 室内からは良く通る明瞭めいりょうな声質の女性の声がしていたので、それは外までかなり響きわたっていた。

「次はあなたたちの番ね、おめでとう! しっかり生き地獄を味わってくるといいわ!! 簡単に死なないで、たっぷりとその身を持って自分自身のしてきたことの結果を、それによって買った人の恨みや憎しみを、死んだ方がマシだと本当に思うほどに受けてくるといいわ!!!」

 そのものすごい言い草に、つい私はそっちに目をやってしまった。

 声の主の女性は一人の男性のそばに近づいて耳元で何かささやいてどこか別の場所に移動していったようだ。

「何? 何を言って行ったの?!」

 その男性の妻らしき子連れの女性が鬼のような形相でそう食って掛かるようにきいていたが、男性は困惑したように

「わけのわからないことを言って行っただけだよ」

「だから何だってきいているの!!」

「カッコウの子供が生んだ子供もカッコウかもしれないよ、そう言って行っただけだよ」

「なにそれ、カッコウの子はカッコウだし、その子の子もカッコウでしょうよ、何なの?」

「だからわけわからないって」

 その中で意味が解っていそうな人もいた。そわそわと急に落ち着きがなくなって、しばらくしてその人はそそくさとその場から去って行った。すごい形相で夫に食って掛かっていた女性の母親のようだった。容姿がよく似ていたのですぐにわかった。それを見送りながら私は何となく察していた。どうやら思わぬお家騒動に出くわしてしまったようだ。

 ついのぞき見してしまったことにばつが悪い気持ちで、やっと到着したエレベーターに私は乗りこんだ。そうしてその会場を後にしたので、その後のことは知らない。でもこの出来事はある意味でこれから起こることの前兆だったのだった。




「神奈の家に泊まりに行ってもいい?」

 土曜日、バイトの帰り際にキイナに突然そう言われた。何かあったな、と思った私はOKして彼女と一緒に家に帰った。両新には既に連絡してあったので特に問題はなかった。可愛らしい女の子が遊びに来たことで父が浮かれていた以外は。

 キイナは私の部屋のベッドで一緒に眠った。

 すうすうとすこやかな寝息をたてて眠るキイナの寝顔をなんとなく眺めていたら、やっぱり兄妹だなあ、聖一さんとちょっと似ている、とか思ったりして、細面のきれいな輪郭りんかくとかすっとした鼻筋とか、色素の薄いさらさらした髪の毛とかをまじまじと見つめてしまった。

 一緒に帰宅する際にも帰宅してからも彼女は特に何も言わないので、私も何も訊かなかった。

 何があったんだろう、と思いつつも考えてもわからないので、私は彼女が眠る隣でスタンドの明かりをつけて聖一せいいちさんに借りた本を読んでいた。そろそろ眠ろうかな、と思って本から顔を上げたら、キイナが起きてこっちを見ていたので、ちょっと驚いた。

「起きてたの」

「うん、なんかぼうっとしてた。なんでカンナがいるんだろうって」

「それは私の部屋だからだよ」

「わかってるよ」

 笑ってキイナはとうとつに言った。

「うちの親、離婚するかもしれないの。私が成人するまでは一緒に暮らすことにしているだけだって母が言うからショックで。普通に仲がいい家族だと思っていたのに」

「なんていうか、それはショックだよね」

 桜澤さくらざわ家の仲の良さに何年も親しんできていた私もショックだった。

「仮面夫婦とかいうやつ?」

「うーん、そうなのかな。でも仲はいいんだよね。だけど、一旦解散したほうがいいんだって母が言うの」

「ふーん」

「それで、もうひとつショックなことがあって」

「何?」

「聖一兄さんって実は父の子供じゃないんだって」

 私とキイナは無言で目を合わせてしまった。

「それは、異父兄妹ってこと?」

「そう」

 なんか人のプラヴァシーを断りもなく聴いているような落ち着かない気分になってきた。

 キイナはベッドから身を起こすと、膝を抱えるようにして座った。

「考えてみたら一の字って長男につける字だよね、ふつう。でも何も不思議に思ったことなかった。それに聖一兄さんも知っていたんだって。小学生くらいの頃からもう知っていたみたい。何で知ったのって訊いたら、勘のようなものでわかったんだって言ってた。それもあって離れの別の家で暮らしていたのかなあ、って今からなら思うけれど、私はそんなこと全然わからなかった。聖一兄さんと父は普通に仲良しだし、昔から家族みんな本当に仲が良かったから」

「……」

「聖一兄さんは母の昔の恋人の子供なんだって。でもその人は聖一兄さんが生まれる前に既に亡くなっていて、母としか子供をさなかったので、絶対に産むって言って産んだって言っていた」

 ますます居心地が悪くなってきた。

 こんなこと、彼に断りもなく聴いていていいんだろうか。

「元々は父が浮気して母が家出していたところに元恋人と再会してそうなったらしい。当時は二人の兄が既にいたし、いつまでも兄たちを放っておくこともできないので母が一旦家に戻って、父と離婚についての話し合いをしていた矢先に、元恋人は事故で突然亡くなってしまって、それからしばらくして妊娠が発覚した。それで元々父は母とは離婚するつもりがなかったので、絶対産むと言った母ごと引き受けることにしたんだってさ。だから聖一兄さんも戸籍上は父の実子なの。なんか親の生臭い話を聞くってのも、変な感じだけど、元々男と女の組合せが夫婦で父母なんだものね」

 聖一さんだけ毛色が違う──そういえば聡子さとこはそう言っていた。

 自分が婚外子こんがいしだと既に知っていた小学生の彼のことを思った。

 おとなびた眼をした聡明そうな少年の姿がふっと浮かんだ。

「それで、話が戻るけど、その後に四男長女と私たちもつくっておいて、何で今更って思ったら、父の浮気がまた発覚したからなんだってさ。もーほんと、うちの親って何やってんの、って感じでしょ?」

 キイナの言い方がおかしかったので、笑っちゃいけないと思いつつ、笑ってしまった。

頑固一徹生真面目風がんこいってつきまじめふうのキイナパパが浮気の常習犯だったなんて、ちょっと衝撃」

「ほんとだよね。あんな真面目そうなかおして詐欺じゃん」

「それはひどい」

 言いつつも笑ってしまった。

「でも良き父なんだけどなあ。良き夫かどうかは怪しいけど、本当に私たちみんな特に差をつけられることもなく普通に大切にされてたし、聖一兄さんとは二人で飲みに行ったりもするくらい仲良しなのに」

「そうなんだ」

 何となくほっとしている自分が居たりして。

 そうか、聖一さんはちゃんと大切に愛されてきたんだ、よかった──おとなびた眼をした小学生の彼の映像が思っていた以上に刺さっていたようだ。

 キイナはため息まじりに言った。

「もういい年なんだから母も父の浮気なんて放っておけばいいのに、とも思うんだけど。そうもいかないみたいだね。いくつになっても嫉妬ってあるんだなーって思ってしまった」

だまされてたのが嫌だったのかもしれないよ。夫婦として妻からの協力や努力の恩恵を受けていながら、本当のことを話していたらそれは受けられなかったかもしれないんだから、騙してその恩恵を受けようとしたってことでもあるし。夫婦であることの恩恵は受けたいけれど、夫婦としての足かせは自分だけこっそり脱け出してる、みたいな感じが嫌なんじゃない? フェアじゃない感じだし」

「ふーん、そうか。じゃあフェアにやる分はいいのかな? たとえば母にも同じ自由を保障してあげるとか? 私だったら、やっぱり同じ権利を保証してよって思うかも」

「私もそうかも。でも、お互い浮気公認だとしても、何かやっぱりもめそうな感じもするなあ」

「そうだよね。私もそんな気がする。何かうまくやる方法ってあるのかな」

「どうなんだろう。不公平な関係に留め置かれたり、愛情を競い合わされるようなことがなければ、基本的に独占欲や嫉妬なんてそもそもあまり関係ないんじゃないかなって気がするんだけど。あ、もちろん病気の問題もあるから、それもちゃんとクリアしてほしいけど」

「カンナって面白いこと言うね」

「想像で言ってみただけだから、実際そうなってみたらやっぱり無理ってなるかもしれないけどさ。でもそこまでして夫婦関係を続けるほど相手への愛情はないって言うんなら、私だったらさっさと別れてスッキリしたいかな」

「私もそうかなあ。意味のない形だけの関係に縛られたくないな。自分が妻の立場ならそうだけど、でも父と母という二つの大きな柱が永遠ではないっていうのは、子供としてはなんだかせつないものがある」

「ふむふむ。複雑ですな」

「そうなのです」

 気軽にすきなことしゃべっていたらおなかがすいてきたので、キッチンから飲み物とお菓子を仕入れて、私たちは朝方まで二人で色々お喋りして過ごした。それはここのところ色々あった私にとっても楽しい時間でもあったので、私の方がキイナに助けてもらったみたいなそんな気がした。



黄菜きいなに聞いたんでしょう」

 日曜もバイトに入っていたので午後にキイナと一緒に桜澤家へ向かい、何だか気まずい気分で聖一さんのところに行ったら、私の顔を見るなり彼は笑った。

 私は何だか恥ずかしくなりつつ、うん、とうなづいた。

「桜澤家の秘密を聞いてしまいました」

 彼は冗談めかして言った。

「黄菜がお世話になりました」

「いえいえ」

 そんなやりとりをしていたら気分もほぐれたので、いつも通りに仕事にとりかかった。彼も普段と変わらないのでいつの間にか桜澤家の秘密を見た! みたいな気まずさは忘れていった。それでその日の帰りにまた彼に車で送ってもらっていた帰り道、

「君はまた仏心を出そうとしているでしょう」

 とうとつに彼は言った。

「え?」

 何のことかわからずに私が訊き返すと、彼は前を向いたままで言った。

「自分に必要なことをきちんとすることだよ。相手がどんなに同情すべき状況にあったとしても、君の真実を相手の為に歪めたり遠慮したりする必要はないってこと。君はただ自分に正直でいればいいんだよ。そうでなければ、自分がしたことがどういうことだったか、相手は本当に知ることができないでしょう」

 亜実ちゃんのことを言っているんだな、とわかったので、私は彼をなんとなく見つめたままそれを黙って聴いていた。

「仏心を出して手心を加えようとしないでいいんだよ。それに君の仏心に、今まで何度も相手はつけこもうとしてきていたんだから。それで自分が何度傷ついてきたか、よく考えてごらん。君の中には、相手のことを理解しなくてはいけない、たとえその相手から自分がどういう扱いを受けたとしても思いやりを持たないといけない、という思い込みや呪縛が自分でも思うよりもずっと根深くあるんだよ。君が別に相手を理解したり受けれたりする必要はないし、君は自分に必要な事をすればいい。そうして自分に正直でいればいい。別に相手を許したりする必要なんてないんだから。それよりも君は自分自身を許すことだよ」

 生理用ポーチに入れっぱなしになっている手紙をなんとなく思いながら、私は彼に言った。

「怒りにまかせて何かを言ったりしたりしてはいけないような気持ちがどうしてもあるから、つい抑えてしまって、そうして時間が経つと、もう済んだことだしいいかな、ってなんか勝手に思ってしまったりしてきたけれど、もしかしたら、それが増々相手をつけあがらせてきたみたいなところがあったのかもしれない」

 彼は私をちらっと見てから前を向いて淡々とした口調で言った。

「君が本気で怒っているなら、それを相手に君が正直に伝えることがなければ、相手は自分がしたことが君にとってどういうことだったかを本当に知ることはないでしょう。衝動的に何かすることを恐れるあまりに、君の真実を歪めてしまったら、それは相手に正しく伝わることもないでしょう」

「そうだね」

「相手に対して誠実であろうとする前に、先ず自分自身に誠実であることだよ」

「そうだね。言われてみたらそうなんだよね。どうしてだろう、いつの間にか、自分よりも相手を優先にすることの方が大切ないいことみたいに思ってしまうことってあるよね」

「そういう刷込みがたくさんあるから。本来なら自己のために自分を変えていくべきところで、他者(自己以外の何か)のために自分を変えていき、本来なら自らの責任として引き受けて自らが変容へんようしていくべきところで、他者の責任にすり替え他者を変容させようとする──そうした顛倒てんどうがまかり通ってしまっているんだよ」

「顛倒ってなに?」

「逆さま」

「あ、なるほど」

「本当に自分自身を大切にすることでひとが支配や操作の呪縛から脱け出していくのを快く思わないひとたちもいるから、そういう思い込みや刷込みがたくさん良いこと素晴らしいことだとして社会に出回ってしまっているんだよ。宗教の世界でも同じ。でも本当に自分を大切にできない人は本当に相手も大切にすることはできない。これは真理。自らをちゃんとありのままに尊重できない人は、他者をありのままに尊重することもできない。だから表向きでは善行にはげみ、陰ではこっそりと陰湿な嫌がらせやなんかにいそしんだり他者を支配したり抑えつけたりして搾取さくしゅできるところから搾取しないと自分自身のバランスをとることができなくなっていくんだよ。そういう人たちを君も沢山たくさん見てきたはずだ。そしてこれはそうした人たちとの関係性の中で、負の連鎖れんさとして繰り返されていくことになってしまう。この負の連鎖を断ちたいなら、先ずはありのままの自分自身を自分が尊重すること。自律した存在としてのあるがままの自分自身を先ず尊重し、その感覚や感情もすべて尊重していけば、自ずとそれは真実の他者理解へと拡張されて深まるものなんだよ。ひとの世界観はそうやって深化し進化する。君の足を引っ張る物事や人の言い分に、あまり耳を貸し過ぎたり仏心を起こそうとしないこと。自分で責任をとらせること。それがそのものにとっての最良の手助けなんだから」



 彼にお礼を言って別れ、自宅に帰ってからお風呂に入っていた時のことだった。

 湯船につかってぼーっとしていたら、湯気の中でまたふっと白昼夢の中に入りこむような感じになった。明晰めいせきな夢見のような状態に入って、私はそこで映画を鑑賞するかのように意識の不思議な汽水域きすいいきを漂っていた。

 子供の世話をする母親の姿がみえた──そして彼女は食事に何かを混ぜている。薬のようなもの。それは神経を麻痺させる種類の毒で、自分の子供を制御しやすくするためにそれを適宜てきぎ与えているので、子供には軽い神経の障害がある、もしくはこれからそれを持つ可能性があるような感じだった。たとえば、嗅覚とか、触覚とか、何かそうした感覚的な麻痺──がその子に残り、その子供はそれを一生背負って行かなくてはならないような種類の毒なのだけれど、彼女はたいして悪いことをしているとは思っていない。

 そうして毒が効き過ぎたときには、弱って具合の悪い子供を熱心に看病し世話をするので、周囲の人たちはその母親を子供想いの熱心な母親だと認識している──何かそういうような感じのイメージが通り過ぎていった。

 それからまたふっと日常の意識に戻った。

 断片的な夢の映像の中で、私はそれが亜実ちゃんやその母親やそうした種類の人たちのやっていることの総合的なイメージなんだな、となんとなく認識していた。

 実際に物理的な毒物を混入しているかどうかまではわからないけれど、少なくとも精神に毒を流し込み、自分の子供を始め制御したい人間に対して害を与え、相手を都合よくコントロールする手段として何のためらいなくそれを使う。そしてたいしてそれを悪いとも思っていない、そういう種類の人間の在り様なのだな、と何となく思っていた。


 結局私は亜実ちゃんから来た新しい手紙を海や陸に見せて、静香さんから聞いた話も聞かせた。手紙はそれだけでもかなり悪質なので、それも弁護士さんに預けることになった。対処は全て弁護士さんに任せることにしたのだ。それもあってかその後彼女からのコンタクトはなかった。




 二人のマンションで夜遅くまでDVDを観ていた時のことだった。リビングのソファに私と陸が座っていて、海が絨毯じゅうたんの上にクッションを置いて寝そべっていた。しばらくして海が眠り込んでいるのに気づいた私と陸は、彼があまりに気持ちよさそうに眠っているので風邪をひかないようにと毛布をかけてあげて、ついでに私が持っていた眉墨で落書きして遊んでいた。陸が眠っているまぶたの上に目を描いて、私が頬に渦巻き模様を描いた。

「写真を撮っておくか」

 そう言って陸はすやすや眠る面白い顔の海を携帯で撮影していた。   

「あ、何か可愛いね。それ私も欲しい」

「いいよ」

 勝手に人の写真をやりとりしていたら、海が身じろぎをしたので起きたかなと思ったが、ちょっと体勢を変えてまたすーすーと気持ちよさげに眠っていた。

 しばらく二人でその姿を見ていたが、ふいに陸が顔を上げて私を見た。

「神奈はバイトいつまで続けるの」

 陸に訊かれて、私は彼を見た。

「それ、前に海にも訊かれた」

 陸は私を見ていた。

「当分やめるつもりないよ」

「なんでそんなに一生懸命バイトしてるの?」

「勉強になることが多いし、面白いから」

「ふーん」

「それに、今の私にとって必要なものだから」

「何でそんなに必要なの?」

 私は彼を見つめた。

「二人にとって居心地がいい私でいるのは、今の私の周りのバランスがいいからでもあるんじゃないかな。そのバランスが崩れれば、私はあなたたちにとって、不愉快な人間になるかもしれない。例えば私が亜実ちゃんのようになりふり構わず他者の愛や優しさにしがみつくようにして奪い取るようになったら、あなたたちは対処に困るはず。たまらずに逃げ出したくなるはす。今の私に必要な関係のバランスがちょうどよくて、うまくいっているから、たぶん私は今の私でもいられるんだよ」

 陸は顔をしかめるようにして怪訝けげんそうに言った。

「神奈とあいつは違うだろう」

「たとえばだよ。それに誰だって絶対にそうならないとは言えないんじゃないかな。人間って実は不安定なものだよ。いつも変化の途上にあるみたいに」

 聖一さんとの関係を人に説明するのは難しい。そこに流れている雰囲気も。それは当人同士にしかわからないものだった。私が彼に支えられているのは確かだったし、それを私も必要としていたのでそう言うしかなかったのだけれど、陸はそれ以上は何も言わなかった。

 つきあっているからといって互いのプライヴァシーを全て開示しないといけないとは思わないし、それにもしそんなことをしたら、そのつきあい自体がおかしくなっていくと思う。相手への誠実さは大切だけれど、それと互いのすべてを知り、理解し合う、みたいなことは違うと思う。相手のことを全て知って理解したい、というのは形を変えた支配欲や征服欲だと思うから。

 なんとなく私たちの下ですうすう眠っている海の髪に触れていた。さらさらと指の間を冷たい髪の感触が通り抜けていくのが気持ち良くてそうしていたら、陸が「なんかそれいいなあ。気持ちよさそう」と見ていたので、

「触る?」

 と、自分の髪でもないが言ってみた。

「いや、違う、海の方。ちょっと俺にもしてみてよ」

 と頭を差し出すので、なんかおかしくて笑いながら彼の髪に触れた。

「寝転がってもいいよ」

 私がそう言うと、陸はガラスのテーブルを少し押しやってその場に寝転んで私の膝を枕にして頭をのせてきたので、そのまま彼の髪に触れていた。

「気持ちいい?」

 言いながら、さらさらと陸の髪の冷たい感触が指のすきまを通り抜けていく感触を私が楽しんでいたら、

「うん」

 と言って、陸はそのまま目を閉じて本当にうとうとしだしだしたので、海の毛布を少し引っ張って海の身体が毛布から出ないように陸にも何とか被るようにした。

 なんか子供みたいな寝顔だな、二人とも。

 そう思いながらすうすう眠っている二人の無邪気そうな寝顔を眺めた(海はかなり面白い顔だったが)。

 骨格とか大きさとかはもちろん昔とは違って、彼らはもう十分大人の男性で、その違いに時々改めて気づいてはっとしたようにもなるけれど、眠っていると、何だか本当に子供のままみたいだった。

 まだまだ大人と子供の間にいる私たち。

 これからまたそれぞれに、新たな扉も開いていくだろう、私たち。

 いつまでこうしていられるんだろうなあ──何となく思いながら私は二人をいつまでも眺めていた。




                                      

                                         後編 終り


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triangulate 後編 天水二葉桃 @amamihutabatou

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