第5話  プロローグ

グラナダに突き出した尖塔、それこそが世界のはじまりであったことを忘れてはならない。すべてのはじまりは突如として起こるけれど、この戦闘が知らせとなり鐘が人々に知らせたことはこの世の幸いだったのか、それとも神の慈愛だったのか。そのことを今は誰も知らされてないない。なぜなら人は思考することをやめてはならないからだ。脳内で起こる化学反応をいつも信じていたのはこの万物を作られた神だ。神の手中にある限り、人は思考停止することを許されない。

西暦がCGになってからもなお、ADであったとでさえ、BCのあの時分でも神は思考停止する人々を天からの雷をもって諫められた。

青天の霹靂ではない。すべては人の怠慢への戒めであった。物事にはすべて理由がある。人の怒りもまた無意味に発生しないように。


自己紹介をしよう。私が何者であるか。

何者であってもかまわないというわけにはいかない。この世にはすべてにおいて断りがあり、その順序を追っていかないかぎり正しい道が開かれない。面倒な概説こそが万物の近道であることを今示さねばならない。なぜか、それが私が預かった仕事であり、ここで照り輝かせる世の光であるからだ。

どんなに嫌悪をもって否定されたとしても私はやらねばならない。私の使命とはそれであり、それを遂行せねば神のもとに還れないからだ。

ある種利己的な望みであり、そしてその利己的な思いはいずれ利他的になる。決して排他的にならないのが、この世で与えられた仕事というものなのだ。

仕事には優劣がない。ただおのれの中で善悪があるのだから、成長せねばならない。それが仕事である。


この概説はそうそう長くなるわけでない。手短にすべてを語るつもりだ。

粗削りであろうとも私はかまわない。なぜならこれは死への一歩であり、自由への行進であるからだ。完全なる利己的欲求のもとに私は気ままにこの文章を書いている。

文字通り、私の死のために、文字通り私の自由の獲得のために。


人は思考を止めたとき、神が怒りを示される。青天の霹靂であるという概念こそが思考の停止が世を支配していると言えるだろう。


よく考えてみてほしい、危機意識というものは思考の停止の時には起きない。発展的未来的な思考の時もまた人はよく思考する。壁をも突破するほどに。


このプロローグで伝えるべきことは、今この世が思考の停止に見舞われていると言いうことだ。

そして青天の霹靂などではなく、神がしかるべき最初から示しておられた理屈にのっとってこの世に大きな変化のきっかっけを与えられたということだ。


尖塔が突き出たとき、人々は暢気に笑っていた。

あの鐘の音を聞いたものは世界にたった3人。彼らがなぜ鐘の音を聞き、世界を牽引することになったのか。

話はとても単純である。この思考停止の世の中において常に思考することをやめなかったのだ。本来であればだれでもあの鐘の音は聞くことができる。しかし、あの鐘の音の本質を聞き及んだのはたった3人。


神はいつも3を好まれる。それは調和であり、調整であり、傾倒に傾くことがないからだ。

3を残して神は始められた。


これがプロローグである。

そして私は何者か。私は、記録者である。最初からあり最後まである記録者である。思考することが許されない、この世でたったひとりの人間である。世界を統べるものでありながら思考することを唯一許されない、いうなれば人間の出来損ないであり、神に最も愛されていないものである。

だから名乗るとしたらただ「記録者」なのである。


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グラナダ heavy blue-lupus @sea-thewind

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