第2話


 旅行から戻ってしばらく、たすくとは会わなかった。たまに連絡は取り合っていたが、佑も忙しいし、私も仕事を始めたからだった。

 私は資料を作成するアルバイトを始めていた。コピーを取ったり、データ化したり、専門書籍などの紙の文書をデジタル管理できるように打ち込んだりの簡単な仕事。小さな出版会社なので、たまに先輩の取材にアシスタントとして同行したりもする。人の文章をただデジタル化するために打ち込んでいると、ちょっと面白い。その著者の思考をトレースをしているような気分になる。かれたように手紙を書きまくって、文字にして、とにかく書き出さずにいられない衝動は、いつのまにか文字に携わる仕事に昇華されつつあった。私をつなぎとめる命綱は、現実的にも生きるすべになろうとしていた。細く今にも切れそうなくもの糸のような糸は、縁を結んで、しっかり私をこの世につなぎとめる命綱に。



「なに? 仏教関連の依頼?」

 私がデスクに積み上げていた資料を手にとって、先輩の沢渡さわたりさんが声をかけてきた。

「あ、これは、仕事の依頼じゃないんですけど、ちょっと興味があったから集めてたんです」

 私が沢渡さんに答えると、「ふ~ん」彼女は手に取ったその一冊をぱらぱらとめくり眺めていた。それからぱたんと本を閉じて、

「そろそろお昼行かない?」

「いいですよ。私もそろそろ休憩に入ろうと思ってたんで」

「じゃあ、行こう」

「どこ行きます?」

「デパ地下で何か買ってきて食べようよ」

「そうしますか」

 私は財布を持って椅子から立ち上がった。

美月みづきちゃん、仏教なんかに興味あるの?」

 沢渡さんは本を戻しながら私に尋ねてきた。

「ちょっと。先月旅行に行ってきたんですけど、観光で行ったお寺がすごく感じよくて……それで少し興味が出てきたんです」

「ふ~ん、そうなんだ。彼氏と?」

「違いますよ、友達と行って来たんです。私今付き合ってる人いませんもん」

「そうなんだ、紹介しようか?」

「遠慮しときます」

 私は笑って答えて、行きましょ、と彼女をうながした。会社のあるビルから歩いて3分のところにあるデパートに入り、惣菜コーナーを見て回った。活気があって、にぎやかで、お弁当や惣菜の種類は豊富だし、見ていて楽しいが迷った。

「どれも美味しそうね」

「あ、あっちに新しいお店ができてますよ!」

 ごはんの上にサラダや惣菜をどんぶりのようにのせて、サイコロ型の白い紙パックで包んで売っているお店が新規オープンし、惣菜コーナーの一角にあった。私はロコモコ風のお弁当をチョイス。沢渡さんはナシゴレン風のものにしていた。その新規オープンしていたお弁当屋さんで私たちはお弁当を買い、天気もよかったので近くの公園まで足を伸ばして、噴水の近くのベンチで昼食を取ることにした。

 紙パックにパフェのようにごはんやおかずがつめてあるので、手に持って食べやすかった。

「これ持ちやすいし、たたんで捨てられるしいいね」

「この紙パックほしいなあ」

 箸でお弁当をつつきながら、料理の味も美味しいので、私たちはきげんがよかった。お天気もいいし、ベンチはちょうど木陰で、吹いてくる風も気持ちがよかった。

「仕事なれた?」

 沢渡さんは私の教育係を担当してくれたので、何かと気にかけてくれる。

「はい。楽しいです」

「もう少し入る日増やさないかって、部長が言ってたよ?」

 私はアルバイトで週に4日程度働いていた。しばらく引きこもり同然の生活だったので、リハビリというか、体調や生活リズムのバランスを見ながら働きたかった私には、それがベストだったのだ。

「来月からもう少し入る日、増やしてみようかなあ」

「フルで働けばいいのに。契約社員になれば?」

「考えときます」

「うん、考えといて」

 公園には子供連れのお母さんたちも居て、小さな子供が賑やかな声で走り回っていた。都心のなかにあるオアシスだ。広い敷地には緑も多く、噴水や池もあり、くつろげた。

「ここ、気持ちいいですねえ」

「そうね。それに花のいい匂い、さっきからしてない?」

梔子くちなしですよ」

 私は少し離れたところに咲いている、低木に咲いた白い花を指さした。

「ああ、あの花の匂いなの。いい香り」

 う~ん、と深呼吸して彼女は笑った。

「やっぱり自然の多いところはほっとしますね」

 つやつやと光を受けて光をはね返す緑の葉と、白い花をなんとなく眺めていると、沢渡さんは食べ終わったお弁当の包みをたたみながら言った。

「いま私、老子ろうしのミニ特集組まされててさ」

「ろうし? なんですかそれ?」

「知らない? タオの老子」

「タオって、なんとなく聞いたことあるような気もするけど…」

「道経と徳経とがあって、まあ、中国の思想書みたいなもんかな。そこで説かれる道というのが、タオ」

「へえ」

「その道というのが、まあ、自然そのものだと言ってるのよね。ここで言う自然とは、おのずからしかり、という意味の言葉で、平たく言えば、あるがまま、ということになるかなあ? そんな感じのことなんだけど」

「そうなんですか。真理というか、そういうものを説いてるんですか?」

「そうみたいよ? 私も本当にわかってるとは言えないけど!」

 ははは、と笑って沢渡さんは、あ、と私に向き直った。

「そういえば美月ちゃんが興味を持っている仏教にも、自然法爾じねんほうにっていう言葉があるよ。自然は自ずから然り、みずからそうなっていることを言っていて、法爾は真理そのものにのっとってその如くあると言っているんだけど、こっちは仏教のニュアンスが入っているから、自分の計らいのようなものを捨てて、仏の手にすべてを任せきるような意味で言ってる言葉なんだけど」

「へ~、そうなんですか」

 私はちょっと興味を惹かれて彼女を見つめた。

「老子の説く道は、この宇宙を貫く法則みたいなものを言ってるんだと思うけれど、慈悲を与えて神仏が救ってくれるというニュアンスとはちょっと異なる感じ。でも、なんとなく仏教で説かれる真理、般若心経の『空』にもちょっと通じるような気もするし、おもしろいよ」

「へえ……」

「あれ、そろそろ戻んなきゃ。ついデパ地下巡りで時間くっちゃったね」  

 腕時計を見て、あわてて沢渡さんは立ちあがった。

「え、もうそんな時間ですか?」

 私もあせって、空の紙パックをつぶしてビニール袋にしまった。

「あ、フルタイムでの勤務、考えといてね。美月ちゃんのこと私も推してるんだからさ。一緒にがんばろうよ」

 にこにこして沢渡さんに言われて、私はちょっと照れながら「ありがとうございます」と頭を下げた。いろいろお世話になってもいるし、気にかけてくださる頼りがいのあるこの先輩が、私は好きだった。期待にこたえたい気持ちもある。なんとなく嬉しくて涙が出そうだった。それがなんだか恥ずかしい気もして、一人でちょっと赤くなってしまった。

 何が自分をつなぎとめて救ってくれるかわからないものだ。細くきらめく糸は、あたたかな人との縁も結んでくれて、そうして私が一歩一歩と生きる道に、つながっていた。



 仏教で言う真理という言葉は、梵語のサティヤの訳で、サティヤという言語は《在り》の抽象名詞形。《あるべきものの意味と》という意味だ。現実としてそこにあるものを、ありのままにあるとすること、ること。

 佑の兄の霜爾そうじが、私にいつだか教えてくれた。

 彼は私によくいろんなことを教えてくれた。

「大乗仏教では、真如と言い表すんだよ。梵語でブフータタター《~のように》の抽象名詞形で《~のようにあること》を言う。英語だと suchness だね。真如っていうのは、簡単に言うと普遍的な真理、宇宙万有に偏在へんざいする根源的な実体を意味している。。仏教が興った思想契機といわれているウパニシャッドで、宇宙の創造、宇宙の最高原理を《汝はそれなり》と表したものから続いている考え方なんだよ」

「ウパニシャッドってなに?」

「古代インドの哲学書みたいなものかな。ヴェーダ聖典の終わりの部分。ヴェーダは古代インドのバラモン教の根本聖典の総称」

「ふ~ん」

 私がわかったようなわからないような返事をしたので、彼は苦笑した。私はなんとなく彼の笑顔につられて一緒に笑った。そうちゃんの笑った顔が、私はほんとうに大好きだった。いつもはっとさせられる。きれいな笑顔だなあと。

 こうして思い返すと、彼は目が合う度によく微笑んでくれたので、その笑顔の印象ばかり残っている。穏やかで優しい笑顔。困ったような笑顔。照れた笑顔。それから静かな声。落ち着いた話し方。迷ったときに道すじを指し示してくれる、迷いのないまっすぐ伸びた細く長い指先も、優しくあたたかく包んでくれる、大きな手のひらも。みんな大好きだった。ほんとうに泣きたいくらい恋しい。好きすぎて。

 霜ちゃんとは幼なじみだった。もともと私と佑が友達で、佑の家に遊びに行ったときに彼と知り合った。彼が私にとってどんな存在だったかを説明するのは難しい。父の様でもあり、兄でも、親友でもあって、それに時々は弟とか子供みたいでもあった。それから、一時期恋人であったこともある。ひとことで言えば最愛の人。でも、自分が彼を本当に愛していたと気づいたのは、彼を喪ってからだった。それまで、自分でもなんだかよくわからなかった。あたりまえに居すぎて、彼はまるで影のようによりそい支えてくれた人だった。彼は私にとって、とても特別な存在だった。最期さいごまで、ずっと。

 そうして、彼を喪ってはじめて、自分にとって本当に特別で最愛の人だったことに、気づいた。彼が逝くまで、私は気づかなかった。私はいつも、大切なことに気づくのがおそい。

 手紙を書くように、自分の思いを文字にして書き出していくのは、私にとってはいろんな意味でひとつの契機になった。

 昔から私は自分のことを話すのが苦手で、投げられた玉をスパンと打ち返すのは得意でも、本当に思うことの半分もちゃんと口にできない。自分の気持ちをつかむのも苦手だった。時々自分は何を考えてるのかわからなくなった。人と話すとき、その相手が強く押してくるような感じだと、その人の思いに流されて自分の気持ちが、自分でもなんだかよくわからなくなってしまうからだった。だから、人と話す、特に自分のことを話すのは、昔からとても苦手だった。相手の話を聴いて、それについてテニスのラリーのように話すのはよくても、自分のこととなると本当に苦手で、ちゃんと伝えられない。うまく言えないし、おそいのだ。自分の気持ちに気づくのも。

 そんな私に、書くことは、自分の思いをちゃんと自分で知ること、にもつながった。書くことを私に最初に勧めてくれたのも、霜ちゃんだった。彼は私に自分の心をちゃんとつかむには何かに表現するのがいい、と教えてくれた人だった。

 彼を喪ってから、彼の言ったことの意味が、こんな形で本当にわかるなんて。

 本当に私は、大切なことに気づくのが、いつもおそい。致命的なくらいに。 



 久しぶりに佑と会うことになって、バイト帰りに私は待ち合わせの場所へと急いでいた。帰宅する人たちが行き交う明るい夕方の駅前は、にぎやかだった。金曜日ということもあって、これから休日までの時間を楽しもうという開放感やちょっと楽しげな感じが漂う人たちを見ているのは、なんとなくうれしい気分にさせた。

駅前へと続く歩道橋をわたっていたとき、なんとなく見上げた夕焼けの空があまりにきれいで、私はふと足を止めて見入ってしまった。鮮やかすぎる美しい日の名残なごりだった。空のキャンバスを自由に使って、素晴らしい彩を光が描いていた。

 なんてきれいなんだろう。

 世界はこんなに、素敵でとてもきれい。

 雲を絶妙な色彩のコントラストで染め上げている光は、本当にとても美しかった。

 神様っているんだろうなあ、となんとなく私は、ばかみたいに思ってしまった。神様が楽しげに、のびのびと自由に絵筆をとったみたい。神様にとってのひとときの遊戯ゆうぎ。それが人間にとっては、とてもとても素晴らしい贈り物になる。そんなことをなんとなく考えていた。

 夢中にさせられていた私の肩を、ぽん、と誰かがたたいた、と思ったら、それは佑だった。

「ああ、ごめん。なんかつい見とれてしまった」

 待ち合わせ時間に少し遅れているくせに、こんなところで油を売っていたのを見つけられてしまった私は、言い訳のように言った。

「きれいだな」

 特にもんくを言うでもなく、佑は私と一緒に空を見上げた。

「うん、あんまりきれいで……」

 私は彼と一緒に、歩道橋から夕空を見つめた。夕方になって涼しくなった風が、軽く私たちの髪や肌をなでていった。それは清々しくて、快かった。

 この魔法のように美しい世界。この風景。これを、霜ちゃんにも見せてあげたい。佑や私が見ているこの景色。その明るい日の名残に照らされて、なんとなく幸福そうに見える行き交う人たちの顔も。涼やかな風さえも。

 なんとなく私はしみいるように、そんなことを思っていた。

「行くか」

 しばらくして佑に促され、私は「うん」とうなづいた。

 佑は兄を亡くしてから、めっきり口数が減った。ふたりは本当に仲がよかったから。もうここにいない人を想っているのは、佑も私も一緒だった。

 ビールを少し飲んで食事をして、互いの近況報告をして、私たちは気持ちよく酔っ払った。私は生ビールをグラス一杯だけだったけれど、じゅうぶんほろ酔いだった。

 お勘定をすませて店を出ると、暗くなった夜空には明るい月が出ていた。

「わあ、満月だ~」

 私は空を見上げて、うっとりとそのはちみつ色の甘い光を浴びた。

 佑は黙って、夜空を見上げていた。

「昔、こんなふうにきれいな満月の夜に、みんなで一緒にお月見したことがあったね?」

 私がそう言うと、佑はちょっと笑った。

「同じこと思い出してた」

「懐かしいね」

「ああ。そんだけ年くったんだなあ、俺ら」

「まあね。そういうことでもあるね」

 もう何年も昔のことだ。時の流れが、いつのまにかここまで私たちを押し流すようにして運んできて、その流れの中で道が分かれていった、今ではここにもういない人たちのことを、なんとなくお互いにしんみりとして想っていた。

 酔っ払ってるせいか、妙に感傷的な気分だった。

「こういう日は、二件目に行くに限るな。おまえもつきあえ」 

 佑はそう言って、私を後ろからごん、と軽く膝で蹴った。

「蹴るなよ」

 言いながら私は、お酒はもう飲めないけどつきあってやるか、と軽く佑を蹴り返した。

「おまえそのかっこうで、蹴るなよ」

 ドレスコードがある会社のためそろえた、一応OLさん風のフェミニンなスカートにブラウスという、ちょっと見おしとやかそうに見える服装だった私を、残念なやつ、と気の毒そうに見て佑は言った。

「今さらなによ。こんなのかっこうだけって、あんたは知ってるじゃない」

「人目があるだろう、一応女なんだから」

「いちおうもなく女だよ。わるかったな」

 あきれたように佑は私を見た。

「おまえ会社でもその言葉遣いなのか?」

「ばかね、そんなわけないでしょ」

「そんなんじゃ、男できないぞ」 

「うるさいな、いいんだよ、そんなの」

 なんだよ、うるさいな、と私がむっとすると、佑は

「誰かいいやつ見つけろよ」

 と、思いのほか優しげな声で言った。

 調子のくるった私は、少し黙り込んだ。

「兄ちゃんも、おまえが幸せになること、反対しないよ」

 私は少し黙ったまま、佑から目をそらした。なんか泣きそうになったからだ。やっぱりお酒が入った分、妙に感傷的になりすぎるようだ。

「ばか佑。しめっぽくなるじゃないか」

「別に無理に明るくする必要もないだろ」

 そう言って佑は、「俺は泣きたいけど泣けない気分なんだ。だからおまえが代わりに泣け。俺はすかっとしたいんだ」とむちゃくちゃなことを言った。

「ばかじゃないの」

「ここに兄貴がいたらなあ~! なんでいないんだよ、兄ちゃん」

 佑はやけくそのようにそう言って、はあ、と息をついた。彼も淋しいのだ。佑と霜ちゃんは年が離れていた分、父親のいない佑にとっても、霜ちゃんは半分父親代わりだった。仲がいい兄弟、というだけではない絆のようなものが昔からあった。だから、彼が亡くなったとき、私よりも佑のほうが支えが必要なくらい悲しんでいた。人目も気にせず、泣いた。反対に私は、時間が少し経つまで思い切り泣けなかった。その代わり、後になってじわじわとやってきた悲しみに打ちのめされてしまい、しばらく立ち上がれなくなったが。

「ねえ、お店で飲むのはやっぱ無理。私、ひとまえで泣きたくないもん」

 私がそう言うと、佑はうらぎりもの、とでも言いたげな目で私を見た。私はそうじゃないって、と、付け足すように言った。

「外で飲もうよ。お月見しながらさ。佑はコンビニで缶ビールでも買えば? 私はお茶にするけど。昔よく行った公園行かない? なんか懐かしくない?」

 佑は機嫌をなおして承諾した。

「そうだな、それもいいか」

 私たちは久しぶりにその公園へ、電車をわざわざ乗り継いで行った。久しぶりに降りた駅を出ると、だいぶ様変わりしていた。昔あった小さなお店がなくなり更地になっていたり、空き地だったところには新しい大きなドラッグストアがあったり、昔の商店街のお店も少し残っていたけれど、なんとなく町が新しくこぎれいになっていた。

「だいぶ来ない間に、ここも変わったんだな」

 佑はそう言いながら、昔よく歩いた道の面影を、名残惜しそうに眺めていた。

「そうだね」

 私もちょっと淋しくおもいながら、夜道を歩いた。公園につくと、ここはあまり変わっていなかった。ブランコやベンチはさすがに古くなっていたけれど、懐かしかった。

 私たちはブランコの周りの鉄柵に並んで腰掛けた。途中のコンビニで買ってきたお茶と缶ビールでカンパイしつつ、つまみに買ってきたスナック菓子をぽりぽり食べた。しばらく他愛のない話をして笑ったりしていたが、二本めの缶ビールを空ける頃、佑は私にとうとつに尋ねてきた。

「なんで兄ちゃんとより戻さなかったの?」

 私は飲みかけだったお茶をごくん、と飲み下して、

「なんでもなにも」

 と口ごもった。

「それぞれいろいろあったけど、結局最後までより戻さなかったな」

「さっきは新しい誰か見つけろとか言ったくせに、今度は人の傷口を開くようなことを……」

 私が思い切りいやな顔をしてそう言うと、

 佑はばこっと私の頭を思いきりはたいた。

「兄ちゃん、おまえのことずっと待ってたんだぞ!」

 はたかれたことに怒るのも忘れて、私は口をへの字にしてぎゅっと結んだ。佑はちょっと怒っていた。怒りたいのはこっちだというのに、遠慮なく怒りを私にぶつけていた。

 昔、彼の別れた彼女が、私に言ったことがあった。佑は本当に優しい。自分だけにじゃなくて、みんなにも。そういう人だ、と言ったことがあった。その通り、佑はみんなのことを大切におもって、本気で心配したり、怒ったりする。昔からそうだった。みんなの幸せを当たり前みたいに、自分のことのように本気で願ってる。そういうところがあった。

 なので、私は怒りたかったけど、それは、気の抜けたビールの小さな泡のように、消えていった。

「自分でもよくわかんないけど」

 私がそこでちょっと言葉を探していたら、佑は私を怪訝けげんな表情で見た。でも何もいわずに次の言葉を待っていたので、私はそのままちょっと考えてから、ため息をついて言った。

「あまり頼っちゃいけない、とか思ってたから。心配させたくなかったし。だからかな」

「素直に頼ればよかったじゃないか?」

「それだけじゃなくて、ちょっと霜ちゃんのことが怖かったのもある」

「なんだよ、それ……」

「私は霜ちゃんのことが本当に好きだった。でも、彼との距離を縮めるのは、怖かった。あまりに彼の存在が大きすぎて自分を見失いそうで。それは、私のほうに問題があったんだと思う……霜ちゃんに問題があったわけじゃない……あったとしたら、私には魅力的すぎたことかも?」 

「なんだよそれは~」

「なんなんだろう、私も未だにわからない。でも、生きている間、私と霜ちゃんは結ばれることはなかった気がする。それでよかった気がする。後悔はものすごくしているけれど、でも、それしか仕方がなかった気もする」

「おまえって、ものすごく難儀なんぎなやつだぞ? そうとう屈折してるぞ? 意地っ張りとか素直じゃないというレベルじゃないぞ?」

「知ってる。これはもうひとつの病だと思われる。もしくは致命的なほどに恋愛の才能がないのかも」

 佑は煙草に火をつけて、ふ~っと吐き出した。

「ひとごとみたいに」

「それに、霜ちゃんだって知ってたよ。わかってた。私が言わなくても、私が自分でつかめなかった自分の気持ちも、霜ちゃんのほうがわかっていた。見抜いてた。いつもそうだった」

「ふ~ん」

 佑はそう言って、私を眺めた。それから、

「なんだ。知らなかったのは俺だけか」     

 そう言って、昇っていく煙を眺めていた。

 夜空には黄金色のあまい光を降らせる満月が、静かに輝いていた。私はなんとなく、月を見上げていた。

「わるかったよ、よけいなこと言わせて」

 佑が静かな優しい表情でそう言ったので、思わず、ぽろっと涙が出た。別につらかったわけでもないのに。悲しい涙でもない。ただ、涙が出ただけだった。どこかでほっとしたのかもしれない。自分のずっと吐き出しようのなかった気持ちを、佑が聴いてくれたことが、もしかしたら、私は嬉しかったのかもしれない。

「わるかったよ」

 佑はさらに申し訳なさそうに言った。  

 私はこの誤解をきちんと解きたくて、ぽろぽろ勝手に落ちてくる涙で泣きながら言った。

「ちがう、べつに悲しくて 泣いてない。だからあやまらなくていい。………たぶん ずっと、自分の気持ちを吐き出した かったんだと思う」

 佑はちょっと呆気に取られて私を眺めていた。

「聴いてくれてありがとう。話せて これで よかっ たの」

 泣きながら、それでも一生懸命に伝えたい言葉を、たどたどしく話した。佑は辛抱強く、詰まったり、間が空く私の言う言葉を最後まで聴いてから、気の毒な子供でも見るかのように私を見た。それからあきれ半分といった感じで、「おまえ、本当に難儀なやつ」と言って、私の頭に手を載せた。それからちょっと遠慮がちにぎこちなく、なでなで、となでたので、私は悪いと思いつつもちょっとがまんできなくて吹き出してしまった。

「なんだ、よ!」

 赤くなって怒った佑に、私は

「なんかおかしくて。でもありがとう」

 と、また笑ってしまった。 

「どうせ兄ちゃんとは違うよ。仕方ないだろ、今ここにいるの、俺しかいないんだから」

 霜ちゃんの代わりに慰めようとしてくれたらしい。頭を優しくなでるのは、霜ちゃんの専売特許だ。私も佑も、昔からそれをしてきてもらってきたもの同士だった。しかしあまりにも今度は似てなかったので、つい笑ってしまった。ぎこちなさから、死ぬほど照れくさく思いながら、がまんして精一杯思いついた慰めをしてくれたのが、痛いほどわかってしまった。

「佑は、佑だよ。でもありがとう」

 彼らしい優しさに、今度は涙が出た。笑いも一緒だったけど。

 むすっとする佑に、私は「ごめん、笑ってるけど、これ、本当にうれし涙だから」と訊かれもしないことを言った。でも、ほんとのことだった。

 佑はちょっと私を黙って眺めてたけど、ぽつりと言った。

「兄ちゃんじゃなくてごめん」

「なんであんたが、あやまるのよ」

 私がそう言うと、佑はちょっとため息をついて、言った。

「俺、兄ちゃんと代わってやりたかった。俺が代わりに逝ってやりたかった。いいやつって、なんで早死にするんだろう。俺なんかより、兄ちゃんが生きてたほうが、ずっとよかったのにな、って思う。今でも時々」

「ばか! そんなこと、誰も望まないよ。霜ちゃんも、私も、誰も!」

 佑は肩をすくめた。

「本当に、ばかなんだから……なんでそんなこと言うのよ」

「べつに。オヤとか見てても、なんか思うんだよ。時々」

「あんたはいい奴すぎるくらいだよ。誰にも誰かの代わりなんて、できない。佑は佑じゃなきゃだめなんだから。あんたがいなきゃだめなんだから。そんなこともわかんないの?」

「怒るなよ~」

「ばか! そんなこと言ったら、私だって代わりたかったよ! 霜ちゃんが生きててくれるなら、私だって代わってあげたかった!! でもそんなことできない。人の生き死にには意味があるからだよ! もって生まれたその人だけの意味がそれぞれあるから、今こうしているんじゃない。先に逝く人には逝く人の。残された人には残された人の。霜ちゃんはそれをちゃんとわかってた。私たちにも、それを見つけてほしいって思ってる。だから、私たちもそうしないといけないんだよ……」

 言いながらぼろぼろ私は泣いた。

 佑は黙って泣いてる私を見ていた。月明かりの中、ぽつんと立ち尽くす佑も、一人でぼろぼろ泣いてる私も、取り残された孤児みたいだった。

 

 

 大切な人を喪って、ほんとうにほんとうに悲しく思うことは、してあげたいとおもうことが、してあげられないことだ。もっとこうしてあげたかった、もっと大切にすればよかった。喪ってはじめて、今まで与えてくれていた支えてくれていた光の大きさに、本当に気づくから。心配ばかりかけさせてしまったことを、本当に申し訳なく思った。恩返しをしたくてたまらない、そういう後悔だった。一緒に過ごせた時間。相手をおもう気持ち。してあげられたはずのすべてのこと。ひとつひとつを、もっと大切にすればよかった。

 ごめんね、ありがとう、そのひとことだって、ちゃんと伝えられたそのときに、もっと大切にすればよかった。今から思えば、共に過ごせる時間は、本当に奇跡みたいに貴重な宝物のような時間だったのに。水道をひねれば出てくる水みたいに、あたりまえのようにすぐそばにあって、そうしてさらさら流れていくその魔法のような時間は、限られたものだったのだ。よく考えてみれば、生き別れにしろ、死に別れにしろ、一緒に過ごせる時間って限られたもの。人生の時間には限りがあるから。当たり前だけど。

 でもそんなふうにちゃんと考えて、大切にすることにも気づけなかった。してあげたいことが本当にいっぱいあって、でももうそれはしてあげられなくて、私にはそれが本当にとてもつらかった。ほんとうにくだらないこと。好きだった料理を作って食べさせてあげたいとか、このきれいな景色を見せてあげたいとか。そんなちょっとしたことが、いつも私をたまらなく悲しい気持ちにさせた。



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