災禍の比重

葉舞妖風

災禍の比重

 3月11日。

 東日本大震災のあった日である。


 その3月11日が迫っているからであろう、連日のテレビのニュースやドキュメンタリーでは地震や津波、原子力発電についての取り扱いがやけに多い気がする。私は普段ニュースを見ることはないのだが、大学が春休みとあって下宿先から実家に帰省中であるため、夕飯の折に両親が眺めているテレビのニュースが嫌でも目に入ってくるのである。そして目に入るニュースのことごとくが震災関連のものを題材にしていたから、普段ニュースを見ないくせにやけに多いなという感想を私は抱いたのだった。


 「南海トラフも十年以内に来るかもって言われてるしなぁ。」

 「でもうちは、津波は大丈夫なんでしょ?」

 「山やからなぁ。でもそのかわり土砂崩れが来るかもしれへんで。」

 「嫌よねぇ。」


 津波を特集した番組を見ながら両親は話していた。阪神淡路大震災を経験した両親ならそういう心配が出てくるのであろうが、こと私に至っては実感がわかないというのが正直な感想であった。

 私は阪神淡路大震災後の神戸市で生まれた。物心がついた時には街は被災した爪痕をすっかりと取り除かれた後だった。そして親の転勤もなくそのまま神戸で育った私は、大きな地震を体験することがないまま今に至っている。だから私の中の地震というものは映像の中の世界に過ぎなかったのである。

 阪神淡路大震災があった1月17日には毎年小学校で避難訓練とともに家屋が潰されている映像や高速道路が横倒れになっている映像を教室で見せられたし、東日本大震災時にはテレビで揺れの様子や津波に飲まれる街の様子を目の当たりにした。けれどその映像を見たところで私の実生活は何ら変わることがなかったわけで、結局は「地震は恐ろしいものだよ」というプロパガンダの域から出ることはなかったのである。

 だからであろうか。震災を題材にしたテレビ番組を見るたびにいつまで被災した方々を哀れみ、慈善事業を称賛すればいいのだろうかと思ってしまう自分がいるのである。自身の名誉のために言っておくと、被災した方々や慈善事業への取り組みを侮蔑するつもりは毛頭ないのだが、あまりにくどいと「またか」という想いが芽生えてしまうのである。

 こんな私を薄情だと思う方がいるかもしれない。自分から遠く離れた人々の死を蔑ろにするとはけしからんと思ったかもしれない。しかしそう思ったのなら、あなたはブーメランを投げたかもしれない。


 3月10日。

 この日に何が起こったかあなたは知っているだろうか?

 東日本大震災のあった3月11日と一日違いのこの日は東京大空襲があった日である。


 私はここ最近、震災について特集していたテレビ番組をあまたと見てきた一方で、東京大空襲について扱っていたテレビ番組を見ていない。数字だけ見れば東京大空襲で亡くなられた方が多いにもかかわらずだ。

 それは単に取材できる人物や事柄が少ないからなのかもしれないが、取り扱えないものではないと思う。東日本大震災の悲劇を喧伝しておきながら、東京大空襲の悲劇を報道しないテレビや知らずに生きている人々は時間的に離れた人々の死を蔑ろにしているのではなかろうか?

 この私の言い分は、私の唐変木じみた感情がわいた原因を東京大空襲になすりつけているように聞こえたかもしれない。

 けれど私は思うのだ。「悲劇の上書き」が行われたのだと。


 「風化させてはいけない」


 ふとテレビからナレーションの声が聞こえてきた。ここ最近でよく聞くフレーズの一つだ。

 私はそのフレーズを心の中でそっくりそのままお返ししてやった。




※この作品は被災した方々を貶したり、蔑んだりする意図はございません。

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災禍の比重 葉舞妖風 @Elfun0547

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