命を使う
静寂
直観
「いやだ!長靴と、傘がいるんだ!」
目にいっぱい涙を浮かべる我が子を、困った顔で眺めながら、空を見上げる。
青く澄み渡った空、雲ひとつなく、爽やかな風が吹き抜ける。
「ねぇ、ようくん、今日はすっごく良いお天気だよ?
長靴も傘もいらないと思うけどな」
「だめ、絶対いる。絶対、絶対いる」
幼稚園に行く時間はドンドン迫ってきて、結局私は、彼に負けた。
まぁ、晴れの日に、長靴履いても、傘さしても別に構わないか……。
育児とは妥協の連続だ。
そう思った、15分前の自分を叱ってやりたい。
家を出た10分後には、みるみるうちに雲行きが怪しくなり、ポツリポツリと小さな雨粒が落ちてきたと思ったら、あっという間にザーザー降りになった。
園に着くときには、大雨だ。
天気予報も、晴天マークだったため雨具の用意をしていたのは我が家くらい。
みんな、濡れ鼠になっている。
「あらぁ、ようくんところは、ちゃんと傘を持ってきたのね」
傘をさしている私たち親子を見ても、園長先生は特に驚かない。
そうだ、我が家の下の息子、陽太の直感が鋭いのは、通っている幼稚園でも有名な話だから。
思い返せば、もっと小さい頃から、この勘の良さの兆候はあった。
「ばぁば……、めっ、めっよ」
やっと喋り始めた陽太は、これから出かけようとしていた私の母と、上の子を引き止めた。
育児疲れの私を心配して、少しの時間でも負担を減らしてやろうと、上の子を連れて電車に乗り、妹の家に行くところだった。
それを、陽太が泣いて止めたのだ。
もう、それはギャン泣きだった。
泣きすぎて、ひきつけを起こすんではないかと心配になる程。
その泣きっぷりに、上のお兄ちゃんもつられて泣いて、お出かけどころでは無くなった。
私も母も、お出かけを諦めてぐったりしていた時だった。
揺れたのだ。
震度4以上。
二人の子供の上に覆い被さって、揺れが収まるのを待った。
幸い、グラスが数個割れた程度で、大した被害もなく収まった。
けれど、電車はその後2時間以上停車していたらしい。
もし、母と上の子をあのまま見送っていたらと、考えて青くなった。
「ようくんは、何か感じたのかもしれんねぇ……。小さい子は、感が鋭いって言うけんねぇ」
母は、小さい陽太を抱っこして、ニコニコ笑いながら言った。
陽太の直感の良さは、その後も続いた。
出かける時に、いつもとは違う道で行こうと言う。
主人は、素直な人で、陽太が感がいいことをすんなり受け入れている。
「陽太、お父さんと一緒に、宝くじでも買いに行くか!」
と、嬉しそうに言っているほどだ。
車は、休日の渋滞に引っかかりながらも目的地に到着する。
お昼を食べるべく入ったレストランで、スマホを眺めていた主人が、“えー!“と、驚いた声をあげる。
「いつもと違う道を通ってここまで来たけど、いつもの道を通ってたら大変だったよ。
大きい交差点で、多重玉突き事故だって。
発生時間から考えて、下手すりゃ巻き込まれてたかもしれないな……」
鼻に皺を寄せながら、スマホの画面を眺める主人の手元を、陽太は一緒に覗き込んでいる。
私は、陽太と同じように勘のいい人を知っている。陽太の祖父で、私の父だ。
父は、6年前に心不全で亡くなって、今はもう居ない。
あっという間だった。
冬の寒い日だった。
上の子の時から、不妊治療をしていた私は、3日後に体外受精の受精卵を戻す日が控えていた。
卵を子宮に戻して、2時間はベットの上で、うつ伏せだ。
当時、1歳だった上の息子の面倒を、誰かに見てもらわなければならない。
主人は、仕事が忙しくて休めない。
そこで実家の両親に頼んで、泊まりがけで来てもらい、孫の面倒を見てもらおうとしていた。
ところが、やってきたその日の夜に、父は胸が痛いと訴えて倒れた。
救急車で、大学病院に運ばれたが、次の日の朝には儚くなってしまった。
父が亡くなって、バタバタして、卵を戻すどころではなくなった。
しかし、私は強引に、病院に事情を話して、受精卵を戻した。
結果、陽太を妊娠したのだ。
みんな、陽太は、父の生まれ変わりだと言った。
みんなが、陽太の誕生を喜んだ。
私だって、嬉しくないわけがない。
可愛い我が子が誕生したのだ。
しかし、私の胸の中には、生涯消えないだろうシコリが残ることになった。
父が、病院に運ばれて、医師に呼ばれた後のことだ。
医師には、持ってあと数時間ですと言われた。
それを聞いて、私は頭の中でつぶやいた。
『お父さん、どうせ居なくなるのなら、その命を新しい我が子が生まれるために使ってよ』と。
非現実的で、非科学的だということは分かっている。
たまたま、父が亡くなって、たまたま受精卵を戻したら、妊娠したというのが現実だ。
上の子から続く、高額な不妊治療費は、家計を苦しめていたし、何よりも何度も期待を裏切られ続けるストレスは、私を追い詰めていた。
それでも、死の床に着こうとする実の父に願ったことが、生きて欲しいという願いではなく、その命を私に頂戴という事だったことが、いつまでも私の罪悪感を取り除き難いものにさせてしまった。
この事は、誰にも言えない、生涯私の心の中にあり続ける罪だ。
そう頑なに思っていたのだ。
あの夏の日まで。
お盆で、久々に実家に帰った日だった。
昨年末から流行り始めたウィルスのせいで、高速を使えば、そんなに時間のかからない実家への帰省もままならない。
いつもなら、こんな暑い日は、いくら自分の親といえども、墓参りになんて行かない。
“もっと、涼しくなったら行くわ“と、言い訳して、違う機会にするのだが、言い訳していたら、本当に長い間足が遠のいてしまいそうだ。
重い腰を上げて、しきみを買ってお墓に向かった。
そんな私に、陽太がついて来た。
周りを掃き清め、お墓に水をあげて、しきみを生けて、線香をあげる。
手を合わせて、しばらくぶりである事を詫びる。
陽太は、さっさと手を合わせると、元来た道を戻り始めている。
「ヨータ、ちょっと荷物持ってよ」
そう声をかけながら、立ち上がって、陽太の方を見た。
直観だった。
お父さんがいる。
向こうで、ポケットに手を突っ込んで立っているのは、お父さんだ。
「何しよるん?暑いけん、はよ、行こう」
私にそう呼びかける。
そうだな、座っていても、仕方がない。
私は、歩き始めた。
命を使う 静寂 @biscuit_mama
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