霜月文書

天水二葉桃

第1話

 


その白い石段は黄金色の麦畑が一面に広がる広く明るい風景の中、ひとすじに続いていた。石段を降りていくと、寺院のような大きな美しい建物があった。門の脇には南国の植物のような樹木があり、鮮やかな黄色い果実をつけている。門は朱塗りの木で作った枠のように、戸がなく、人が一人通れるくらいの通路が開いて向こう側へと通じていた。


 私はその門をくぐり、寺院の敷地内に入った。


 門は石造りの白い土台の上に建てられていて、少し段になっていた。私はその石段に腰掛けて顔をおおって泣いた。


 何故泣いているのか自分でもよく解らなかった。


 ひとしきり涙を流すと、高く美しい青空に鳥が一羽、透き通るきれいな声を響かせて飛んでいるのに気づいた。


 不思議なところだった。


 洋の東西南北が混在した美しい庭園のあちこちに花や樹木が咲き繁り、足元には玉砂利のような白い丸い石が敷き詰められていた。川の流れのようにゆるやかに蛇行する玉砂利の道は、古い大きな門の前まで続いていた。東洋風の造りの大門は、ステンドグラスのはめこまれた鐘楼しょうろうのような見晴台と一体になっていた。


 私がそれに一人で見とれていると、背後から一人の青年僧が近づいてきた。


「迷わず進みなさい」


 そう言われて、彼の顔を見上げると、どこか懐かしい人だった。瞳がとてもきれいで印象的だった。けれど、どこであった人なのか誰なのか思い出せない。旧知の間柄のようで、私は懐かしさと親しみと安心感を心から感じていた。


「はい」


 私がそう答えると、彼は静かに微笑んだ。


「一緒に」


 大門の向こうには、ひとすじの白く光る細い道が見えた。両脇は海のようだ。片側は凍るような冷気が立ち上る青い海。もう片側は燃えさかる炎のうずまく赤い海。


 息を呑む私の前を先導するように、彼は先に立って歩き出した。


 私は細く白く光る足元のその道を、こわごわと進んだ。


 一歩でも踏み外せば、どちらかの海に落ちてのまれてしまう。きっと助からないだろう。私は道を踏み出してしまったことを後悔した。今なら戻れるかもしれない、と振り返ろうにも、道が細くて振り返ることも危険だった。前に立って歩いていく彼は静かに落ち着いて歩みを進めていた。私はおいていかれまいと、必死に前に進んだ。道は狭く、険しい。それでも、一人ではないのでましなような気がした。


 足元の道は少し進むと、ちょっとだけ道幅が広くなった。それでも気を抜けば、道を踏み外して両脇に待ち構える海の底に落ちてしまう。なんといっても、柵のようなものがないのだ。慎重に歩を進めた。


 どれくらい進んだろう。ふと、先導してくれていた彼が、振り返った。


「僕は君を待っている。しっかり歩いて来るんだよ」


 優しく力強い声でそう言ったかと思うと、私の頭に手のひらをのせて目を閉じ、何か祈りの言葉を唱え祝福をしてくれた。そうして彼はそのまま霧のようにすうっと姿を消してしまった。


 私は道に一人取り残されて途方にくれた。


 白く光る道は、長くどこまでも続いていた。


 不思議なことに、私は一匹の白い蝶になってそれをながめていた。眼下には、『私』がいて、一人、細く白い道の只中、取り残されている。下にいる『私』は、ここから引き返そうか、それとも、このまま進むのか、迷っている。振り返って今まで来た道を見ている。そうして、ここまでの恐怖を思い出し、またそれを味わって戻ることと、このまま先へ進んでたどり着く見えない先のことを、心で天秤にかけているようだった。


 白い蝶の私はそのまま高く舞い上がってそらを飛んでいく。眼下に見えるものはもう小さく小さくかすんで、そうして気づくと天空で星たちの合唱を聴いている。宙に浮かぶきらめく星々はみんな歌っていた。そして瞬きながら振動しそれぞれのダンスを踊っていた。


 夢から覚めて、私は静かに起き上がった。


 ここのところ毎日同じ夢を見る。夢の最後も一緒。ぼうっとしていたら、目覚ましのアラームが鳴った。早朝だった。


 


 


 


 夕闇の中、ぼうっと和紙を透かして明かりを灯す燈籠とうろうが、川面を流れていくのを眺めていた。


ひとつ、ふたつ……水の流れの中、次々と燈籠が流れていく。


 それぞれが先祖や大切な誰かのために祈り、手向ける天国への祈り――ゆらゆらと川面を漂いながら小さな灯は流れ、流れ、人びとの祈りと共に、の岸へと運んでいく。


 手を合わせる人たちに混じって、私はぼんやりとその灯りを眺めていた。


水辺の風はひんやりと肌寒く、そのうちに、ぽつ、ぽつ、と小雨が降り出して、冷たい風と一緒に私の体温を奪っていった。


辺りには傘をさす人たちもちらほら見えてきたが、燈籠流しは続行され、ぼんやりとした灯はゆらゆら漂いながら、葬列のように次々と水面をすべっていった。


天国への手紙を書こう、そう私が思いついたのは、それが、あまりにも悲しみに沈みすぎてもう立ち上がりたくないと、未来への光までも失いかけていた自分を立ち上がらせる、唯一の方法だったからだ。


愛する人と死別する、そういうひとたちが世の中にはうんとたくさんいるし、今この瞬間だって、人は死ぬし、生まれる命もあるのだ。そういうことをいくら考えてみても、私には何の効果もなかった。同じ悲しみやもっと深い悲しみを背負った人だっている、彼らもその悲しみから立ち上がっている、こんなふうに沈み込んでばかりいてどうするのだ、しっかりしろ、私の心は、自分で思うよりずっとおしゃべりだった。理性というやつがこれなのか? 自分で自分を叱りつけ、励まし、わかったようなえらそうな〝おしゃべり〟を、弱りきって今にも死にそうな自分相手に延々とぶちかますのだ。私はその〝おしゃべり〟にうんざりして、傷ついてもいて、頭でわかっていてもどうしようもない、立ち上がる気力さえ搾り出せない、ふがいない自分を呪いたくなって、支離滅裂しりめつれつで、自ら傷を深めていくように、とても傷ついていた。


このままではいけない、ほんとうに、いけない、でもどうしたらいいのかわからない。毎日目が覚めるたびに、今日も自分が生きていることを悲しく思う、そんな日がずっと続いていたが、あるきっかけがあり、そこから少し立ち上がりかけていた頃だった。そんな私に、ある日ふと天からの啓示けいじのように、手紙を書こう、という想いが降ってきた。


 ――天国へのラブレター。


そんな言葉をどこかできいた気がする。とにかく、私が起き上がる気力もなく一人しくしく泣いていたら、その言葉がぽん、と突然、なんの脈絡みゃくらくもなく頭に浮かんだのだ。


 それはまさしく私にとっては、雲間からさすひとすじの光。天使が救いの手を差し伸べてくれたかのようなひとつの啓示でもあり、ひらめきでもあり、細い細い蜘蛛くもの糸のように透明できらきらして、少しでも強く手元に引き寄せようとしたら、今にもぷつん、と切れてしまいそうな、はかない命綱だった。


 私はそのかすかな光を、はじめは驚きをもって眺めた。それから、思った。わるくないかもしれない、と。これなら自分にもできるかもしれない、そんな気がしたからだ。


 その思いつきにき動かされるようにペンをとった私は、とにかく夢中で手紙を書き続けた。疲れきって眠くてどうしようもなくなるまで、ずっと。ものすごい集中力で、文字通りに夢中になって書き続けた。


 昔から自分の想いを口に出して伝えるのが苦手だった私には、手紙を書くということは、一種のセラピーの役割をしたようだった。


 そうして、その書きつづった手紙を一枚だけ封筒に入れて、燈籠に入れた。


 地方の風物詩で観光客も集まるこの燈籠流しのイベントに、参加できるだけの気力と体力を取り戻してもいた私は、こうして今、流れる燈籠をぼんやりと見つめていた。


 燈籠に使われる材料はきちんと自然分解される物のみ使用し、エコロジーにも配慮しています、といういかにも現代的な説明もされて、古式ゆかしいその行事は粛々しゅくしゅくと始まった。手を合わせ、それぞれの祈りを手向ける人々の姿が夕闇の中浮かび上がる。それは足元が小石だらけの河原のなか、幽玄ゆうげんなどこか幻想的な雰囲気をかもし出していた。ここがもう、あの世とこの世の境目のようだ。石を積む子供がいるという、さいの河原の話をなんとなく思い出させた。記念に足元のすべすべした丸い小石を持って帰ろうかと手に取って眺めていたら、


「石を持って帰ってはいけない、って、いつだか兄ちゃんが言っていたな」


 一緒に付き添い兼物見遊山けんものみゆさんで来ていた友人のたすくが、隣で私にぽつりと言った。


「ふ~ん」


 私はそう言いながら、白く丸くすべすべした小石の肌触りを名残惜しく思いながら、また足元にその小石を静かに戻した。


「さすがに夜になると冷えるな。おい、そろそろ帰ろうぜ。もうじゅうぶん見ただろ?」


「うん」


 川面を渡ってくる冷たい風と霧雨のような雨ですっかり冷え切っていたので、彼の提案に私はうなづいた。


 別々に部屋を取ったホテルに戻り、雨に濡れた服を着替えて、私たちはホテルのレストランで落ち合った。私がレストランに入ると、先に来ていた佑はビールを飲みながら煙草たばこを吸っていた。


「お待たせ」


「先に夕食のコース頼んどいたから」


 彼が言うが早いか、ウェイターが前菜を二人分持って来た。


 おお、いいタイミングだ。


「ちょうどいい、食べよう」


 グラスに少し注いでくれたビールでカンパイしつつ、私と佑は夕食を始めることにした。中庭に面した壁は一面ガラス張りで、南国のリゾート地を意識した造りの中庭には、かがり火のような火がいくつか焚かれていた。


 その炎を眺めながら食事をとった。


「炎ってきれいだよね」


 ちらちら燃える炎は、時折はぜて、夜の闇の中に火の粉を舞い上がらせた。


「ああ、そうだな。なんか生き物みたいだ」


「ほんとだね」


 炎をじっと眺めていた佑は、グラス片手に言った。


「雪に閉ざされた長い冬の国では、この炎を思わせる色が、ほんとうにきれいに見えるものなんだってさ」


「ふ~ん?」


 南国を思わせる造りの中庭とは対極の、冬に閉ざされた国……。


 でも、そのイメージのほうが、今の自分にはしっくりくるような気がした。


 どこまでも続く白銀の平原。


 生き物の生命さえ拒みそうな、すべてが、時間さえも凍るような……冷たく美しい異国の風景がなんとなく浮かんだ。


 そこを吹き渡る、凍るように冷たく刺す風も―――


「でも、一番きれいなのは太陽の光で、その黄金の光の美しさは、本当に比べようがない。地平線から太陽が昇ってくると、そこが金色に光り輝く。それはもう、息を呑むような、圧倒される美しさなんだってさ」


「見てみたいなあ、その風景」


「いつか行ってみるといいじゃないか」


「そうだね」


「せっかく生きているんだ。見たいものを見て、行きたいところにいくのもいい。やってみたいと思うことを、してみればいい」


 佑はそう言って、私をまっすぐ見た。


「……そうだね」


 私はなんとなく目を伏せて、自分の手元を見つめた。グラスにはカンパイで一口飲んだだけのビールが残っていた。黄金色の液体の中、まだ残っている炭酸の気泡が底から上ってはじけた。私はなんとなくそれを眺めていた。 


「燈籠きれいだったな」


 佑はそう言って、空になったグラスにビールを自分で注いだ。


「本当にあの燈籠、あの世まで流れていきそうだったね」


「………」


 佑はビールを飲みながら私を見た。


「霧雨のもやのなか、川面を流れて消えていくから……本当にあの世とこの世の橋渡しをしてくれそうな気がしてしまった」


 私がそう言うと、佑は黙ってうなづいた。


「こういう行事は生きている人のためのものだと思っていたけれど、でも、今日自分で流した燈籠を眺めていたら、本当に信じた。ちゃんと天国までそれぞれの祈りを届けてくれるって。そう思いたいからなのかもしれないけれど、きっと届くって、思った」 


 佑は黙ってビールを飲みながら、ガラスの向こうの炎を眺めていた。私もなんとなくそちらを眺めながら料理を口に運んだ。レストランは落ち着いた雰囲気の緩やかな音楽が流れ、食器の触れ合う音や人びとの笑いさざめく声が聞えていた。


「おまえ、なんか幽霊みたいだった」


 佑が突然そう言ったので、私は口に運ぼうとしていたトマトの刺さったフォークを手に


「なに?」


 と聞き返した。


「燈籠を見送っているおまえまで、あっちに行くんじゃないかって思った」


 奇妙なことを言う。


 私は佑の表情を眺めながら


「そりゃ、行けるものなら行ってみたいけど、行けるわけないじゃん?」


「やめろよ」


「は?」


「本当に行っちまいそうだから、たとえでもそんなこと言うなよな」


「……後を追うとでも言いたいわけ?」


「まあ、そんなふうに見えた、ってこと」


 神妙な面持ちでまじめにそう言う佑に、私は少し笑ってしまった。


「心配してくれているってこと?」


「笑い事じゃないだろ」


「ばかね、そんなことするわけないでしょ」


 私はまた少し笑いながら言った。


 それから、はたと気づいて、


「あ、もしかして、あんた、それを心配してわざわざここまでくっついてきたわけ?」


 佑は少しばつが悪そうに私をにらんだ。


「おまえ、ついこないだまでの自分の状況考えてみろよ。それで心配するなと言うほうが無理があるだろ」


 そんなまるで信用できない子供を見るような目で自分が見られていたことに、ショックを受けている自分もいたが、ここは感謝すべきなんだろう。相手から見て自分がどう見えるのかまで気が回らないくらい、私は自分の中にどっぷり沈み込んでもいたのだ。


「心配かけさせて申し訳なく思ってるよ」


「珍しく殊勝しゅしょうだな?」


「まあ、それくらいは私でも思うよ……ありがとう、佑」


 ついこないだまで引きこもってうつに入っていたような人間から、一人旅に突然行くと言い出されたら、私もそれを心配するかもしれないな、と、妙に納得しつつ、友情に改めて感謝と尊敬の念をこめて私は言った。佑はちょっと黙って、彼を見つめる私を見返し、何故か照れて少し赤くなった。


「な、んか、調子狂うな!」


 そう言って、手に持っていたグラスをあおる様にしてビールを飲み、また自分で注いでぐいぐい飲んだ。悪態あくたいには慣れていても、《殊勝な》私には、慣れないようだ。私はちょっと笑って、言った。 


「燈籠もきれいだったけれど、祈る人の姿もきれいだったね」


「うん? そうだな」


 てきとうに相槌あいづちを打ってんな、とわかる程度の気のない返事に、私はその話はそれ以上続けなかった。


 人は何のために祈るのだろう?


 ひざまずき、手を合わせ、頭をたれて……あるいは祈りの対象を見上げ、あるいは自らの内奥ないおうを見つめるように軽くあごを引いて……。立ったまま、しゃがんで、正座して…、今までにいろんな場所で、あらゆる姿勢やいろんな姿をみたけれど……その心の中までは知りようがない。


 


 


 


 目が覚めて私は、ベッドの上でぼんやりとしていた。


 不思議な夢をみた。


 夢の中で私は一匹の白い小さな蝶だった。


 白い蝶の私は七つの素晴らしい門をくぐり、美しく優美な素晴らしい世界を旅するのだ。そして、最後に死ぬ。その蝶は死ななければならないからだ。その先には小さなそのからを捨ててしか進めない。その殻は重すぎて、とても一緒に持っていくことはできない。殻を捨てて、白い小さな蝶は死に、向かう先はすべてを包摂ほうせつするようなひとつの源だった。言葉にするなら永遠の故郷のようなものだった。しかし、白い蝶は、もうひとつの旅もする。こちらは七つの悲しい門をくぐる。そうしてやはり、同じように白い蝶は死ななければならない。そうして向かう先、そこも永遠の故郷だった。


人が天国とか地獄とか呼んでいる、その両方の旅を蝶は経て、死に、たどり着くのはどちらも同じ。そういうような夢だった。


 


 私には難しいことはわからないけれど、生きているものは死を避けられない。純粋に物理的な意味で。それと同じように、心や魂の世界でも、死は避けられなくて、いずれ死ななければならない、何か体に相当するような殻をもっているのかもしれない。ある時点までそれは自らを守り運ぶ乗り物で、よろいの役目をするけれども、どうしてもそこから先は、それを捨てていかなければ到達できない。そこから先へは、一緒に持っていくことのできない、重荷となる、その役目を終えて捨てるような何か。その意味での死は悲しいことでもなく、通過儀礼つうかぎれいの一種のようなものだ。どこかで、私にはそんなような感覚があるのかもしれない。たとえ自殺と呼ばれるような行為であっても、そういう跳躍ちょうやくを求めてなされるものがあるのかもしれない、そういう人は不幸ではないかもしれない、そういうような、どこか現実離れした、空想のようなものがあるのかもしれない???


 言葉にすると誤解をたいへん招きそうで、たぶんこれは言葉にして語ってはいけない種類のことで、直接自ら見て体験することでしか知りようのないような、そういう感覚の中に、こういうものごとはあるような気がした。言葉にした途端、あらゆる矛盾が生まれるからだ。でも、人は思考するときにどうしても言語に頼ってしまうので、思いや考えを伝えたり忘れずに残しておきたい衝動も持つので、むなしいこととわかっていながら、つい言葉にしてしまうのかも……。


 今の私のように―――


 夢から覚めて、夢の意味をあれこれ考えていた私は、自分でなに考えてるんだろうなあ、と思うようなことをつらつら考えていた。なんかへんな面白いことを今自分は考えているけれど、これを忘れたくない、という衝動で、つい日記を開いてそれらを言葉にしてペンを雑に走らせ、なぐり書きのような(自分にしか判別不能な)文字をそこに残していた。


 書く、というくせが最近ついたせいで、なにかあるとつい書き留めてしまう。何かに記しておきたい、残しておきたい、という衝動。それらはすべて、私にとっては結局、天国へのラブレターだった。


 ベッドサイドにはお香たてを置いて、線香に火をつけていた。煙がゆっくりと立ち昇る様を眺め、ベッドの中で日記にペンを走らせていた私は、そのまま、日記の上に顔を乗せて目を閉じた。


 ほんとうなら、いま、ここにいてほしい。


 あなたへ、あなたへ、私のまごころのすべて、みるものすべてを、捧げたい。この心を取り出して。わたしのみるもの、きくものすべてを、みせたい。聴いてほしい。そんなラブレター。


 これは、あなたへの、私の手紙――


 


 また少しうつらうつらしていた私は、メールの着信音を夢うつつに聞いていた。ああ、たぶん佑だ。返事しないと。半分ねぼけたまま私はそう考えながら、まどろんでいた。どれくらい時間が経ったのか。しばらくしてドアをノックする音が聞えて、やっと私は起き上がった。髪もなおさずそのまま寝巻きのままでドアを開けると、着替えを済ませた佑が立っていた。


「朝めし行くぞ。用意して降りて来い」


 それだけ言って、佑はねぼけ顔の私を残してきびすを返しさっさと行ってしまった。私はくしゃくしゃと髪をかきあげて、今さら洗面所の鏡をのぞいた。おお、ひどい。いかにも寝起きそのまま、の、くしゃくしゃの髪にむくんだ顔。ふだんもそれほどいいとはいえない面相だとしても、かなりぶすだった。まあ、どうせ見られた相手は佑だから、いいんだけど。


 冷たい水で顔を洗って、腫れたまぶたを少し冷やすと気持ちよかった。寝ているときも気づかないうちに泣いているので、ここのところ私のまぶたは、はれぼったい。


しかし、ぶすだな~。


 鏡を眺め自分で感心しつつ、私は冷たい水をばしゃばしゃと顔に浴びせかけた。


 身支度を済ませて階下のレストランへ行くと、佑が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。食事は先に済ませてしまったようだ。


「おはよう」


 私が席に着くと、佑はちらっと私を見た。


 そのままウェイターに注文をして運ばれてきた料理を私は黙々と食べた。佑はコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいた。


 旅行の目的は燈籠流しに参加することだったので、今日は余裕を持ってとった一日の為特に何の予定もない。明日は昼前にここをチェックアウトする。


 食事をあらかた終えた私は、口を開いた。


「佑、どこか行きたいところあれば、行ってくれば? 私はおとなしくしてるからさ。心配しなくていいから、せっかくなんだし、観光でもしてくれば?」


 佑は新聞をたたんで私を見た。それから煙草に火をつけて、すうっと大きく吸い込むと煙を吐き出した。


「おまえこそ、せっかく来たんだから、どっか行こうぜ」


「別に特に行きたいところもない」


「じゃあ、つきあえよ」


 私は肩をすくめた。


「いいけど?」


 特に何をするとも決めていなかった私は、彼に同行することにした。朝食を終えてから、私たちは市内の観光名所を回った。ほぼ寺社巡りのようなものだった。天気はうす曇りで、雨は降らないけれども、なんとなく肌寒かった。


「なんか巡礼の旅みたいだね」


 私が言うと、先に立って歩いていた佑は、前を向きながら言った。


「実際似たようなもんだろ」


 陰気な天候の中、神社や仏閣をめぐる私たちは、なんだかものすごく年老いた旅人のようだった。言葉少なに二人でまわった。


 の時間にいるのは、私だけではなかった。佑もまた喪の時間を過ごしていた。亡くなったのは彼の年の離れた兄でもある。彼は遺族だった。私が喪った最愛の人は、彼にとっても愛する大切な身内だった。


 


 その観音像の前に来たとき、私たちは二人で黙ったまま、手を合わせるのも忘れて立ち尽くしてしまった。


 御秘仏ごひぶつであるその観音像が何十年かに一度開帳かいちょうされて参拝できる日に、ちょうど運よく当たっていたので、私たちは山奥のその寺院まで足を延ばすことにしたのだが、いざその観音像の前に立って参拝したとき、私たちはなんだかとても不思議な気持ちになった。


 空気が違う、と感じたのは寺院のある山の入り口に入ったところからだったが、寺院の敷地内に入ったときにも更にそれを感じた。肌にぴりぴりとした電気を帯びた空気を感じるような、清冽せいれつな清々しさのようなものが、辺りに濃く漂っていたのだ。曇り空の中からも光が差し、まるでここにスポットライトを当てているかのようだった。


「聖域って感じだね」


 なんとなく私がそう言うと、佑も神妙しんみょうな顔をしていた。


「なんか、空気が違うな、ここ」


「うん」


 辺りはさすがに山奥なだけあって、緑が豊かだった。森林から発散される、マイナスイオン効果? もしくはフィトンチットのせい? とにかく、そこはとても静謐せいひつで、清らかな、妙に落ち着く場所だった。きれいに掃き清められた石畳や、石や、丁寧に世話をされているのだろう境内けいだいの中の木々や草花も、活き活きとしてつややかでとても美しかった。全体的に造りこんでいるわけではないのに、すべてが一体となり自然で調和がとれているのだ。


 観音像が奉られている小さなお堂は簡素で飾りがなく、それがかえって清々しく、シンプルで美しかった。


 お堂の前に立ち、見上げると、その観音様はあまり大きくはなかったけれども、やはり、とてもきれいだった。優美な立ち姿。静かな表情。頭にはたくさんのお顔をのせている。私たちはほぼ同時に息を呑んだ。


 そうして不思議な縁のような、導きのようなものを、やはり同時に感じていた。言葉を失い、手を合わせることも忘れて、しばらく観音像に見入ってしまった。


 とても静かで、木々を揺らす風の音が時折聞えた。


 時間の流れがここだけは異質なような、静謐な、不思議な感じがした。


 しばらくして、佑が微かに息をついて、


「似ているな」


 と、つぶやくように言った。


「うん……」


 どこが、というと困るのだが、しいて言うと全体の雰囲気、表情、その感じが、佑の兄である彼にとても似ていたのだ。


 私は静かな表情のその仏さまにみとれていた。涙ぐみながら。そうして、自然と手を合わせていた。見上げた観音様のお顔は白く、美しく優しかった。


 


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