第6話
「なんてことなかった。どういう思考回路でそうなってんのっていうような頭おかしいこと言ってたのは、単にそう言い張ることで
あたまがハジケたかと思われた妹には実は本命の彼氏がいた。そうして、家同士のつながりを
鬼の首を獲った聡子に晴れて絶縁状を突きつけられ、元婚約者は鈴村家から永久退場となった。
「なんていうか。ほんとうにお疲れさまって感じだね」
初めから最後まで、こんなこと現実にあるんだ、というようなものすごい別世界の話だったので、私はただただ感心したというか、人間の多様さってすごい! と呆気にとられるように思ってしまった。
「終わり良ければ総て良し!」
キイナに宣言されて、聡子はそうね、と浮かないかおで言っていた。
「本当にこうやって
「馬鹿げたことに無理やりつきあわされたことで、精神的に思わぬダメージを受けているのかもよ」
私がそう言うと、
「そうかも。なんか妙な脱力感がある。無駄に消耗した虚しい感じ」
「なんかわかるよ」
「後からくるって言うよね。そういうダメージって」
「まだこんにゃろう、って怒りがある分元気だけど、もう少し時間が経ったらどっと疲れが出てはげるかも」
「だいじょうぶ、育毛剤プレゼントしたげるよ!!」
元気よく励ますキイナに
「そこはだいじょうぶそんなことないよ、って言っとくべきでは」
私が地味につっこんでいたら、珍しく聡子は神妙な様子で言った。
「なんかこういうのって地味に精神的にくるものだね。あまりに馬鹿げていたからまっただ中にいる時は、いったいどうしてこうなった、って考えれば考えるほどこっちの頭もおかしくなりそうだったし距離をとっていたけれど、それでもただ関わりを持ってしまった事だけでも、実はものすごくこちらの生命力というか健康的なエネルギーのようなものをわしづかみにされて奪っていかれたみたいな、へんな消耗感があるというか。酷い暴力を受けたあとみたいな妙な
何となくわかるな、と思いながら頷いていたら、キイナが
「ちょっとわかるかも。その相手とただ関わってしまったっていうだけで嫌な不快感が残ることってあるよね。気づかなかったべたべたした古い油汚れをうっかり触ってしまって、石鹸で洗っても全部きれいにはなかなか落ちなくて、しばらく違和感が残っているみたいな。でも、新陳代謝というものがあるから、気づいたらこびりついたしつこい汚れと一緒に古い角質もなくなっているものだよ」
キイナがそう言ったので
「なんかいいこと言うね、キイナ。ちょっと見直しちゃった」
私がそう言うと、
「見直すってどういう意味よ」
とふくれていた。
聡子は私たちにこうも言っていた。
「今回のことで色々と考えさせられた。家族というものに関しても、自分とは違うそれぞれの都合がある人間なんだから、その人たちの言うことに、そもそも私があまり耳を貸す必要なんてなかったのかなって。結局は自分の都合で相手の為みたいにして動いているだけってことがたくさん見えてきて、その分、もうこれ以上この人たちにつきあわなくてもいいかなって、なんか肩の荷が下りた感もある。何か言われても、私は自分の人生に責任をとっていけばいいだけなんじゃないかって。そんなふうに、気づいたら新しい地点に押し出されていたみたいな解放感もあるから、
面白い夢を見た。
私はどこかのお店で店主と喋りながらおにぎりやパンを買っていて、そのうちお店の二階へ移動した。二階に上がると、土と緑に囲まれた牧歌的な東南アジアの気持よく晴れた空の下に何故か私は立っていた。そして十代の少女たちが売っている編んだかごに入った葉っぱに包まれたおにぎりを買うことにした。そうしたらそこにいた女の子たちみんなが私の買った葉っぱに包まれたおにぎりの上に手を重ねだし、少し離れたところにいたショートカットの不愛想な女の子もそこにやってきて、みんなで当たり前のように、何かそれに祝福の祈りをこめてくれた。私はそれを眺めながら、この子たちにはそれが当たり前の日常なのだ、と少し驚いていた。
見ず知らずの人に渡す自分たちのつくった売り物の食べ物に、相手のための祝福をみんなで祈る。そしてそれをふつうに渡してくれた。不愛想な女の子も自分の役割が終わったのでそのまままたどこかに離れていったので、そこにはもともといた少女たちがいて、日に焼けた浅黒い肌ではにかむように微笑んでいた。
夢から醒めて私は何となく思った。色々な人がいるけれど、こういう風にふつうに人の幸せを祈ったり贈ったりするひとたちもどこかにいるのがこの広い世界なのだわ、と。
この不思議な夢は、これから私に起こることの前に、ちょっとしたエールを神さまが贈ってくれたみたいなものだったのかもしれなかった。
「
見覚えのある
「あいつなんでここの住所知ってるんだ」
「後をつけられたりしてたのかも」
言いながら陸が私たちに
「読む?」
と訊いたので、海が頷いてその手紙を読んでいた。
私はそれをただ眺めていただけ。
読み終わった海は黙りこんでいた。
「
陸に訊かれて、
「いい」
「見なくていいと思うよ。個人的な事情がつらつら書いてあるだけだし」
海がそう言って手紙を陸に返した。
いいとは言ったものの、何が書いてあるのかとなんとなく気分がざわざわしていたら
「入院してるから見舞いに来てくれって」
陸がそう言って封筒の後ろ、差出人住所が病院になっているのを私に見せた。
「行くの?」
私が訊くと、海と陸は顔を見合わせていた。
「これで最後にするから謝りたいみたいなことが書いてある」
海が私に言った。
「なんか意味ありげだね」
「放っておけばいいんじゃないか」
陸が言って、海も
「そうだな」
と言っていたので、この話はこれで終わったのかと思っていた。
それからしばらくして、登校時、電車を乗り換えるために経由駅で降りたところで私は下級生らしい見知らぬ女の子から声をかけられた。彼女の制服を見ながら、この学校に通っている知り合いなんていたっけ、と考えていたら、
「これ預かってきました」
と彼女は私に
授業中に友達とやりとりするような種類のものだった。
何だろう、と思っている間に彼女はすぐに人込みの中に紛れて消えていったので、私はそれをポケットに入れて乗り換えの電車に乗った。
なんとなく嫌な予感がしていたけれど、怖いもの見たさでついその手紙を開いてしまった。案の定、見慣れた綺麗な文字がそこにびっしりとあった。丁寧な細かい文字で書かれたその手紙には、要約すると以下の内容が情緒的につらつらと書かれていた。
・今までのことを直接お詫びしたい
・自分は病気で入院しているので申し訳ないが病院まで来てほしい
・直接謝罪をさせてもらえるならこれで最後にするので、もう一切関わらない
感傷的な彼女の文言にちょっと嫌な気分になりながら、なんかこれ、謝罪したいとか言いながら自分の要求をつきつけているすごく変な手紙だなあ、とまじまじと読み返していた。聡子じゃないけれど、どういう思考回路でこうなるんだろうか、ちょっとその回路の仕組みが見れるなら見てみたいような気がしてきた。海と陸に来た手紙もこんな内容だったのかな。私はそれをまたポケットにしまった。そして忘れていた。
その手紙が何かの拍子にポケットから落ちた時、あ、まずい、と瞬間的に表情に出たみたいで、私をじっと見ていた海がそれを拾った。私が返してもらおうと黙って手を差し出したら、そのまま彼は断りもなくその手紙を私の目の前で開いて見ていた。勝手に人の手紙を見るとは思わなかったので少し驚いていたら、海が顔を上げて
「何で言わないんだよ」
と私に言った。
「忘れてた」
本当にそうだったのだし。
「何?」
少し離れたところで成り行きを見ていた陸が声をかけてきたので、海は陸にその手紙を折りたたんで投げて渡していた。人の手紙を勝手にキャッチボールにしている二人にあきれつつ、
「知らない子から駅で手渡されたの」
「ふーん」
言いながら陸は手紙を読んでいた。
「二人に来てたのも同じような内容?」
「なんかもっと自分の事情をいっぱい書いていたけど、要は謝罪したいから見舞いに来い、で同じ」
陸がそう言って、また折りたたんだ手紙を私に投げてよこした。
「行かないとまたちょっかい出してくるってことだな」
海が言うと、陸が答えた。
「そういうことだろうけど、そもそもこれで最後にするなんて約束自体守らなそうだし」
確かになあ。
弁護士さんとの約束も守らないし。
私は何となく黙って二人を見ていた。
「でも本当にこれで最後にしてくれるなら、もうここでけりをつけたいんだけど」
海が言って、
「三人で行かないか? 病院の中なら他にも人がたくさんいるし、そんなに変なこともできないだろう」
私と陸を見た。
私と陸は何となく黙って顔を見合わせた。
海の気持ちもわかる。でも、なんか罠っぽくて不安。
お互い言葉に出さずに同じことを思っているのがなんとなくわかった。
でも、放って置いたら何だか海が自分一人でも行ってしまいそうだった。
「海がそうしたいなら」
しばらくして私がそう言うと、陸も
「なんか変だと思ったらすぐ帰ることにするなら。あと、こっちから連絡なしでいきなり訪ねていくならいいよ」
「じゃあ、そうしよう。こんなこともう早く終わらせたい。うんざりだ」
軽く嫌悪感を出しながら彼が言うのを私はなんとなく見ていた。
なんとなく海のことが心配だったが、どう言ったらいいのかわからないので黙っていた。
「神奈は俺たちから絶対離れるなよ。でもやばいと思ったら一人で速攻逃げろ。いいな?」
「そんな大げさな。他の人もいるしへんなことできないよ」
二人に何度も念をおされるので私がそう答えていたら、病棟のエレベーターが目的階で開いた。お見舞いなので一応お花を私は買ってきていた。二人は手ぶらだった。受付で面会希望の用紙に海が記入して、私たちは彼女の病室を訪ねた。個室ではなく大部屋でそれも少し安心だったので、カーテン越しに私が彼女に声をかけた。二人は一応男性だし、突然行くにしても声をかけるのも最初に面会の確認をするのも私がした方がいいだろうと思ったので、二人を少し後ろに下がらせて私が先にたって彼女のベッドの付近に行った。
「来てくれたんだ。どうぞ」
彼女はすぐにそう返事して、ベッドのきしむ音や体を起こす気配がした。振り返ると海と陸の二人は何となく困惑したようなばつの悪そうな顔をしていた。突然訪問したはいいが、やはり失礼だったのではとか色々気にして気後れしているのがよくわかった。基本的に育ちがいいので優しいのだ。それに気持ちがまっすぐできれいなところがあるし。だからつけこまれるんだろうけど。
「海と陸も一緒なの」
「あ、そうなの? ちょっと待っててくれる?」
少し華やいだ声で彼女は言った。
「うん」
女の子だものな。身だしなみを整えているんだろう気配の中しばらく私は待った。海と陸はますますなんか居心地悪そうにしていた。ったく。男って弱っている可愛い女の子にはどうしたって強く出られないものなんだろうな。いまいましい?ような気分でいたが、まあ、それも仕方ないか、とも思っていた。ちっ、役立たずめ。と心で毒づいてもいたけど。
二人が全くあてにならなそうなので、私が主導権握るしかなさそうだな、と思っていたら、彼女は自分でベッドから立ってカーテンを開いた。
「来てくれてありがとう」
にこっとして可愛らしい桜色のパジャマ姿で彼女は私に声をかけた。その前に、目の前の私、後方にいる海と陸にと素早く目をやってから。それだけで、彼女は元気そうだな、と何となく私は思った。
「これお見舞いです」
私が花束を渡すと、彼女はお礼を言ってそれを近くの棚の上に置いた。花瓶があったので、
「よかったら入れて来ようか?」
と私が花瓶と花束を見比べて言うと、彼女は愛らしく微笑んだ。
「あ、お願いしてもいい? せっかくのお花だしね。お水に入れてあげないとかわいそう」
それで私は海と陸に声をかけた。
「これにお水入れてお花をほどいて入れて来てもらえる?」
二人はほっとしたように
自分たちのそばを離れるな、とかさっきまで言ってたくせに。
私はちょっと息をついて、彼女に向き直った。
「なんだ、あんたが行くんじゃないんだ」
打って変わったように彼女が面白くなさそうに言うので、
「そんなことだろうと思った」
と私は言った。
さっきまでの殊勝そうな態度と打って変わって、ふてぶてしい態度になった彼女は私をじいっと見て
「私、あんたみたいなオンナだいきらい。何の悩みもなさそうに、いつもにこにこして幸せそうにしてて、むかつく。どうせ何も考えてないから悩みなんてないんでしょう。あんたの大切なもの、みんなぶち壊してやりたくなる。見てるだけで腹がたつ」
あまりの言われように少し驚いていたら
「ばかみたい。私が本当に謝るとでも思ってたの?」
とダメ押しされたのでさらにびっくりした。
「他に人もいるのに、いいの?」
なぜかこっちが気にしてしまう始末だった。ここは大部屋だから個々のカーテンの向こうにはこの病室の住人がいるのだ。果たしてどんなかおでこの会話を聞いているのか、私は他人事ながらちょっと面白かった。
「別にいいよ。海君と陸君さえここにいないなら」
「でも、いずればれるでしょ」
あきれて私が言うと、彼女は気のない返事であっさり言った。
「ならそれでいいのよ」
ふーん、へんなの。
彼女は私をじっとまとわりつくような目つきで見ていた。
「なに? まだ何か言い足りないわけ?」
「あんたってホントに何の悩みもなさそう。それで余裕ぶってるしむかつく。海君や陸君の優しさにつけ込んでまとわりついてる寄生虫みたい。とっとと二人から離れなさいよ。
「二人の優しさにつけ込んでまとわりついているの、あんたでしょうよ」
私が言い返すと、ぎらぎらした目つきになって彼女は突然わめき始めた。
本当に、突然、
「なんなの! 大体あんた生意気なんだよ!! 忠告されたらおとなしく従っておけばいいのに、あれだけやってもまだ平気な顔して、相変わらずにこにこして幸せそうにしてて、バカなんじゃないの? あんたみたいに何の悩みもないような人間ばっかりじゃないんだよ!! そんなこともわかろうともしないで、自分がどれだけひとを傷つけているかもわかってないんでしょう?! 無神経そうだものね!!!」
突然の豹変ぶりにびっくりしていたら、廊下の向こうから足音がして
言っていることは大体同じことの繰り返しと罵倒だった。
看護婦さんたちを同室の人が呼びに行ったみたいで、向こうから何人かの人がばたばたと駆けてくる足音がして、病室に入ってこようとしていたときだった。
彼女の視線が棚の上のお見舞いの果物バスケットに移動して、そこにある果物ナイフに移った。
「海、陸! 危ない!!」
私が悲鳴のように二人に言うのと同時に彼女がナイフに手を伸ばして
呆然としている私たちの目の前で、既に入室していた看護婦さんたちに彼女はすぐに取り押さえられた。血がどくどく流れる中で、彼女は勝ち誇ったようにぎらぎらした目で私を
「あんたのせいだから!!」
そう叫んでいた。
私も陸も海もただ立ち尽くして目の前の光景を見ていただけだった。シーツやカーテンや自分のパジャマを血染めにして応急処置を受けながら、まだ私を睨みつけている彼女に私は言った。
「そんなの知らないよ。というか、そもそも前提からおかしくない? なんで私があなたの問題をわからなければいけないの? わかろうとしなければいけないの? それってあなたの問題でしょう? そもそも、なんで私がそれにつきあうべきだと思うの? 私自身が、理解したい、理解する必要がある、そう思わないのであれば、別にそれをわかる必要ってなくない? そんなの知るか、3秒で終了な話じゃない? なんでそれにぐだぐだとつきあわなければいけないのよ?」
怒りとショックで体が震えながらもはっきりとそう言った私に、看護婦さんたちは、けが人になんてこと言うんだ、みたいなかおをして
「すみません、患者さんが興奮しますので」
と暗に退出を
「神奈、行こう」
陸が怒りに震えている私の手を引っ張り、海のことも引っ張るようにしたが、海はそれをふりほどいて、
「もう俺たちに近づくな」
彼女をまっすぐに見据えて冷たい声で言い放った。
口を引き結んで彼女は彼を
「自分の命が俺たちにとって価値があるものだとでも思っていたのか? 甘えるな。もう神奈や俺たちにこれ以上関わるな。死にたきゃ勝手に一人で死ねよ。俺たちには関係ないだろう。神奈にも関係ない。おまえがやってること、最低だ」
それだけ淡々と言って陸に目で合図したので陸は私を引っ張って病室の外に出て、海もその後から出てきた。
「あいつ、すぐに応急処置されるの分ってて、わざとやりやがった。神奈や俺たちの良心につけこんで脅迫してこようとしたんだ。最低だ。
エレベーターまで廊下を歩きながら海は恐ろしく冷たい声でそう言った。
海は本気で怒ると頭が冷えていくタイプなのだ。冷たい青い炎が全身を包んでいくみたいに怒れば怒るほど頭が冴えてくるので淡々とした口調で冷静に話す。それで言ってる内容はかなり酷いけれど感情がないみたいに見える。でも実はものすごく怒っている。
私と陸は黙って目を合わせた。
どうやら彼女は海を本気で怒らせたらしい。
これは荒れるかも。気をつけておいた方がいいかも。
互いに黙って目で確認し合った。
そのままエレベーターに乗って、私たちは病院を出た。玄関口にいたタクシーにそのまま私たちを押し込んで陸はマンションの住所を告げた。走り出す車の中で私は毛を逆立てた猫みたいにしばらく気が立っていたけれど、海はずっと黙ったまま考え込んでいた。陸は運転手さんに何か話しかけたりしていた。それでタクシーは通り道にあるコンビニに一旦止まり、陸がコンビニに入って行ってハンカチを水に濡らして帰ってきた。それを私に渡して「
「ごめん、神奈」
海は頬を拭いている私を見てそう言った。
「何で海が謝るの」
「変なことに巻き込んで、本当にごめん」
「謝らないでいいよ。私こそ、彼女を興奮させたんだし」
捨てぜりふまで言ったしなあ、と思っていたら、陸が助手席から後部座席にいる私たちを
「たぶん、元々なんか精神的な問題があったんだろう。神奈も海も気にすんな」
「来たのが間違いだった」
海が呻くようにそう言うので、
「もう済んだことだし、これでもう関わるのを本当にやめればいいんじゃない?」
陸が私たちを見て言った。
「とりあえず、もうこの件には関わらないようにしよう。何かあったら弁護士さんに相談。直接俺らが動くことは今後一切なし」
その日は土曜日だったこともあり、今日は帰らないでほしいと海が言うので、私は彼らのマンションに泊った。帰宅してからの海は特にいつもと変わらない様子だった。たまに陸とアイコンタクトをとりつつ様子を見ていたけれど全然ふつうだったので、考えすぎかなと思い始めていた。子供の頃とはもう違うし。
昔から海は本気で怒るとものすごく冷静になる半面ものすごく本当は怒っているため、実はかなり戦闘的にもなっているので、その後もしばらく極端なことを言ったりしたりすることがあった。静かに荒れているのでわかりづらいけれど、いつもの状態とは違った状態になっているのだ。それでいつもの優しくて陽気な海のつもりで
夜中に目が覚めて喉が渇いていたのでキッチンに水を取りに行った。二時を過ぎたくらいだったが、キッチンの方から明かりが漏れていて誰かが起きている気配がしていた。キッチンに入って行くと椅子に座って海がコーヒーを飲んでいた。テーブルの上には念のために、と昨日病院に行く前に私が持たされていたICレコーダーとイヤホンがあった。あのときの会話を聴いていたらしい。
「起こした?」
「喉が渇いて目が覚めたみたい」
冷蔵庫からミネラルウォーターの小さいペットボトルを取り出してキャップを開けて飲んでいる間、海はじっと私を見ていた。
「海は? 眠れないの?」
「そうみたい」
「コーヒーじゃなくてホットミルクでも飲めば? 作ろうか?」
「うん」
冷蔵庫から牛乳を出して小鍋で温め、はちみつを少し落として木べらでぐるぐる混ぜていたら、海がそばに立って鍋の中を覗き込んだ。
「それ持って、神奈の部屋に行ってもいい? ちょっと話したいことがあるんだけど」
「いいよ?」
ホットミルクと水を持って私たちは私が使わせてもらっている部屋に行き、ラグマットの上に直接座ってテーブルを囲んだ。がらんとした空間にマットレスのベッドと観葉植物、ローテーブルや鏡台くらいしかないので、しんとした真夜中に私たちのたてる物音はなんだか空間にやたら響いた。
何となく
「これ聴いてたんだけど」
海はパジャマのポケットに入れていたICレコーダーを取り出してテーブルの上に置いた。
「思ったんだけど、
そうしてそのまま海は黙りこんだ。
「どうでもいいよ」
そう言って海に冷めちゃうよ、と私が言うと、彼は頷いてマグカップに口をつけた。
しばらく彼は黙りこんでいた。
「別に私はどうでも気にしないから、海も気にする事なんてないよ」
私がそう言うと、彼は黙ったまま私を見つめた。
それから言った。
「違うんだ。何て言えばいいのかな。俺が何となくこれがわかるのは、俺にもちょっと似たようなところがあるからなんだよ。さすがにここまでではないにしても、何か通じるものがあるって言うか……、難しいな」
言ってから海は私をじっと真っ直ぐに見て、淡々と言った。
「神奈を何としても自分のものにしたいっていう強い欲望みたいなもの。自分の支配下に置いて制御したい、そういう種類の野心というか、何が何でも自分が思うとおりに神奈を支配したいみたいな。何か当人にしかわからない事情があって、あいつは神奈が神奈自身でいることが気に入らないんだよ、たぶん。でも、神奈は周囲から圧力をかけられようが、そこに封じ込めようとされようが、さっさとそこに見切りをつけて、あっさりそれを捨てて、勝手にどんどん進んで自分の新しい境地を切り
こんな時に何だけど、思わず私は
「空飛ぶいかたこモンスターって呼ぼうかな」
「なんだそれは。空飛ぶスパゲッティモンスターの親戚か?」
真顔で訊いてくる海に、のるなあ、と思いながら私は言った。
「スパモン教なら入信してもいいけど、いかたこモンスター教はちょっといやだなあ。カルトっぽいし」
「なんでいかたこなの?」
「おまえの前世はタコかイカかっていうくらい、吸盤付きの触手を絡ませてとりついて離さないみたいなもんだって葉月が言っていたから」
海はちょっと笑っていた。
それで少し空気が和らいだので、私は彼に言った。
「そのくらい気をつける必要があるっていうのは何となくわかるから、心配しないでいいよ。しつこい人や嫌がらせをしたい人はそれを本人がしたいからそうしているだけなんだから、どんなにもっともらしい理由を色々とつけてきたとしても、結局は私には関係ない。私にとっては秒速終了でしかないよ。本当に必要ならこっちも本気で闘うし、一旦闘うと決めたら容赦なく全力で叩き潰すつもりでやるけど、ちょっと様子見てみたいんだよね」
そのものそれ自体に責任をとらせることを邪魔しないこと──聖一さんはそう言っていた。
自分でどうにかしようとしなくてもいい、ということも経験から学んでいたので、自然に実が
それに、いざとなったら、悪魔や天使やマリア様ともこだわらずに仲良く手を組んで、そのときの自分が対処するだろう、というような妙な確信? もあった。
海は私を黙って見つめた。
そして言った。
「なんかおまえ本気で怒らすと怖そうだなあ」
「私を怒らす方が悪いんだよ。もともと私はそんなに好戦的ではないし、基本的にひとのことはどうでもいい方なんだから」
「そうか」
「そうだよ」
海は私をじっと見つめて黙った。
「海も陸も責任感じる必要ないよ。もう十分色々してくれてるし、感謝してるもの。だから海も気にしないで。ゆっくり休んでよ」
そろそろ眠くなってきたし、と思って話を切り上げようとしたら、海は私に言った。
「ここで一緒に眠ってもいい? 手出さないから」
まじまじと私が彼を見つめると、彼は真顔で言った。
「そばにいてほしい」
なんだか恥ずかしくなって赤くなったのが自分でもわかった。
よくそんなこと、真顔で、とぐるぐる考えながら言葉を
「なんで黙るんだよ」
「な、なんとなく」
「こっちが恥ずかしくなるじゃないか」
言ってから彼は私の手首をつかんで
「抱きしめて眠りたい。それだけ。なんか安心するから」
と私を抱き寄せて耳元で言った。
「いい?」
訊かれて、私は言葉を出さずに
同じベッドで海が私を後ろから抱きすくめるようにして、一緒に眠った。人の体温ってすごくあたたかくて落ち着くんだな。すごく気持ちがいい。海の体温はすうっと私の肌になじんだ。結局私はそのまますぐに眠りに落ちてしまった。
朝方ちょっと目が覚めたら、海が隣で頬杖をついて私を眺めていたので、
「眠れた?」
と訊いたら、
「うん、少しだけど、思ったよりぐっすり眠った感じ」
そう言って私のまぶたに口づけた。
「神奈はよく眠っていたね」
「見てたの」
「うん。よだれたらしてたから」
「うそ?!」
ぎょっとして口もとや頬に手をやった私に
「うそ」
くくくっとおかしそうに笑って、キスした。そうしてそのまま深く口づけてしばらく長いキスをしてから吐息をついて、私を自分の胸に押しつけるようにして抱きしめた。海の心臓の音がする。あたたかくて気持ちいい。彼の温かい匂いにやさしく包まれているみたい。あまりの心地よさにうっとりと目を閉じて、そのまま私は彼の胸に自分をあずけるようにしてすうっとまた眠りに落ちていった。
その日は午後からバイトだったのでそのまま行った。
おはようございまーす、と午後だけど一応仕事場なので
「おはよう」
と言って、
「今日は資料を集めに行きたいんだけれど、つき合ってもらってもいい?」
と訊いてきた。
「いいですよ。でも私は何をすればいいの?」
「いくつか風景の写真が欲しいんだけれど、アシスタントをしてくれたらいいよ。後は現地で話すから。すぐに出られる?」
「はい」
私は彼の運転する車でちょっとしたハイキングコースなんかがある登山客に人気の山のなかに連れて行かれた。そこで彼の指示でデジカメで風景や植物などの写真を撮って回った。彼はちゃんとしたカメラで自分でも写真を撮ったりしていたので、夕陽を撮っていたときに「ちょっとモデルが欲しいから、そこに立ってくれる?」と言って写真に撮られりもした。暗くならないうちにそこを出て直接帰宅するために送ってもらう途中で夕食もごちそうになった。彼がよくいく小料理屋さんのようで、
「運転するからノンアルコールで」
とママさんに言って、おすすめの一品料理なんかをたくさん注文してくれた。それらを仲良くつまみながら、ご飯とお味噌汁とお漬物も頼んでくれたので私はそれで夕ご飯を食べた。
カウンターに座って仲良くママさんと話したりしながら彼と一緒に居ると、なんだか不思議な感じがした。いつもの私が知っている彼とはちょっと違う彼の世界を覗いているみたいで。
「珍しいね、せーちゃんが女の子連れて来るなんて。しかもこんな可愛らしいお嬢さんを」
かっぽう着姿の年配のママさんににこにこして言われて、彼は
「そうでしょう」
と言ったので、何だか私は恥ずかしくなった。
彼は笑いながらママさんに私を紹介してくれた。
「この子は僕のところでアルバイトをしてくれている神奈ちゃん。
「あらそうなの」
「はい」
私が言うと、彼とママさんはにこにこしていた。
何だか彼らの雰囲気はあたたかみのある親しみに満ちているような気がしていたら、
「このひとは、昔のお隣さんなんだよ。だから僕が小さい頃からの知り合いなんだ」
聖一さんがそう言って、ママさんが頷いていた。
「せーちゃんがおしめしていた頃からの知り合い」
ぷっと何となく私が笑うと、彼はちょっと困ったように照れていた。
「それは言わないでよ」
「だって本当のことだもの」
「かなわないなあ」
なんかこの二人のやりとりを見ているのは面白かった。聖一さんが可愛らしい呼び名で呼ばれていて、こども扱いされているのも新鮮だったし。そうして美味しく楽しく食事して、お土産まで頂いて、ママさんに笑顔で手を振り帰宅の途につく頃には、私は大満足していた。
「なんかすっごく楽しかった! 笑い過ぎておなかがいたいくらい」
久しぶりに大笑いした。明るいママさんと聖一さんとの絶妙なやりとりが物凄く面白かったのだ。あと、雰囲気も良かった。あたたかみのある、親しみに満ちた優しい空間。つきすぎず離れすぎず、のちょうど良い関係性がしっかりそこに息づいている感じ。その場所の力もあるんだろうけれど、やっぱり人の持つ力もあるように思う。安心してほっと一息つけるような素敵な場所だった。
「よかった」
笑って聖一さんは前を見て運転しながら
「連れてきてよかった」
と優しい声で言った。
あれ、もしかして、なんか元気づけようとしてくれてたのかな。
何となくそう思っていたら
「面白い人でしょう」
と彼が笑いながら言った。
「うん。明るくてすかっとしていて気持ちがいい人だね。なんかファンになってしまったかも」
「そうか、今度会ったら言っておくよ。喜ぶんじゃないかな」
「ひとの力ってやっぱりすごいね。なんか彼女のすごく強くて優しいエネルギーが空間にぴちぴちして溢れそうに満ちているみたいだった。活きのいいってああいう感じなのかな。新鮮な喜びに満ちているみたいな、生命力の塊みたいな人だね」
ちょっと
「うん、そうだね。何か人間エネルギーチャージャーみたいな人だよね」
「ほんとだね」
笑っていたら、彼は私をちょっと見た。
「神奈ちゃんはもう十八歳になったんだっけ」
「うん」
「そうか、はやいなあ。初めて会ったときは十二歳くらいだっけ」
「そうだったと思います」
あのときは彼がものすごく大人に思えたけれど。今でも彼は大人だけれど、今はあの頃よりも少し距離が近い。何となく考えてみたら不思議な感じがした。そう考えていたら、聖一さんが私を見ていた。彼は私と目が合うと、にこっとしてまた前を向いた。
「他者のエネルギーを
聖一さんが前を向いたままそう言ったのでちょっと驚いたけれど、何となくわかるような気がしたので静かに頷いていたら、
「今まであったものが次の瞬間にはもう
彼はそう言って、私を見た。
彼の不思議な話にはなれっこになっていたので
「うん、わかったよ」
と私は
とりあえず心構えをしておけ、くらいの感じで聴いていたのだ。
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