襲われる人

「行くぞ」

「そんな、無理だよ」「無理って言うな」

僕はずっと、東急東横線・横浜駅の改札でうずくまっていた。ずっとなる耳鳴りに嫌気が差してきていた。

「この音の発生源を調べる。できるのなら止める。でないと私達が先にストレスでおかしくなってしまう」

「じ、じゃあ風佳が一人で――」


 パン。


 左の頬に、じんわりとした痛みが伝わってきた。風佳は、短くなって赤くなった爪を僕の方に向けていた。僕は左頬をそっと抑え、泣きそうな顔の風佳を見つめていた。

 嗚呼、怖いんだ。

 風佳も、怖いんだ。


「一人で、なんだ?」

「…」

 これ以上は是非も無し、僕は立ち上がる。風佳は「…悪い」とだけつぶやいて、僕の手を握った。顔は見せなかった。



東急東横線のホームに入っていく。金属音と電流音はひどくなっていき、耳鳴りも暴走している。

 全身が訴えかけている。「行くな」と。でも僕は、全身に汗を散らし、左手は風佳との汗を混じらせ、ゆっくりとホームへ続く階段を降りる。

「…音源はみなとみらいの方面かな」

 僕がそうつぶやくと、風佳は迷わず、その通りにみなとみらい線へと足を進めた。東急東横線は、横浜の繁華街を結ぶ地下鉄である「みなとみらい線」と直通している。終点は元町・中華街駅。

また地下鉄に入る。僕と風佳はガスマスクを外す。風佳は前方、僕は後方へ向けて懐中電灯をつけた。


みなとみらい線は、ずっと明かりがつきっぱなしだった。足元まで電灯の光は及ばないが。これは奇妙なことだった。

今まで、こんなことはなかった。前の小竹向原駅でも、線路に明かりがついてはいなかった。あくまでもホームだけ。

 でも今は、線路でさえも明かりがついていた。




「日本大通り駅…」

みなとみらい線。日本大通り駅の次は、終点の元町・中華街駅である。耳鳴りこそ収まったが、金属音と電流音は定期的に鳴る。

 足は震えている。目からは涙も出そうだ。でも、行くしかないのだ。風佳の手も、汗でべったりとしていて握りにくくなった。

 

「…私、変わったと思わないか」

「え?」

 風佳の突然の問いかけに、僕は条件反射的に聞き返す。

「私、前から髪の毛染めてたのだよ。この茶髪も。前より薄くなっただろう」

「ま、まぁ」

「昔はただのポニーテールだったけど、最近は編み込んでるだろう」

「うん」

「…」


沈黙。

「…いいや、なんでもない」

「なんだよそr







懐中電灯を落とす。 そして足の重心がふわっと浮き、尻餅をつく。 

 衝撃。


 地下鉄の線路内にちょうど収まるサイズの、巨大な黒い犬が、

 元町・中華街駅のホーム前線路で。

 僕達を、

 はっきりと、

 見ていた。




「う、うわああああああああああ!!!」


必死になって引き返す。巨大犬が追ってくる。 走りに自信のない僕であるが、懐中電灯を落とし、震える足で走る。

「キイイイイイイイイイイイ!!!!!!」


 また金属音。そして、他でもない僕達に向かって走り出している。夢中で走る。

 無我夢中で。他の何にも気を取られることなく。

 走る。

 走る。

 そして、


「うわっ!!」

「ゆ、結!!!」


 巨大犬の右前足から人間のような手を出し、僕の足を鮮明に掴んでいた。そのまま引っ張られ、僕はうつ伏せへと強制転換させられる。

「ひ…」

 声が出なくなる。呼吸が止まる。そのまま、地下鉄の奥底に、引きずられる。

「あ、あ…」

 僕はそのまま足から吊り上げられ、犬の緑色の眼孔と対面した。声が出ない。周りも見られない。息ができない。

 その時。

 「結兄い…」

 「え…」

 「結兄い…」


 「ま、舞…!?」



 大きな銃声5、6発。

 それととともに、僕は重力降下する。2mくらいから、横向きで落とされる。 ゆっくり立ち上がる。

「ゆ、結!早く!私の方へ来い!」

 巨大犬は眼孔から緑色の液体を捻り出し、悶ている。僕を捉えた右前足は、奥の方にあった。

「キイイイイイイイイイイイ!!!!!」

「早く!!」

小銃から煙を出し、叫ぶ風佳。金属音でかき消されていたが、僕には聞こえた。

 僕達は、元町・中華街駅の長い長い通路を、走っていく。

 

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