寝る人

「ゴホッ、ゴホッ」

「お、おい結、大丈夫か」


夜の池袋駅から外に出た途端、僕は猛烈な喉の違和感を感じた。灰を吸いすぎたか。痰を手に吐き出してみると、灰色の何かがこびりついていた。

駅前のアーケード

「ほら、ガスマスクだ…ちょっとは楽になるだろう、ホテルまでしばし我慢だ」


風佳がリュックから出したガスマスクをつけてもらう。息はしづらくなったが、咳はさっきよりはマシなる。「灰で目もやられるかもしれないからな、ゴーグルは取り外しできるが、つけておいたほうがいい」と、風佳はガスマスクをつけながらそう僕に忠告した。

途端に声が籠もる。恐らく、これからの旅で外に出るときは、ずっとこの籠もった声で話さなければならないのだろう。

「川越ではなんともなかったのになぁ」

「何を言っている、ここは天下一の大都会・東京だぞ。人口密度はインドの中枢都市レベルだ、灰も多く積もるし吸い込む量も増えるのだよ、君。それに川越駅に行ったときは、咳をして吐き出すほど多くの灰をまだ吸い込んでなかったんだろう。用心せねばな」

僕達は足場の悪い、灰色の砂漠に足跡を2列つくる。 砂浜を歩いているようなものなので、登山用の長靴でも灰が靴の中に入る。スニーカーの風佳は、しょちゅう靴を脱いでは、靴の中の砂を出している。

線路の上は灰こそ舞うがこういった足場の心配はほとんどない。だから僕達は線路の上を歩いているのだ。

世界一のメガロポリスの、奇跡の「無灯火」を、僕は正直薄気味悪く感じた。



「下がって」

池袋のちょっと高そうなホテルの自動ドアを、僕は小銃で打ち破った。プレイステーションのオープンワールド某犯罪ゲーム並の治安の悪さだが、安住の地を探すためだ、仕方ない。

そもそも、僕らの犯罪を止める組織なんて、いたもんじゃない。

「肩いってぇ」

「ストックの置きどころが悪いな。骨に密着してると痛いぞ」


風佳がホテルの中に入るのを見て、僕もホテルの中に入った。中々高そうな都心一等地のホテルで、金のかかったデートの最後に、男の欲望を発散させる場所としては最適だろう。

明かりはついていない。リュックのサイドポケットから懐中電灯を引っ張り出し、明かりをともした。

受付の職員専用ブースに入り、鍵のある棚を物色する。

「おお、最上階のスイートルームの鍵じゃないか、私はここにするぞ」

「な、なんか申し訳ないから、僕は平民部屋にしようかな」

「倫理観なんて引きずっていたら、この先生きていけないぞ、君」という風佳を尻目に、僕は二階の平民部屋を取った。正直、エレベーターは使えないだろうから、できるだけ僕は階段を使いたくないのだ。だがそんなことを一言口に出してみれば、風佳からの罵倒の嵐が巻き起こるので、黙っておく。



「あーーー、疲れた」

靴を脱ぎ、ガスマスクを外し、リュックを下ろす。

アメニティセットの準備がされているのを確認し、僕はベッドに寝転がる。ここは二階なので窓からの景色は期待していない。僕はベドから足の指でカーテンを閉めた。

風佳はウッキウキで最上階の15階まで登っていった。恐ろしい体力だ。

もう一歩も足が動かない。誇張抜きだ。 この部屋の玄関に鎮座していた灰も、もう気にならなくなった。人間の順応力とは恐ろしいものだ。


寝て起きたら、元の世界に戻っていたらいいのに。

そう思う僕もいるが、逆に、今までの人生では感じることのなかった、妙な興奮が湧き出てくる僕もいる。

これはなんだろう、説明がつかない。性欲ではないことは確かだ。

「…好奇心」


僕はそのまま、眠りについた。






「次は~渋谷~渋谷~お出口は左側です~」

「元気だね君…」


朝八時。僕は五時に叩き起こされ、缶詰の朝食をかきこんで急いで外を出た。なにせ、風佳の準備が万端だからだ。

「5時起きでも遅いぞ、君。明かりがないんだから、平安貴族よろしく日の入りとともに就寝をノルマをしたまえ。寝ることの他にやることもなかろう」

「僕は令和の人間なのに…」

二人は地下鉄渋谷駅を通過する。 ここを抜けると、地下鉄路線は終わり、また地上に出る。舞い散る灰を押しつぶす小粒の雨は、僕達の体力を少しずつ、そして着実に、削っていく。

 ガスマスクをつけた。

 


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