恋の終わり
通学路に漂う金木犀の香りが、僕にふわりと届いた。毎年のように香ってくるたび、秋がやってきたのだと実感させられる。長いようで短かった夏が終わるのだと思うと、あれだけ嫌だったのが噓のように、少し寂しくも感じた。
近所の神社に生えるイチョウの木には、絵画に使われるような鮮やかな黄色の銀杏が埋め尽くすように実っていた。悪臭はしないが、この様子だと一週間もしないうちにするのだろうと思うと、変わって少しげんなりとした気分に陥った。
学校に着くや否や、僕ら生徒はすぐに体育館に集められた。新学期恒例の、あの長ったらしい退屈な校長先生の話である。
「皆さんには、節度を持って――
どうでもいい話を頭の片隅に、僕の意識はある人を見つけるのに傾けられた。
長らく会っていない
部活などに所属していない僕はこの三週間以上学校に来ていない。先輩とは町内の夏祭りで会ったきりだ。髪の長い彼女のことだからすぐに見つかるだろうと思ったが、結局集会の最後まで見つけることはできなかった。
「なんか会ったの久しぶりみたいだわー」
集会から解放された生徒の喧騒の中、僕の幼馴染である長谷川奈津が声をかけてきた。
「別にそんなことないでしょ、一か月程度だし」
「いや、ほら家近いのに合わなかったからさ、なんかこう、古い旧友に会ったみたいな?」
「なんだよそれ」
昔から変わらない、どうでもいい話からし始める。けれどなぜか、ぼくの心は落ち着かなかった。
「……何か探してるの?」
「へっ?いや特に……」
「あんたのことだからすぐ分かるよ。もう何年も一緒にいるんだから」
突き刺さるような眼差しだったので、勝手に背筋が伸びてしまった。
「いや、ほんと、何もないからさ。大丈夫だよ。心配してくれてありがと」
「……ふーん、まあいっか。なんかあったら相談してよ」
「ああ、うん……」
そう言い残して彼女は他の友達のところへと戻って行った。なんだか見透かされていたような気もするが、彼女に相談する内容でもないだろう。だが嘘をついたことはちょっとだけ後悔もしている。
新学期の説明など、担任から発せられるお経のような話を耐えぬき、中々ない午前中の放課後になった。帰ろうかと迷ったが、今日は母親と朝から喧嘩をして少し家にいづらい。少し時間を潰したいなと思い、あのいつもの場所へ向かう事にした。
錆びついた部屋のドアを開けると、もちろん彼女の姿はなかった。毎度毎度、先輩が現れるのは僕が来た後で、それも驚かせるように登場する。今日こそはびっくりしないぞと少し意気込んだ。
チッ、チッと規則正しく鳴る時計の音が、本を読む手を動かしてくれる。が、数十分経つとまたあの運動部の声が聞こえてきた。窓を閉めたくなったが、まだまだ夏の暑さが残る部屋でそんなことをしたらあっという間にサウナみたいになるのは目に見えている。諦めて開けっぱにする事にした。
数時間経っても彼女は現れなかった。手元の本はもう三分の一ほど読み終えている。このままじゃ読み終えてしまうかもと思ったが、今日は帰りたくないので都合がいいと、自分を納得させた。
「それにしても遅いな……」
壁に掛けてある時計を見ると、もう四時半を過ぎていた。日は少し傾いて、光が差し込んでくる。何かあったんじゃないかと一瞬頭をよぎった。
「見に行くか……」
クラスも名前も分からないから片っ端から行く必要がある。だが僕の心配は杞憂に終わった。
「よっ!」
「うわっ!」
背後に彼女が立っていたのだ。
「幽霊じゃないんだから驚かせないでくださいよ……」
「いや~、君の反応が面白いからやっちゃうんだよね〜。」
何はともあれ、ひとまず彼女は大丈夫なようだ。だが心なしか、少しだけ表情が疲れているようにも見える。
何もない、ただただ静かで退屈な間とチョコレートの匂いだけがこの部屋を満たす。お互い話すことはないし、かといって無理をして話そうとはしない。彼女は部屋にある植物図鑑をよみ、僕は駅前で買ったかび臭い古い本を読む。この習慣にも慣れると、この行為自体が落ち着けるものなのだと思うようになり始めた。
だが今日は違った。間を破るように彼女が口を開いた。
「あのさ、私、転校するんだ」
「……えっ?」
何か話を切り出したと思ったら、あまりにも唐突な事で、頭が事態を把握できなかった。
「嘘、じゃないんですよね」
「そりゃあもちろん、私はうそをつかないよ」
にゃはは、と軽く笑い飛ばしたが、以前に彼女が見せた、あの口元を引き締めたような表情をしているのを見逃さなかった。嘘ではないということが、はっきりしてしまった。
「なんでそんな急に……」
「もう前から決まってたんだけどさ、なかなか言い出す気になれなくて。結局この日までに引き延ばしちゃった」
大きくため息を吐いて、意を決したように話した。
「だから、今日でここにいるのも終わり。まあ君ならすぐ忘れるだろうけど、一応それを伝えにね」
僕の中で、何か弾けたような気がした。
「……忘れないですよ、ここにいたこと、ここでしたことを」
「……」
彼女にとっては軽いものかもしれないが、僕にとっては忘れられない。忘れようとしても、それが憚られるくらいに心地のいいものだったのだから。
「絶対に忘れません。僕はここにいるだけで楽しかったんだ。たった一か月の間だけど、夏祭りに行ったりもしたし、ほんと、忘れられないくらい……」
暖かい何かが僕の頬を伝った。それが涙であると気づくまで時間がかかったほど、気持ちの整理がつかなかった。
「ご、ごめん……。泣かせるつもりじゃなかったんだ。だから――」
差し伸べてきた手をすぐにひっこめた。
「あ、えと、なんでもない……」
初めてみた狼狽する彼女の姿に、ぐちゃぐちゃになった頭が少し冷静になった。涙が止まると、目の前にいる彼女の体がおかしいことに気が付いた。
「せ、先輩!」
必死に彼女に触れようとした。
ただ、その手は宙を掴むだけだった。
「あ、あれ、あれ?」
何度も何度も、いくら触れようとしても虚しく手が空振るだけであった。
「もう隠せないな……」
「何を言って……」
彼女の言ったことに、僕の体と思考は再度止まることとなった。
「私はもうすぐ、ここからいなくなる。ホントは言いたくなかったけどさ。嘘はつかない、って言ってたけど、ごめんね」
乾いたような、諦めたような笑み浮かべていた。ただそれすらも必死だと言わんばかりに、辛そうだった。
「ど、どういう……」
「……私はもういないはずなんだ。だって、死んだんだもの。」
何が何だか全く分からなくて、叫びそうになる。絡まった思考をすぐに放棄したくなった。
「君はさ、この部屋以外で私を見たことある?」
「……な、夏祭りの、時の、あの場所、です……」
はっきりと、鮮やかに残る記憶を手繰り寄せる。途切れ途切れになってしまう言葉をどうにか発した。
「そう。私は思い入れのある場所にしか行けないの。この部屋もその内の一つ。けど、いつからそうなったのかは分からない。いつの間にか、気が付いたらここにいて、そして、君がやってきた」
真っ直ぐと指すその指は、さっきよりも透けていた。
「もう……」
「分かってる。私はもう長くないことくらい。自分のことだから」
薄くなっていくのは、彼女の命のようなものが燃え尽き掛けているのだと。
「なんで、最後の時を、僕なんかと……」
「君だから、だよ。君じゃなきゃダメ。君が来た時、ビビッときたの。この人と一緒にいたいって。何でだろうね」
薄く、淡くなっていく彼女の姿を直視できなかった。涙がとめどなく流れて、両手でそれを覆う。
「後悔はしていないよ。君と一緒に入れたことは、私の最後の思い出になれた。だから、そんな風に悲しまないでよ。私は楽しく終わりたい、んだか、ら……」
彼女の言葉は嗚咽で途切れた。口を押さえて、大きく泣くのを堪えて、必死に伝えようとしていた。
数歩後ろに下がり、あの花の下へと歩んでいった。
「ありがとう。こんな私と一緒にいてくれて。本当に、ありがとう」
涙を拭うのをやめて、彼女の方へと向いた。
「また、会えるんですよね、また一緒に居れるんですよね?
――まだ名前も聞いていないのに、嫌ですよ! 嫌だ、絶対に嫌だ!」
僕は彼女との繋がりが欲しかった。僕らを繋ぎ止めるものなんて何もなかったから。もうここからいなくなるのは知っているのに、駄々をこねる子供のようにそれを否定する。
必死で笑顔を向ける彼女は、僕に言った。
「私の名前は『―――― 』 ね、案外そこらへんに居そうでしょ? だから、忘れないでね」
靡くように入ってきた、柔らかい風は、カーテンを巻き上げて僕らを遮ろうとした。
もう最後なんだ。
声を振り絞って、伝えた。
「僕の名前は――――」
柔らかい笑顔を見せた気がした。
「……っ!」
カーテンがたなびいた後に、彼女の姿はそこにはなかった。
チョコレートの匂いは消え、まるで何事も無かったかのように時計が時を刻む。涙を拭っても拭っても、そこに彼女が現れることは二度となかった。
「ありがとう、先輩」
僕が
小さな花が、ポトリと落ちた。
チョコレートコスモス 皇帝ペンギン @koutei0120
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます