懐かしい音

増田朋美

懐かしい音

懐かしい音

その日は、春が近いというのに、雲って寒い日であった。何だかまた冬に逆戻りしてしまったような。そんな日であった。冬春冬春と交互に繰り返して季節は変わっていく。どの年も同じであった。

その日は、製鉄所に竹村さんが来ていて、クリスタルボウルのサウンドセッションを行うことになっていた。

「どうもすみませんね。忙しいのに、わざわざ来てくださって。」

ジョチさんは、縁側にクリスタルボウルを設置している竹村さんに言った。この楽器は、白い器のようなものを、七つ用意するのだが、それぞれ大きさが違っていて、それぞれがとても重いのである。

「いえ、大丈夫ですよ。聞きたい方がいらしてくれれば、いつでも参りますよ。」

竹村さんがにこやかに笑った。水穂さんは、杉ちゃんに手伝ってもらって、布団の上に座った。

「本当にありがとうございます。水穂さんのために、演奏してくれるなんて。」

「いいえ、気にしないでください。治療が必要な人がいればどこにでも行くのが、治療者の務めです。演奏を始める前に、クリスタルボウルについて、説明を入れましょうか?」

「ええ、御願いします。クリスタルボウルとは、日本ではまだなじみがなく、よくわからないことが多いので。」

ジョチさんに言われて、竹村さんは、クリスタルボウルのマレット(撥)をとった。

「じゃあ、演奏する前に、この楽器について説明させてください。クリスタルボウルとは、もともとは仏具として用いられていたのを、改良したのが始まりです。30年くらい前から、精神疾患の治療として、演奏が行われるようになりました。七つセットになっていますが、その七つが、体の各部に対応し、安定をもたらすと考えられています。鳴らし方は、このマレットで、ボウルをたたいたり、ふちをこすったりして、鳴らすようになっています。時々、聞いている人が、体が活性化しすぎてしまって、体の音が良く聞こえるようになったという人もおりますが、それは問題ありません。効果としては、良質の全身マッサージを受けた時のような、そんなリラックス効果が得られます。でも、それはあくまでも医療的な効果であって、何かの宗教とは、関係ありません。」

竹村さんはそう説明した。

「それでは、演奏に入らせてもらいましょうか。30分聞くだけですが、マッサージをしてもらっているのと同じ気持ちで、どうぞゆっくりなさって聞いていってください。」

竹村さんは、クリスタルボウルを叩き始めた。真っ白な茶碗のような形をしたクリスタルボウルは、まるでお寺の鐘のような、不思議な音色を放った。

「何だかとても懐かしい感じの音がするんだな。」

と、杉ちゃんがぼそっとつぶやく。クリスタルボウルは、結構な大音量であり、長時間聞いていると、辛くなってしまうこともあるらしく、水穂さんは、少々苦しそうな顔になっている。30分我慢してと杉ちゃんに言われて、やっと何とか座って居られるという感じなのであった。結局その30分は大変ながく感じられた。

「それでは、演奏終了です。長い時間、御静聴ありがとうございました。」

竹村さんは静かにマレットを置いた。同時に水穂さんがつらそうに咳をした。

「どうですか。少し、体は楽になりましたか。」

ジョチさんが聞くと、かえってきたのは咳である。

「意味なかったかな。」

と、杉ちゃんが言うと、

「いえ、逆にセッションの効果は抜群だったと言うべきでしょうね。クリスタルボウルの音の作用で、体のエネルギーの循環がよくなって、余分なものを出そうとしますからね。今日のセッションは、大成功だったというべきでしょう。」

竹村さんはにこやかに言った。杉ちゃんが、頑張って吐き出そうなと言って、水穂さんの口元にタオルをあてがってやると、タオルはすぐ真っ赤に染まった。

「今回のクリスタルボウルは、最も古い種類のものを使いましたので、少々、セッションとしては強力だったかもしれませんね。二三日、不調のようなものが続くかもしれませんが、そのあとは、大丈夫ですからね。」

「クリスタルボウルも種類があるんですか?」

と、ジョチさんが言った。

「ええ。大まかにいうと、三種類あるんです。今日使いましたのは、最も古い、クラシック・フロステッドボウルなんです。次に出てきたのが、それを小型軽量化したのが、ウルトラライトボウル。クラシックと違って、音はあまり強力ではありませんが、持ち運びには便利という長所もあります。今主流になっているのが、アルケミーボウルという種類ですね。単に、水晶で作られているだけではなく、パワーストーンを含ませて作ってあるクリスタルボウルです。音と同時に、パワーストーンの効果もあると言われていますが、まだ、未知の領域と言えるかもしれない。三種類どのボウルを使うのかは、奏者の自由ですが、今回は、より効果的なセッションをしたかったので、クラシック・フロステッドボウルを使わせてもらいました。」

「へえ、お箏みたいだな。お箏だって、生田流と山田流とあって、それぞれ、音域も、何も違うもんな。そういう風に各流派のスペシャリストもすごいけど、流派関係なく、目的に応じてなんでもできるというのがまたすごいよ。」

杉ちゃんが水穂さんの口元を拭きながらそういった。

「ええ。クリスタルボウルも一応三種類あって、どれを選ぶかは、本人の自由です。お箏とは違って、自らの意志で流派を決定できないということはありません。それに、どのボウルを選んでいるかで、いがみ合ったり、喧嘩したりすることはまずありませんからね。お箏の世界とはそこが違いますよ。」

「そうですか。まあ、いずれにしても精神疾患の治療として行う楽器ですから、どの流派が正当で、どの流派が異端ということを言っている暇はありませんね。」

ジョチさんは、一寸考えながら言った。

「ええ、ありませんよ。最近は、クリスタルボウルの奏者もだんだん高名になってきて、精神疾患を持った人には演奏しないという人も現れておりますが、本来はそういう事が目的ではありませんからね。治療者は、依頼者が楽になりたいと言えば、そこに行く。それで当たり前です。」

「竹村さんすごいなあ。」

杉ちゃんのほうは、やっとせき込んだのが止まった水穂さんを、静かに布団に寝かせてやって、掛け布団をかけてやった。

「でも、すごい懐かしい音だったよ。いい音だった。まさしく山のお寺の鐘が鳴る。」

「そうですか。ありがとうございます。皆さん、このクラシック・フロステッドボウルを聞くと、そういわれます。今はお寺の鐘をきくことは少ないですが、なぜか幼かったころの事を想いだすという人もいます。」

水穂さんを寝かしつけた杉ちゃんがそういうと、竹村さんは、にこやかに笑ってそういうのであった。

「今回は、水穂さんの体を活性化させるという目的がはっきりしていましたので、クラシック・フロステッドボウルを使いましたが、ほかの目的に使う場合は、ほかのクリスタルボウルでもいいですよ。」

「そうですか。わかりました。もしかしたら、うちの弟がやる店のお客さんが、先生に御願いするかもしれません。もしかしたら、連絡がいくかもしれませんね。」

「ああわかりました。連絡お待ちしています。」

ジョチさんと、竹村さんは、そういうことを言い合っている。ということはつまり、焼き肉屋ジンギスカアンにやってくるお客さんに、誰か問題のある人でもいるということだろうか。

「じゃあ、竹村先生。今日は演奏をありがとうございました。お礼を受け取ってください。」

ジョチさんが、竹村さんに茶封筒を渡すと、竹村さんは、領収書を彼に渡した。

「それでは、又必要になったら、いつでも電話ください。予定を調達して、お伺いしますから。」

「竹村さんありがとうな。水穂さんも喜んでいると思うよ。」

と、杉ちゃんに言われて、竹村さんは、軽く会釈した。

竹村さんのクリスタルボウルの演奏が終わったあと、ジョチさんは製鉄所の仕事を終えて、焼き肉屋ジンギスカアンの店舗がある自宅にかえっていった。

「ただいま戻りました。」

店舗入り口から、店の中に入ると、店の中で料理をしているはずだった弟のチャガタイが、

「おい、兄ちゃん、ちょっと来てくれ。」

と、彼に言った。

「はあ、どうしたんですか?」

とジョチさんが聞くと、

「あの、女性。又来ているよ。ほら、変な客がいるって、前々に言ったと思うんだけどさあ。」

チャガタイは迷惑そうに言った。彼が顎で示した座席に、ひとりの女性客が座っている。彼女は、目の前にあるお子様定食を前に、何も手を付けずただ、泣いているだけである。年齢は、40代後半か五十代くらい。もう長らく結婚して子供がいてもおかしくない年齢であった。其れなのになんで、お子様定食を注文し、いつまでも泣いているんだろうか。

「まあねえ、いくら客商売でも、毎日毎日ここへ来られて、ああしてしくしく泣いているんじゃ、ほかのお客さんだって、迷惑なんじゃないかな。ほんと、何が在ったんだろうか、聞いてみたいくらいだよ。仕事がないとか、失恋でもしたとか、そういうことなのかなあ。」

チャガタイは首をひねって、そういうことを言った。

「それなら、本人に聞くのが一番ですよ。僕たちがここで噂しても何もならないでしょ。」

ジョチさんに言われて、チャガタイは、それができたら苦労はしないという顔をした。

「そうはいってもね、兄ちゃん。泣いている女性に、迷惑なお客さんなのででて行ってくれなんて、どうしていえるんだ。笑ったり、怒ったりすることであれば、他人に迷惑なことに少しはなるのかもしれないが、ああして人に聞かれないように泣いているってのは、よほど深いわけがあると思うよ。」

「敬一は、優しいんですね。太った人は、優しいと言いますけれど、それはまんざら嘘でもなさそうですね。」

チャガタイがそういうと、ジョチさんは、ふっとため息をついた。

「兄ちゃん、そんなこと言わなくたっていいでしょう。こっちは、ああして、二時間も三時間も居座られて、大変なんだから。」

チャガタイは、思わず本音を漏らした。確かに、チャガタイが、焼き肉屋という商売上、太ってしまったのは仕方ないのだが、ジョチさんもあきれるほど、繊細で優しい人間でもあった。

「敬一の、そういう本音を言わないところは、ある意味すごいと思います。もしかしたら彼女、精神的な袋小路に追い込まれているのかもしれないですよね。そういうところから、吊りだしてやれるのは、なかなか難しいですよ。」

「分かったよ。兄ちゃん。俺、そうしてみる。」

ジョチさんに言われてチャガタイは、その女性のいる座席に向っていった。ジョチさんも、彼のことがわかっているのか、それ以上何も言わなかった。

「あの、すみませんが、毎日ここで泣いていらっしゃるようですが、一体なぜそうしているんですか?」

チャガタイはできるだけ優しくそういうことを言った。

「あ、ああ、すみません。御迷惑でしたよね。」

と女性は急いで箸をとったのであるが、急いでいたため、肘で水の入ったグラスを落としてしまった。

「ごめんなさい。何をしているんでしょうか。私のしたことが。」

「いえ、大丈夫です。其れより、料理を召し上がってください。」

と、チャガタイは落ちたグラスの破片を拾って、丁寧にモップをかけながら言った。

「気にしないでください。そういうことはあると思いますからね。其れよりも、どうしたんですか。毎日毎日うちの店へ来て、そうしてお子様定食を泣きながら食べる。一体何が在ったのでしょうか?」

「ええ。ちょっと、人には言えない悩みがありまして。」

女性はやっとそこだけそういうことを言った。

「そうですか。何か悩んでいることがおありですか。ご自身の事ですか?それともご家族の事?」

チャガタイは、カウンセラーとか、そういうひとと違って、できるだけ軽い気持ちのように言った。

「ええ。両方かもしれません。」

と、女性はそれだけ答える。

「そうですか。でも、悩むことは悪いことじゃありません。糸口が見つかれば、きっと変わってくるはずです。それまでが、本当に大変だと思うけど。でも、大変な時こそ、一番楽しいのだって、相田みつをさんの書にもありましたからね。俺は、あの人の書が好きですよ。へたくそな字だというけれど、あの下手な字だから、頭にはいるような気がしてね。」

チャガタイは、店の壁に貼ってある、相田みつをさんの書を掲載したカレンダーを見ながらそういうことを言った。

「何がわかるっていうんです、と言いたいところですが、私にはもうそういうことはできません。私は、娘を、もうどうしようもない存在にしてしまったんですから。だから、私にはそういう事をいう資格もないのです。」

「娘さんがどうしたんですか?」

彼女がそういうと、チャガタイはそう聞いた。

「娘さん、お幾つなんですか?」

「ええ。もう正確に言えば、17歳なんですけどね。高校いってなくて、ずっと家にいるんです。周りのひとには、学校に行けと言われるし、夫の実家からは、母親がちゃんとしていないから、学校に行ってないんだって、言われちゃうし。娘の不登校が長期化するのを見て、私が、ちゃんと生きて来なかったのかなって、考えてしまいます。」

女性は、一生懸命隠そうとしている様子であるが、それでも真実は一つだけであるから、それを言わなければならないのだった。一生懸命別の言葉に置き換えようとしているが、そういうことは、出来ないのだった。

「そうなんですか。そういうことはね。できるだけ早く第三者に助けを求めることをお勧めします。其れは、ご家族だけでは、そういうことはまず乗り切れません。其れは、俺も知っていますからね。泣かなか助けてっていうのは、難しい事でもあるけれど、ほかにも、そういう子供さんの事で悩んでいる人を救うことでもあるんですよ。だから、早く行動を起こしてください。そして、あなた自身も癒されるような場所を見つけてください。」

そういうチャガタイの顔を見て、なんで弟は、こういう風になってしまったんだろうな、とジョチさんは思った。自分からしてみれば、母親が再婚して、その相手との間にできた弟なので、自分の居場所をとられてしまったようなものだ。子供心にも、それがよくわかったものだ。母の再婚相手は、自分がそういう思いをしないために、自分も、弟も同じくらいかわいがってくれたけれど、自分がそれを素直によろこんだという記憶はほとんどない。今だって、弟には敬語でしゃべらなければいけないような気がしてしまうのに。

「娘さんというのは、実の娘さんなんですか?」

と、チャガタイは女性に聞いた。

「ええ。そうです。其れははっきりしています。」

と彼女は答えた。

「そうですか。其れなら、娘さんだって、ちゃんとわかってくれますよ。産んでくれた人だって、ちゃんとわかれば、きっと仲直りできます。実の親子というのは、そういうものです。俺、そう思っています。」

何だか、チャガタイのほうが自分よりも悟りを開いているような気がする。もしかしたら、体についたのは、脂肪だけではなく、ほかのものだったのかもしれなかった。

「きっと、解決に至るには、すごい大変だと思うけど、それは、悪いことじゃないし、他人には得られないことだって得られるかもしれないので、頑張って生きて下さいよ。もし、何か、癒されたいと思っているんだったら、俺の兄がそういうところとかかわりが強いので、紹介しますから、いつでも言ってください。大事なことはね、娘さん一人のために、自分を犠牲にしようとは思わないでくださいよ。ちゃんと、自分の時間を持ちながら、生活するようにしてくださいね。きっとそれが一番大切なんじゃないかと思います。」

「ありがとうございます。そんなに暖かい言葉をかけてくれるなんて、本当にうれしいです。」

女性は、たまっていた涙を一気に流してしまうような気持ちでそういうことを言った。

「じゃあ、お料理、食べてくれますか?冷めてしまったら、焼肉はおいしくありません。」

と、チャガタイもにこやかに笑い返した。

「まったく、敬一には、チャガタイというあだ名は似合いませんね。」

ジョチさんは小さな声でつぶやいた。確かに、歴史上のチャガタイという人物は、気が荒く、自分にも他人にも厳しい人だったということは知っているが、女性と話している曾我敬一は、とても厳しいという言葉は似合わなかった。自分がジョチさんと呼ばれるのはまだいい。ジョチというのは、部外者の事なので、まさしくそれがふさわしい。でも、敬一がチャガタイと呼ばれるのはどこか的外れだ。

「ありがとうございます。店長さんが、そんなこと言ってくださるのは、まったく予測していませんでした。うれしいです。」

そういって、彼女は、お子様定食を食べ始めた。

「いいえ、俺、店長とか、社長とか、そう呼ばれるのは嫌いです。俺の事は、チャガタイと呼んでください。もうそれで定着していますから。」

チャガタイは、照れくさそうにそういうと、女性は、はあ、そうなんですかという顔をした。多分、似合わないと思ったのだろう。

「ま、まあ、そうなんですか。でも、どうして、そんな歴史上の悪役と同じ名前で呼ばなければならないんですか?うちの子が、歴史が好きなので、よく話をしてくれましたけど、決して名君主だったとは言えませんわね。」

と変な顔していう彼女に、

「いやあ、そうじゃないと、俺、兄に申し訳が立たないんですよ。俺はただ、この店をやっているだけだけど、兄はいろんな福祉法人とか、そういうところで自ら理事長をしたりしてますからね。そんな兄がいるんだから、俺が優位になっちゃまずいでしょ。」

と、チャガタイはまじめな顔をして答えるのだった。そうなると、自分が与えてきた印象と、弟が感じている自分は、又違うのかなとジョチさんは、そのやり取りを聞いて思ったのだった。それは、もしかして、水穂さんに施術してくれた竹村さんと同じ優しさなのかもしれないと思った。



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懐かしい音 増田朋美 @masubuchi4996

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