第4話


「Yo! おまえのグルの調子はどうだ?」

 ラッパーの真似をして、からかうようにそう言ったたすくに、私はあきれながら言った。

「あれ以来夢には出てこない」

「インドまで探しに行くとかいうなよ?」

「それもいいかもね」

 私が言うと、佑は、え、まじ? という顔をしたので、私は「じょうだんだよ」と言った。

「おまえが言うと、しゃれにならん」

「ひとをなんだと思ってるわけ?」

「本気でそうしそうなやつ」

「………」

 どういう意味だ、と、眉根を寄せていると

「まあ、細かいことは気にするな」

 佑はそう言った。私がむっとしていると、佑は肩をすくめた。それから話題をおもむろに変えた。

「仕事どうだ?」

「まあまあ、楽しいよ」

 私たちは休日に昼食を一緒にとろうと、目当ての店まで歩いていた。駅前から少し離れると人の喧騒けんそうからも少し離れた。目当てのこぢんまりとした洋食屋さんに入ると、少し遅い午後だったが、わりと込んでいた。

「そういえば、仕事で面白い人に会ったよ」

 料理を注文してから、私は水を飲みながら佑に言った。

「ふ~ん?」

「占い師なんだけど、霊視とかもできるらしい」

「めちゃくちゃ怪しそうだなあ!」

「普通の主婦って感じの人だった」

「ふ~ん。それ、いんちきとかじゃなくて本物?」

 佑は煙草たばこを取り出して火をつけた。

「こっちとしては特に真偽を確かめるのが目的じゃないからさ。あくまでも体験記とインタビューが目的だし。私は取材に同行しただけだけど、いんちきって感じはしなかったなあ。モニターの子の占いの様子も見てたんだけど、まあ、良心的な感じだったよ。つぼとかハンコとか売るわけでもないし。宗教でもない。モニターの感想としては、本物だったらしい」

「ふ~ん」

「疑ってみようと思えばそう見えるだろうし、信じようと思ってみればそう見えるだろうし、そこらへんは、あくまでもこっちは中立の立場。判断はしない。そうじゃないと取材もできないから」

「そんなもんか」

「そういうものなの」

「まあ、傾倒けいとうするよりはいいけどさ」

 佑は言って、ふ~と煙を吐き出した。

「インタビューで聴いたことがちょっと面白かった。抽象的だったけど。だからかな、こう、ちょっと響いてくるものがあったというか」

「インドじゃなくて、その占い師のとこにでも行く気か?」

 むっとして私は佑を見た。佑はしれっとして言った。

「一応心配してんだよ」

「……ふ~ん」私はちょっと機嫌を直して彼に言った。「彼女、ひとつひとつに意味がある、と言っていた。なんとなく、私はそれが一番印象に残ったんだ」

「ふ~ん?」

「ここのところの、私のテーマみたいなものかも」

「なんだそれ」

 そこへ料理が運ばれてきたので、会話が一時中断した。ウェイトレスが去ってから、

「なんだろうね。でも、生きていく上では、なんか意味みたいなものが、人を支えるような気がする。私はそれをずっと模索もさくしてる気がするよ」

 佑はちょっと黙って私を見た。

「なによ?」

「いや、俺もなんとなくそれは、わかるよ」

そうちゃんは、意味は自ら見出していくものだって、いつか言っていた。最近思うの。ひとって、何かそういう意味みたいなものを見失うと、生きていくのも難しくなってくるようなところがあるのかなって。でも、それを見出していければ、つらいことがあっても、なんとかそこを乗り切る支えにもなる」

「まあ、そうだよな」

 佑はそう言って、料理を口に運んだ。しばらくなんとなく黙って二人でもくもくと料理を口に運んでいたら、佑はふいに言った。

「先に逝くやつには逝くやつの、残されたやつには残されたやつの、生き死にには意味があるんだって、おまえ、前言ってたじゃん?」

 私は顔を上げて佑を見た。

「じいちゃんとか戦争経験してる世代の人間って、生き残ったことに対する罪悪感みたいなもの、持ってるらしくてさ。先に逝った人間に対する責任のような、なんかそういうものをどこかでずっと持ってるみたいなんだよ。俺、今はなんとなくだけど、それが少しだけわかる気がする。重みは全然違うだろうけれど、でも、少し気持ちが分かる気がする。どういうふうに生きていくのか考えずにいられないし、こんなんでいいのかって焦りみたいなものもある。でも、焦りとか、罪悪感って、それだけあってもあまりいいことはないな。そんなものあってもどうしようもない。それよりおまえの言うとおり、何か意味を見つけていくほうがいいんだろう。そっちのほうが建設的だ」

 私は黙ってうなづいた。佑は料理をつついていた。私は自分の目の前のお皿の料理をつつきながら、なんとなく言った。

「引きこもってたとき、私、ずっと毎日目が覚めるたび、悲しかったんだ。自分が今日も生きてるって、それが、なんかたまらなかったのよ」

 佑は私をちょっと目をすがめるようにして見たので、私は続けて言った。

「でも、積極的に自殺を考えるとかはなかった。それはしちゃいけないってどっかで思ってるから、消極的に、このまま目を覚ますことがないといいなあ、っていう感じなんだけど。なんていうか、生きていたくなかった。死ねるものなら死にたかったのよ。何をめざして生きてくのか、信じていくのか、すっかり見失ってしまっていた感じ。したいことも何もなくて、ただつらい毎日が続いていくだけなんだっていう感じだった。全部がむなしい感じがしたの。生きてること自体がまるで牢獄の中にいるみたいな気分だった」

 佑は私を見て、黙っていた。

「あ、今は、大丈夫だから。たまに、ふっと思うことはあるけど、気分の問題で、そういう気分もまた流れてくの、もうわかったから、いろんな気分をそのまま味わうつもりながめるつもりでとにかく流れるのに任せる。無理に脱け出そうともがいたりしなければ、流れに任せていつのまにか浮上しているものだから。自然な流れに抵抗しないっていうのがポイントかも。気分も自然の全体的な流れのうちなのね。こうしろああしろって脳から指令を出して都合に合わせてつくりだすものでも支配するものでもないってよくわかった。無理やりにいんちきな気分を自分の都合でつくり出したりコントロールしたりしていたら、本来の自分の全体的な自然な流れる感覚を失ってしまうし、いつのまにかその感覚やつながりを失ったまま暴走する流れに翻弄ほんろうされるだけなんだよ。反旗はんきひるがえされるみたいに制御不能になるのがよくわかった。それに今はやることがあるし、したいこともある。ある程度体力と気力が戻ってくれば、動いているうちにうまく流れに乗って自由に泳げるようになる」

「………でも、まだあるんだろ。解決してないんだろう?」

 佑はぼそっと言った。

「うん。でも、なんていうか、私にとっての死は夢想に近い。現実逃避の一種なのかな、とも思うけど。このまま一生赤点保って生きてくのに意味あんのかな、みたいな、ちょっとやさぐれた気分もあったかも」

「やさぐれると死にたくなるのかよ」

 少しあきれて佑は言った。

「そういう側面もあるのかなって、自分で思うだけ。うまく説明できない。運命の神様に対しての反抗や甘えのようなものかなあって」

「ふ~ん」

「でも、それだけじゃない、なんか意味がある気もする。私はそれも、ずっと探し求めている気がする」

「死にたい気持ちに意味を見出してどうするんだよ」

「夢想に近いって言ったでしょ。私が探しているのは、生き死にをえた何かなのかもしれない。現実に死にたいとかよりも、とかかな、って、思うの」

 言いながら、ふと、白い蝶のイメージがよぎった。旅を終え、からを脱ぎ捨てるようにして次の世界に旅立つために死ぬべくして死ぬ白い小さな蝶。

 佑は少し黙って私を見ていたが、ちょっと軽く息をついて言った。

「でも、意味って、なんだろうな? 難しく考え込んだらはまっていきそうで怖いから、考えすぎないようにしているけど。なんとなく俺もわかるような気もする。俺も生き死にとか幸不幸を超えたところにあるような、そういうものを求めている気もする。でも、こういうときに、狂気に入ったり、宗教とかにはまり込んだりするのかもなとか思う。俺はそういうのはごめんだから、考え込み過ぎないようにしてるけど、おまえはちょっと危ないから、気をつけろよ」

 一歩踏み間違えると発狂して本当のおりの中に幽閉されるか、もしくは宗教の中に深く入り込んでいくか。確かに、こういうときに、人はそういうものにもおちいりそうだ。佑の指摘はもっともだ。

「まあ、そうだね。宗教的な真理とかに惹かれる気持ちはあるよ。発狂するよりは、まだ建設的でしょ。でも、どっかの宗教団体に属しようとは思わないけど」

「ふ~ん」

「でも瞑想とかはちょっと興味ある」

「夢でも見たくらいだからな~。気をつけろよ?」

「わかってるよ」

「本来の宗教ってのは、どうしたら幸せに生きられるかというのよりは、生きる意味とかいずれ死ぬことについてとか、いずれ死ぬべきこの人生に意味があるのかとか、そういう根本的な問いかけに答えるようなものだったらしい。そういう意味では、宗教的なものに関心が向かうのは当然だけど、宗教団体や組織はそういうものに正しく応えられるだけの正当性が怪しいものも多いし、見極めも難しいしな。一種のビジネスみたいな擬似ぎじ宗教がたくさんある。ピンきりなんだよ」

「それ、霜ちゃんの受け売りでしょう」

「ばれたか」

 私たちは一緒にちょっと笑った。

「……中には本物もあるんだろうけど、そういうのって、中に入ってみないとわからないことだからね。でも、簡単に踏み込める世界でもないし……」

 佑はため息をついて私を見た。

「簡単に踏み込むには、普通に考えて危険だろう。おまえは特に。カモがねぎしょって歩いている典型だ」

 むっとして私は佑をにらんだ。

「こういうことをちゃんと言ってくれる、俺に、もう少し感謝すべきだと思うぞ」

「自分で言うなよ」

「危ないって言ってるだけで、別に全部否定はしてないだろ。関心がそういう方向に向くのも、わかるよ。ただ、慎重にしろと言ってるんだ」

「それはわかるよ」

「宗教の正当性とか本格性を測るような尺度が一応あるらしいようなこと、昔兄ちゃんが言ってたことがあったけど……」

「そんなのがあるの?」

「なんて言ってたかなあ? でも、そんなようなこと言ってた。心理学とか社会学とかなんかそんな話だったと思うけど」

「ふ~ん。私も聴いてみたかったなあ、その話」

「その頃は、まったく関心がなかったからなあ、今思えば、もったいないことをしたかも」佑はそう言って、ちょっと頭をひねって考えていたが、「だめだ。思い出せない」と、あきらめた。

 私は料理をつつきながら言った。

「純粋に真理を探究するための場所で、その宗教や団体に永続的に属することを要求されない、開かれた、自由に指導を受けられるような場所が在ればいいんだけどなあ。そういうところがあれば、瞑想とかもしてみたいんだけど。神様や仏さまを信じることに誓いは立てられても、そこに宗教の指導者や組織や団体とか、現実社会でしている人の営みも入ってくると、なんか微妙な気がするんだよね。人が人を支配する怖さがあるからかな。聖なるものと俗世間の営み、を、永続的な支配関係から切り離せないのかな、とか思うんだよね。本来の信仰は神仏対自分のようなものにある気がする。つなぐ橋渡しとしての、指導者や宗教、組織の存在、そういう聖性は認めるけれど、それは渡す役目のみ、に徹してくれるような。人と人の従属関係をずっと続けることのないような。人や組織に永続的な忠誠心を求めることのないようなもの。私はそういうものを求めている気がする」

 佑はちょっと眉根を寄せた。

「なに?」

 佑はしばらく考え込んでいたけど、自分の記憶の中から何かを手繰たぐり寄せるようにして、言った。

「なんか、兄ちゃんが言ってた話に、宗教の権威性みたいな話があった気がする」

「なにそれ」

「ちょっと黙ってろ」

 う~ん、と思い出しながら、佑は言った。

「なんだっけなあ。おまえが言ってた話とちょっと似通うことがあるような気がした……」

 佑はしばらく黙り込んで、それから煙草を手にとって火をつけ、しばらく考えていた。私は目の前で、食事を中断して煙草を吸いながら考え込んでいる佑を黙って、眺めていた。しばらくの沈黙の後、佑は煙草を吸いながら言った。

「段階的、とか一時的、特定的って言ってたな」

「なにそれ?」

「宗教が起こしやすい問題にはいくつかの特徴があって、それは権威性けんいせいとも関わっているらしい。権威性には良質のものとそうではないものがあるんだって。ここで良質と言うのは、あくまでも話の分類上の言葉で、まったく問題を起こさないというわけではなく、問題を起こしにくいという意味。その良質な権威性には特徴があって、段階的、一時的、特定的だって言っていた」

「なにそれ?」

「支配と依存に権威性は関わっていて、そこには主従関係とか、隷属れいぞく関係とかの問題があるんだってさ」

「ああ、うん、そうだよね。特に宗教が引き起こす問題って、確かに、その問題大きいよね。盲目的な隷属関係に入れば、指導者に問題がある場合でもそれに従ってしまう。信じてしまうことも起きてくる。そういう事件が現実にある」

 佑は頷いて、記憶を探るように慎重に言葉を手繰り寄せるようにして話した。

「良質な権威性にはタイプがある。そのひとつが機能的な権威性。これは医者のように、特殊な訓練を受け、特定の仕事や機能を果たす許可を与えられている人のもつもの。それに対する服従は任意。でも、任意ではない服従もある。法律とか。義務教育を例にすると、これには一般的な社会適応レベルまで発達を促す必要に基づいて、その権威性は教師にある。それは生徒の発達を促していて、局面・一時的もしくは段階・特定的。つまり、生徒に対する教師の権威は一時的なもの。局面的なもの。卒業すればその効果が消失する」

 佑はふ~と煙を吐いて、煙草を消しながら、ゆっくりと言葉を続けた。

「宗教上の導師とは水先案内人、人間の最上位の本性を表している。導かれる者にその本性が実現されれば、導師の正式な権威と機能は終わる。これは、実質的にすべての本格的な東洋や神秘主義の伝統に共通の知識だそうだ。つまり、その権威性は、局面・一時的もしくは段階・特定的」

「へえ………」

 佑は少し考えながら、話を区切って話した。

「良い導師は神聖だが、人間でもある。完璧さは、唯一、超越的ちょうえつてき本質において存在するもので、顕在けんざいした存在に現れるものではない。ところが、信奉者の多くはそのマスターをあらゆる意味でと見る。どんな場合であれ、これは問題を引き起こす兆候なんだそうだ。ことによって、信奉者は自分の古代的、自己愛的、全能的幻想を『完璧な』導師に投影しがちだから。心理的な退行を起こす危険性をはらんでいる」

「心理的な退行?」

 私が聞き返すと、佑は頷いた。

「あらゆる種類の一時過程認識が再活性化され――導師にはなんでもできる、導師は偉大だ、選ばれた自分たちもまた偉大だ──これは極端に自己愛が肥大化した危険な状態といえるらしい」

「………」

「導師もまた人間であり、人類、森羅万象しんらばんしょうが完璧な状態へと進化しない限り、完璧な導師の出現は不可能。そのときまでは完璧さは、唯一、超越のうちにあり、顕在のうちにはないんだってさ」





 宗教が起こす悲惨な問題には、ある程度の共通性がある。そこに関わる人々が、心理的な退行から特異な心理状態におちいっているという。しかしこれは宗教だけに限ったことではない。むしろ人のもつ信念が起こすあらゆる悲惨な問題にみられる。特にそれはある種の選民思想せんみんしそうとしてあらわれる。


 自分たちに唯一の方法があり、それが他者や世界を救う、という衝動には、完璧な導師(万能幻想の投影)のそれ、古代的で自己愛的な――導師にはなんでもできる、導師は偉大だ、選ばれた自分たちもまた偉大だ──同じ心理的力学が働いているという。それはきわめて自己中心的、原始的なものであり、原始的なかたちで原始的結末を招く力を秘めている。問題を起こしやすいのだそうだ。


 他者に対する思いやりとは、他者の存在を敬うことに通じる。本来の利他愛的なものの根底には、他者を尊重する心があるはず。自分を尊重し同様に他者も尊重するという基本的な公平性があるからこそ、思いやりへとひらかれていくのではないだろうか。そしてそれはゆっくりと全ての生命、存在、そのすべての視点を包摂ほうせつし尊重していくおおきなバランス感覚へと深まり、育まれていくのではないだろうか。なんとなく私はそんなふうに思うようになった。仏教者が合掌し交わす挨拶には、互いの仏性を拝み合う、そういう意味があるという。

 ダライ・ラマの言葉にこんな言葉がある。


『すべてのものは常に相対的に存在していて、絶対的なものなど何一つありません。もし、ものが絶対的に存在しているのならば、同じ対象物を見れば、誰が見ても、時間をへだてて見ても、常にその対象物は同じように見えてこなければならないはずです。しかし、現実には、永遠に変わることのない絶対的な存在など何もなく、すべてのものは常に変化しています。ですから違った意見が出てきたときも、そういう見方もあるのだと考えてそれを受け入れ、共通の部分を見るようにしていけば、争い事が起きる可能性をずっと減らしていくことができるのです。まったく違った意見をもった人に出会ったときに、違った角度から見れば違った意見が出てくるのは当り前のことであり、別の人が見たり、時をおいてみたりすれば、すべてのものは違って見えるものなのだと考えることができれば、大きな問題は起きてこないのではないでしょうか。』




 生きていることや死ぬこと、森羅万象の真理、その源泉への希求のような、そこへ近づきたい、かえりたい、そういう切実な願いがあるのなら、その人に応じた何かがきっとあると思う。それは宗教だけに限らないし、それぞれの道があるだろうと思うのだ。大海へと注ぎ込むその一滴もまた、大海そのものの一部。故郷への道の鍵や羅針盤らしんばんは自らの内にあるのではないか。


 私が引きこもって毎日死を夢想してばかりいた頃、私は不思議な体験をした。人生初の深刻な精神的危機に陥っていたからなのだろうか? 私は、人が天使とか神とか守護霊とか親しい人の霊とかいろいろ言うような存在を、体験したようなのだ。

 サードマン現象とも呼ばれる類似の体験があることを、後に私は知った。

 これには諸説あるが、人間の脳がもつ一種のサバイバル能力なのではないかといわれている。

 なんらかの危機状態に陥った人間が、その危機を乗り越える導きを与えるかのような、実際にはそこには存在しない第三者の存在(声や姿など)を知覚する――幻影を見る――現象。これは体験した人によっては、亡くなった家族だったり、天使だったり、見知らぬ人であったり、もう一人の自分だったり、さまざま。でも、そこに実在しない何者か(第三者的な存在)に導かれ、体験者は生死に関わるような危機的状況を、現実的に脱しているのだ。具体的な会話や指示、導きなどを通して。そして体験者のほとんどが、それぞれが自分が体験したもの見たものを、脳が作り出す幻影とする科学的説明を完全に否定はしないが、あれは、天使だった、亡くなった親友だった、精霊だった等、見たまま体験したまま、彼(彼女)が自分を救いにきてくれたのだと信じている。

 この現象を科学的に解明しようという試みの中では、脳の左半球と右半球をつなぐ神経ネットワークは全体の数%なので、普段アクセスできない場所へ、なんらかの危機的状況に陥った時にそれが活性化してつながる可能性があるのではないか、と考えられているようだ。

 極度の酸欠や疲労などにより身体的危機的状況に陥ったときに、他のエネルギー消費を抑え、もっとも必要なところへエネルギーを送り、他の器官を休ませることがある。すると、まず脳の頭頂葉とうちょうように変化が起き、自己感覚の混乱が生じ、続いて側頭葉そくとうようにも変化が起き、視覚・聴覚の情報も混乱が生じる。そうなると自己の身体感覚や視覚・聴覚情報とが一致せず、くい違いが起きる。そこで、理屈に合うようその情報を変換し、第三者として知覚する。イメージなど(右半球)を、理屈に合うように変換(左半球・論理的思考)し、生み出されるものではないか――等諸説あるが、科学的に解明をある程度までできるかもしれないが、自らの脳を使ってその脳を調べると言う矛盾も抱える以上、どこかに限界が有るだろう、という専門家の意見もある。

 超現実的な霊的存在として認識するか、脳が作り出す一種の幻像とするか、必ずしも二者択一にする必要もないのかもしれない。理屈や理論、物質的原因の探求も興味深いし、超越的存在、神秘的体験として捉えるのも興味深い。しかし、体験者の多くは、神、精霊、霊魂的存在として信じている。それはすべて知らなくてもよいことなのかもしれない、とも言っている。

 私の場合は、サードマン現象と呼ばれる体験にいくらか類似性はあるものの、同じなのかはよくわからない。私がその体験をしたとき、精神的な意味で危機的状況だったものの、特に肉体的な生死に関わる危機的状況ではなかった。そして、私の体験は一回きりではなく、ある一定の期間、継続して続いた。


 私は目を閉じると光の存在を知覚した。それはとてもまぶしく、目がくらむほど(実際は目を閉じているが)に強く明るい光だった。しかし、目を開けると、そのような光はないのだ。それまで暗い室内で私は考え事をしながらベッドに横たわっていた。室内は暗く、光源らしきものも特になかった。それなのに、目を閉じた瞬間、うわ、なんだ? 眩しい? と強い光を感じて驚いて目を開けたのだ。目を開けたほうが暗いというのも、変な話だが、事実そうだった。そして、目を閉じると、また眩しい光がすぐそばにある、というとても眩しい感じがする。閉じたまぶたの向こうに強い光源がある時のように、光を感じるのだ。それを知覚するのだ。驚いて何度繰り返してみてもそれはそうだった。そして、私は、その光のような存在について、深くあれこれ考えるよりは受け入れることにした。なぜなら、その光のようなものは、わたしのそばに常によりそうようにいてくれて、温かく包み、見守ってくれるような感覚があったからだ。それはとても懐かしい感覚だった。よく知っている人が、そばにいてくれて、私を包み見守ってくれているような、とても懐かしい、不思議な安心感があった。私はその中で、いつも眠りについた。この体験は、一定期間、ずっと続いた。

 私はあまりにも自分が落ち込みすぎて、勝手に脳内で何かを作り出しているんだろうか? とも、よく考えた。しかし、それは、結局どうでもよかった。なぜなら私は、その光に見守られて眠りにつくことを繰りかえすうちに、薄紙をはいでいくようにではあったものの、死の夢想に沈み込むだけだったところから、じょじょに生きる力を取り戻しつつあったからだった。それは、なんともいえない安心感に包まれている、というその感覚からすべてがきていた。妄想でも、幻覚でも神秘的体験でもなんでもよかったのだ。

 そして私は、声も聴いた。

「封印を解くんだよ」という、ひとことだった。

 意味はわからなかったが、その声は、まぎれもなく、私が夢でもいいから声が聴きたい、会いたい、と願った人の声だった。

 死んだようにベッドに横たわってばかりいた私は、起きて現実的な活動をする時間を、本当に少しずつ増やしていった。それは必要最低限のことからだったが、それを繰り返していたある日、ふと思いついた、手紙を書こうという、ひらめきに、今度はとりつかれたように文字を書き始めて、気がつくと、その光の存在はいつのまにか目を閉じて感じるときと、そうでないときがあった。常に継続していた目を閉じたときにみえる眩しい光の知覚は、そんなふうに、じょじょに薄れていった。でも、そのときには、私はもうだいぶ現実的な活動(手紙を書くこと)に夢中になっていて、ほとんど疲れて眠ってしまうか夢中で書き続けているかだったので、そのことへの関心もそれほど強くなく、気づいたら、という感じで、いつのまにかその継続していた不思議な光の現象は現われなくなっていた。

 

 あれがなんだったのか私にはわからないが、少なくとも死にかけていた私の精神は、あの体験を境に、確かに生きる力を取り戻してもいった。

 サードマン現象について知ることになったときも、不思議な気持ちになったし、自分が体験したこととの類似性にも惹かれて興味を持ったが、結局、これ、という結論は今も出ていないし、出そうとも思ってはいない。ただ、体験者の多くが、体験したままにその神秘性を信じている、その気持ちはよくわかる。

 科学的な客観的な解明を否定はしない(とても興味深いと思う)が、物質的な、客観的な観察でとらえられる世界が全てで、それこそが唯一実存する全て、とも思わない。

 どちらにしろ、純粋に科学的に心を観察することは不可能ではないか、と、思う。脳の科学的研究に関して、科学的に解明をある程度までできるかもしれないが、自らの脳を使ってその脳を調べるという矛盾も抱える以上、どこかに限界が有るだろう、と語った専門家の意見が、私には印象深かった。心も同じだ。しかも心は、目に見えるものではない。観察対象が観察する存在でもあり、そこにはどうしても主観的な知の様式をとらざるをえない。当人によって認識され、言葉にして語るなど表現がされなければ、外側からではその内容は知りえないからだ。それに加えて、人の意識、心は、とても微細な動きをする。観察しようとした瞬間から、また意識が動く。自らが観察者でもありながら、その対象の流動的な素因の一つでもあるのだ。そんな中では、直接知る《体験する》しかない種類のものもあるような気がする。直接知(そんな言葉があるのかどうか知らないが)でしか知りようのない、知の様式のようなものが、あるのではないかと思うのだ。

 それは、合理的な、科学的、客観的思考を否定はせず、そこから精神が退行するのでもなく、それを超えたものがあるという認識のようなもので、他者を納得させるというよりは、自ら知る、体験し、味わい、得るしかない種類のものではないのだろうか。そんなふうに思ってしまうのだ。

 そんなこともあって、宗教的、特に神秘主義・密教的な種類の、超越体験のようなものにも興味を持ったのだが、こちらの場合は、古今東西南北の神仏や精霊などに関する超越的体験の記述には、ある程度の共通性があって、祈り、瞑想などの肉体的調整や精神的鍛錬たんれんの段階を経て体験するものが多く、その宗教哲学内に体系付けられていた。

 それは単に心霊を視た・不思議な現象の体験をした(これは禅のなかでは魔境とも呼ばれ、そこに留まることなく次の段階へすみやかに移行することを促されるようだ)というだけに留まるものではなく、その先へと向かう。一種の神仏との神秘的合一のようなもの。悟りのようなものに象徴される境涯きょうがいへ。



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