その過去はいつもあなたの中に
lager
お題「直観」
足元が、しっとりと濡れていた。
人の手によって整備された道に、きらきらと濡れ光る落葉が降り積もっているのである。背の高い木々は頭上を覆い隠し、いくらほどの風もその下に届けはしなかったが、それでも歩いているうちに、はらり、はらりと、秋色に染まった葉が目の前に舞い落ちてくる。
人がすれ違うのにも苦労しそうな山道を、祥子は一人黙々と登っていた。
傾斜はきつい。それでも、祥子は危なげのない足取りで、ゆっくりと、一定のペースを維持して進んでいく。
前にも後ろにも、人の姿は見えない。
自らの呼吸と衣擦れの音だけが、無言の森の中に吸い込まれ、消えていく。
山に入るということは、母胎に回帰するということだと、誰かが言っていた。
そうして山を下ることで産まれ直し、自らを高みに至らせるのだ、と。
で、あるならば、自分は一体もう幾度生まれ変わったことになるのだろう。
祥子の脳裏に、今まで登ってきた山の道や、頂上から見下ろした景色の数々が唐突にフラッシュバックしてきた。
春の山。
夏の山。
秋の山。
冬の山。
色とりどりに装いを変える日本の山。
水の匂いと、膨大な時間の中に積もり積もった命の匂い。
それを、深く深く呼吸する。
ふと、酩酊したような状態になっている自分に気づき、祥子は軽く狼狽した。
いけない、いけない。
気を抜いて登山をしてはいけないと、あれほど言われていたじゃないか。
祥子は学生時代、登山サークルに所属していた。
バイトをして金を溜め、それを山登りにつぎ込んだ。
サークルの中には友人もいたし、恋人ができたこともあった。
気の置けない仲間たちと登る山は楽しかったが、そう長くは続かなかった。
事故が起きたのだ。
あの時は、祥子も友人たちも、仲間内で行く登山にすっかり慣れ切ったころだった。明確に、油断していたのだ。
山頂広場で休憩し、予定されていたルートを下るはずが、先頭の人間が下降点を間違えた。恐らくは五人いたパーティーのうち、祥子を含めた何人かは、右手に見えるはずのない尾根が(つまりは、自分たちが下っているはずの尾根が)見えていたことに気づいていたはずだ。
しかし、言い出せなかった。
今思えば、本当にバカだった。山において大事なのは吸って吐かない類の空気でも、仲間の輪でもない。自分たちの命を守るための行動だというのに。
どう見ても深まっていくばかりの山の景色に、徐々に焦りだした祥子たちの足取りは逸り、集中を欠いた。そしてとうとう、痩せたコルで滑落が起きた。
祥子のすぐ前を歩いていた友人だった。
最初は、何かの冗談かと思った。
消えたのだ、目の前から。
あまりに自然にいなくなったものだから、咄嗟に手を伸ばすことも、悲鳴を上げることも出来なかった。前を往く仲間たちが異常に気付いたときには、生い茂る木々の中で、彼女の姿は影も形もなくなっていた。
そこから先のことは、夢の中の出来事のようだった。
パニックを起こしたパーティーの一人は自分が助けに行くと斜面を下り、やはり山の闇の中に消えていなくなった。
残りのメンバーの中にリーダーシップを取れるものはおらず、全員が死に物狂いで山を下り、すぐに救助隊へ助けを求めた。
疲労困憊の心身に、繰り返される事情聴取。
祥子の記憶は、山道の途中で途切れ、ひどく曖昧だった。
それから、十年。
かつての登山仲間は、その後一人として山に入らなかった。
それでも祥子はいつしか登山を再開し、社会人になった今でもこうして時折一人で山へと出かけていた。
今日も、繁忙期明けのご褒美にみんなで順繰りにとっていた有給休暇を使い、念入りな準備の末に、秋の山へアタックしているのである。
あまり人気の山ではなかった。
アクセスは悪いし、勾配はきつい。近くに湯場があるわけでもない。
きっと、巷で山ガールなんて話題になっている若い子らは、こんな場所には来ないのだろう。
どうして自分は、山に登っているのだろう。
たった一人で。何年も。何年も。
足を踏み出す。腿を上げて、腰は真っ直ぐ。
着地は踵から。
疲労の溜る体が、どこか他人事のように感じる。
息は鼻から吸って、口から吐く。
体の輪郭が溶け出し、山の空気と一体化していく。
目線は前へ。左右へ。時折足元へ。
右足を踏み出して。
左足を踏み出して。
右足を踏み出して。
それだけのことを繰り返していれば、ほら。
目の前に、開けた空。
山頂だった。
写真を撮る。
水筒を取り出し、水分補給。
キャラメルを口に放り、じっくりと溶かして味わった。
一人登山は、一人映画に似ていると、祥子は思う。
最初は緊張する。誰だって初めては誰かと一緒なのだ。
けど、一人で行ってはならないというルールなんてないし、慣れてしまえば不都合もない。
こちらの人数が何人だろうと、山は山だ。
山頂から見る景色に、いくらの違いもありはしない。
けれど、ほんの少しだけ、この気持ちを分け合える誰かがいればいいなと思う。
惜しいのではない。寂しいのでもない。
まして、悲しいわけでも、恋しいわけでもない。
ただ、懐かしいだけだ。
日は高く、薄曇りの空の奥から柔らかな光を山に注いでいた。
時間は、予定通り。やや早いか。
このまま下れば、夕方までには宿に戻れるだろう。
祥子は一通り装備一式を検めると、名残を惜しむこともなく、道を下った。
そして。
違和感を覚えた。
目の前には、文字の掠れた申し訳程度の案内板。
予定していたルートへの道筋を示している。
右に折れる道。
だが、何故だろう。
頭の後ろがひりひりと疼く。
その道に、行ってはならないと。
この山は初めて登る山だ。
ましてや単独行。何をおいても身の安全が第一優先のはず。
ならば、事前に決めたルートを外れるわけにはいかない。
しかし。
祥子は地図を取り出した。
現在地と方位を念入りに確認し、今来たルートを逆戻りする道を選んだ。
事前に提出していたルートを変更する旨を山岳会へメールで送る。
祥子自身にも、その行動の意味も理由もよく分からなかった。
ただ、そうしなくてはならないという、奇妙な確信だけがあった。
結局、予定よりもいくらか遅れる形で宿に帰り着いた祥子は、宿の従業員より驚くべき話を聞いた。
自分も目にした、あの山頂の案内板。
それが、誰かの悪戯か、はたまた何らかの偶然によってか、90度曲がった状態で立っており、まるで見当違いの方角を示していたのだという。
それによってその日山に入った登山客が何人か遭難してしまい、麓では大騒ぎになっていたのだ。
祥子はそれを聞き、ようやく理解した。
そうだ。あの時覚えた違和感。あれは、昔に自分たちが遭難したときと、状況がそっくりだったからなのだろう。
その時すぐには分からなかったが、今思えばその兆候はいくつかあった。自分は無意識にその危険を察知し、回避していたのだ。
その日の晩、宿の中の温泉に一人で浸かりながら、祥子は秋の夜空をぼんやり見上げ、遠くの景色に思いを馳せていた。
かつて、友人たちと登った山道。
苦しい思いをして。楽しい思いをして、登った山。
社会人になってから登った山道。
最初はやはり心細かった。
けど、一人の山には一人の山の魅力があって。
そんな、数えきれない数多の山道を登った経験が、今日、自分の命を救ったのだと思うと、なぜだか無性に誇らしかった。
私は今、一人で山を登っている。
けど、一人じゃなかったんだ。
いつだって、みんなと一緒に登ってたんだ。
これからも、きっと。
「なーんてことがあってさ。いやー危なかったわ。あの時の経験に助けられたわよ」
「あんたねえ。久し振りに連絡寄越したと思ったら、なに人の恥ずかしい記憶蒸し返してんのよ」
「あんときは笑えたわよねえ。あんたたち、滑落した先の山小屋でふっつーにお茶飲んでんだもん」
「私は死ぬかと思ったわよ」
「ねえ、久し振りにまた山登ろうよ」
「むーりー。子育てが片付いたら、って言ったでしょ」
「さっさと片づけちゃってよ、もう」
「舐めんな独身」
「あ゛あ?」
「まあまあ、お酒くらいなら付き合ってあげるわよ。次……は無理だけど、再来週の休みとかどう?」
「……いいけど。絶対あんたのほうが愚痴溜まってるでしょ」
「あ、分かるー? ねえ聞いてよ。こないだ旦那がさ……」
「…………」
「……」
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