泡沫のラムネ、畔のレモネード

日出詩歌

習作 泡沫のラムネ、畔のレモネード

 私は、飯沼さんが嫌いだ。

 教科書を鞄に入れて帰るところだった。教室の一角を見やると、女子生徒の集団が教室にやってきた。彼女たちは一人の女子生徒を囲って笑い声を咲かせている。5、6人ほどの集団の中心にいるのは、飯沼さんだ。

 即座に私は眉を顰める。

 いつも思っていた。彼女は特別だ。容姿端麗、品行方正。人の悪口1つ言わず、優しく微笑む彼女を、誰も嫌ってはならない。そういうことが許された存在だと。

 別に興味がある訳ではなかったけれど、私の席と彼女達との距離が近いせいか、耳が会話に引っ張られる。

 会話の内容は誰が好きだとかモテるだとか、放課後の女子中学生によく似合った話だった。その内、1人がこんな事を言い出した。

「飯沼さんってさーどんな人がタイプ?」

 自分の手が一瞬止まった。

 飯沼さんはやや上ずった、ぎこちない声で返す。

「普通に…優しい女の子がいいかな」

 教科書をつかんだ手に力がこもる。彼女たちに面した腕がぞわぞわする。

「えー?じゃあこの中だったらー?」女子生徒達は黄色い声を上げる。まるでアイドルに選んでもらいたいファンのようだ。

 無意識に口をへの字に曲げてしまった事に、私は気づかない。嫌だと思わないのだろうか。女が好きな女なんて。

 特に理由はないけど、何となく私には合わない。

 けれど決して口には出さない。愛想のいいファンに囲まれた彼女を見ていると、その思想が犯罪であるかのように思えるからだ。地球を中心に空は回っていません。そのくらいのとんでもない時代錯誤です。自分の何処かで半身はそう説いた。

 その通り。だから悪い思考はいちゃいけない。

 瞬時に思考の大半を支配した半身は、残った思考を押しのける。その度に自分が削られ、段々鬱々とした気分になっていく。

 仲良しを強要する他人以上に、自分勝手な理由で他人を認められない自分が嫌で仕方ない。

 女子生徒に囲まれた彼女を見る度に、思考はぐるぐると頭の中でぶつかり合いを繰り返すのだった。

「気持ち悪い」その時口から、淀んだガラス玉が飛び出した。

 慌てて口を抑えようとする。しかし言葉は戻らず、教室の床に落ちていく。彼女の制止も利かず、言葉は弾けて教室に霧散した。

 時が止まる。心臓が痛くて堪らない。何かが刺さっていてうまく呼吸ができない。

 ああこれは。

 視線が刺さっているのだ。

 みんなが見てる。

 私の事を見てる。

 私を悪だと言っている。

 出てきてしまった。言ってはいけない言葉が。私は過去の自分に棘を刺した。

 決してそれを口に出したりしてはいけなかったのに。幸か不幸か、鞄には荷物がすべて入れられ、既に閉じられた後だった。

「ごめん」

 震える唇が紡いだのは、自分以外に聞きとれるかわからない声だった。そうして小さな免罪符を置いた私は、そそくさと教室を逃げ出した。

 

 2ヶ月前から、放課後の私は時々まっすぐ家に帰らない。

 きっかけは些細な事だった。気まぐれで家と逆に歩いて行って、それ以来日課になったのだ。気まぐれという意味では、彼との出会いは似つかわしいものだったと思う。

 やがて、住宅街の中の寺に辿り着く。人気はなく、辺りは閑散としている。私は見回して、すぐに彼を見つける事ができた。ずっと観察してきたが、やはり寺の縁側が彼のお気に入りらしかった。

 彼は大きな欠伸を一つして、麦色をした小さな毛玉を震わせる。その後尻尾を立てて私の元へすり寄ってきた。

 私はバッグから弁当箱を引っ張り出す。それを開けると、林檎が少し残っている。私は林檎を手のひらに乗せると、それを彼の元に近づけた。彼は用心深く匂いを嗅ぎ、何度か舐めた後、凄まじい勢いでがっつき始める。

 時たま誰も聞かない場所で言葉を吐き出したくなって、私は彼を頼っていた。彼は私の愚痴を聞いても、不満1つ言わない。もしかすると、甘えているのは自分のほうなのかもしれない。

 彼の頭を撫でつつ、私はふとつぶやいた。

「バカ…」

 クラスメイト同士、仲良くしなくてはいけない。

 他人と違う事を、差別してはいけない。

 そんな事、わかってる。

 でも私は、彼女の個性がどうしても認められない。

 私があの子を嫌いな事を、世界は認めてくれない気がした。

 人の世で生きるには。

 人を好きにならなきゃ。

 唇に力強く歯が刺さって、痛くなる。

 その時、砂利の音と声が聞こえた。

「その猫…」

 慌てて振り向く。そして釘付けになってしまう。

 鳥居の前で髪をなびかせている少女。

 飯沼さんだった。

「桜井さん、ここの猫の事知ってたんだ」彼女は静かに歩み寄る。

 私は僅かに頷く。

「その…さっきは、ごめん」飯沼さんの靴にピントが合っている。この言葉こそ、突拍子もなく出てくれればいいのに。

「ううん、大丈夫」彼女は清らかに笑む。本来なら波を立てても良い筈だ。それなのに水底からふつふつと湧き上がるものを隠すでもなく、投げ込まれた石をさらさらと受け流している。まるで柔らかな泉だ。

 それは怒ることでもないと慈悲深いのか、怒る事に対して閉口しているのか、それとも興味がないのか。微笑みからはうかがい知ることはできない。

 そんな彼女はしゃがんで自分自身も猫を撫でながら、何となしに聞く。普段あまり私と接しないからだろう、会話のネタが何も思い浮かばなかったから言ってみた。そんな風に見えた。

「桜井さんは、やっぱ私の事気持ち悪いって思う?」

「そ、そんなことは…!」彼女と目が合う。

「無理しなくていいんだよ。誰だって嫌いな人間の1人くらいいるもの」

 私は言葉を自分の底に戻す。感情が湧いて、しゅわしゅわと自分の内を叩く。この気持ちを、私は自分の外に出したかった。飯沼さんもきっとこのことを分かって言っている。だけどこんなものをぶつけられたら誰だって痛い。ああは言ってるけど飯沼さんも例外じゃない。思うように言えない私はズルをして、尋ねる形に変えた。

「自分を嫌いな人がいるって、嫌じゃないの?」

「嫌じゃない…ってわけじゃないけど。でもそれは自然な事なんじゃないかな。私は好きも嫌いもどっちでもいいって思ってるし。勝手に人のもの隠したり、机を汚したりする事のほうがよっぽど嫌」

 見えない監視の目と心の檻に囚われず純粋だった頃、飯沼さんにもそんなことがあったのだろうか。もしそうなら、今を知っている側からすれば信じられない話だ。

「だから桜井さんはさ、嫌いなものは嫌いなままでいいんだよ。私の事も、嫌いなままでいていい」

 熱が泡を立てて込み上げてくる錯覚を覚えた。それに伴って、体の力がすっと抜けていく。

 傷んだ胸から甘い感情が溢れそうになる。それを隠したくて私は、

「うん、ありがとう…」と呟いた。


 後日、朝の廊下で飯沼さんとすれ違った。相変わらず女子生徒に囲まれている彼女とは、挨拶もそこそこにそれぞれの領域に引っ込んでいく。飯沼さんの領域は私の視界の遥か向こうにある。これ以上の関係になる事は、無い。

 しかしただ1つ、変わった事があるとすれば。

 私は飯沼さんの事が苦手になった。

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泡沫のラムネ、畔のレモネード 日出詩歌 @Seekahide

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