猫に押し倒される話

オキツネ

第一話(完結)

 昼下がりの都内、名前も知らない公園のあまり背が高くない木に咲く花を見て冬の終わりを感じた。もう梅が満開を迎えている。

 知らない土地を歩いていると、目につくもの全てが新鮮に思えて楽しい。もう少し散歩を続けたい気分なのだが、今日は目的地があるのでやめておいた。


「お邪魔します」

「はい いらっしゃい」

 恋人の家に初めて来た。そしてその恋人というのも、私にとっては人生で初めてのものである。普通ならここで緊張したりするのだろうが、私は違った。むしろワクワクが止まらない。何故なら、私は今日この家のとあることを楽しみにしてきた。なんなら昨夜楽しみですぐに寝付けなかった。私がそんなにも楽しみにしていることとは、一体何か。それは、

「あ、ほらお出迎え来たよ」

「(はあ!!!!!!かわいいい!!!!!!)」

「ふふ、声になってないよ」

 私がそんなに楽しみにしていたこと、それは彼の家にいる猫である。以前から話に聞いたり写真を見せてもらったりしていたのだが、それはもうべらぼうにかわいい。

「写真よりずっとかわいい〜嘘みたいにかわいい〜」

 私が視線をくぎ付けにされながらかわいいかわいいと繰り返すので、彼は少々呆れ気味の様子だ。

「はいはい、こっちね」

 彼は自分の腕をぺしぺしと叩く私の手を引いて家の中へ促す。

「そこら辺適当に座ってて」

 そう言って彼はキッチンに消えた。示されたローテーブルの辺りに腰を下ろして、私はすかさず猫の様子を窺う。

 ベッドの上で身を投げ出しているそれは初めて訪れた私を警戒しているのか、こちらをじっと見つめている。つい目を合わせてしまい、慌てて逸らした。目を見つめると喧嘩を売っていることになってしまうので、視線を逸らすか目を細めるといいのだと、猫を手なずけるのが上手な友人が以前教えてくれた。友人の教えにしたがったところ、警戒が解けたのかこちらへ近づいてきた。その姿を一目見られたら十分だと思っていたので、接触できそうなのが嬉しくてたまらない。が、実をいうとペットというものから無縁で生きてきた私は動物に慣れておらず、意思疎通ができない目の前の存在に多少の恐怖を感じた。

 しかしそんな私の心境など露知らず、猫は胡座をかいていた私の脚を乗り越えて来た。かと思うと、そのまま私の腹に前足をかけて、顔を近づけてくる。予期せぬ近距離接近をかましているそれのかわいさで恐怖が吹き飛び、「かわいい」の四文字で頭が一杯になりそうだ。頭の中がそんな一方で、動物の扱いの加減がわからない私はどう対応すれば良いか迷い、挙句に後ろ手をついて後ずさった。

 あ、ここからどうすればいいんだろう、と思ったところにちょうどマグカップをふたつ持った彼がキッチンから戻ってきた。

自分より遥かに小さな存在に気圧される私を見ては口を開いた。

「えっなに、押し倒されてるの」

 確実に語尾に(笑)が付いている。Sっ気がチラついたように感じたのは気のせい、ではなさそうだ。

「あ、あの、この子どうしたら、」

「ん〜?」

 彼はカップをテーブルに置きつつ、こちらを見ずに生返事を返した。確信犯だ、絶対に聞こえている。

「いや、え、猫の体って掴んじゃってもいいもんですか大丈夫ですか、ってなに撮ってるんですか!?」

 シャッター音のした彼の方を振り向くと、助けを求める私を気にも留めず、スマホ片手にこちらを眺めている。助けてはくれなさそうな彼をコノヤロウと睨んでいるうちにも猫はぐいぐいと近づいてくるので、私は肘をつき顔を仰け反らせる。しかし猫は私の焦りなどどこ吹く風で、私の胸骨辺りに手、いや前足をつきさらに迫ってきては首元の匂いを探っている。ヒゲがくすぐったい。

「ちょ、ほんとにそろそろ腹筋がしぬ」

「え〜よかったじゃないシックスパックも夢じゃないよ」

 なんて言葉を投げ合っていたから意識が彼に集中していて、その隙に猫の口が私の唇に触れた。や否や、

「あ!こら!」

 彼はすぐさまスマホを放り出しては私の胸の上にいるそれをひょいと取り上げ、自分の腕の中にしまい込んだ。

「ああ、先越されちゃったな」

 私は彼が呟いた一言の意味が一瞬分からなかったが、すぐに理解して顔が火照った。すぐ赤くなる自分が子供っぽくて恥ずかしく、私は顔を背けた。彼の腕からするりと抜け出した猫は、そこが定位置なのか再びベッドの上へと戻っていった。その一連の動作を目で追った後、私は彼に見つめられていることに気が付いた。彼の雰囲気がいつもと少し違うような気がして、そこで初めて恋人の家に来ていることに緊張を覚えた。

「人間の一番は私にくれる?」

 彼がそう尋ねた。何の一番、なんて訊くのは白々しいし野暮かと思い、私はこくりと頷いた。

「今度は私の番」

 そう言って彼は私の肩に手をかけた。

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