歩く人

一睡もできていない。 でも僕には、行かなければならないところがある。いつまでも埼玉の片田舎にいるわけにはいかない。



小川町駅で一夜を明かし、起きる。昨日は夜が更けてから何も食べていない。起きても、誰もいない。

 この灰、やはり本当に人間なのではないか。 となると、僕は途端に両親への不安が募ってきた。

 早く帰りたい。川越に戻らないと。僕の脳内を支配していたのは、それだけであった。

 小川町駅を出て、近くのコンビニに寄る。店員がいない。その代わり、コンビニの制服が、レジの奥に「あたかもついそこまで持ち主がいたのに、突然いなくなった」かのようにべったりと置かれ、その下には灰が溜まっていた。

 僕はいらない詮索を極力避け、リュックの半分くらいを固形食料や水、エナジーリンクや缶詰などで満たした。そして代金を払わず、コンビニを出た。

 人生初の窃盗だ。プレイステーションなら左上に実績の付箋がはみ出しているところだろう。


 小川町駅は、僕の乗っていた電車が小川町駅で止まったままだ。僕はその電車の中に入ってみる。

 一歩踏むたび、床から灰が舞い散る。僕はまたポケットからマスクを取り出してつけた。 10号車から1号車まで、全く同じ風景が続いていた。

 リュックと、灰と、衣服。まるでぱったりと人間の身体だけがいなくなってしまったかのように、散乱していた。

 1号車では発見があった。それは地図帳。なにかに使えそうなので拝借することにした。 あとは、筒。開けられない。何が入っているかも分からないが、液体っぽいものが入っていそうだ。かっこいいので拝借した。






「よっ」


線路に出る。普通なら怒られる。しかし、今ここには誰もいない。現在時刻は7時13分。なのに電車を一本も見ていない。電光掲示板も、昨日の22:20発だったはずの池袋行きから変わっていない。

 スマホも繋がらない。ならもう線路を歩こう。そのほうが道に迷わずに川越まで帰れる。

 帰ったところで、僕の中ではなんとなく察しがついていたが。


川越まであと何キロかも分からない線路の上を、僕はゆっくりと歩いていく。昨日から風呂に入っていない。


「武蔵嵐山……」


 小川町の次の駅だ。

 そもそも僕は何をしているんだろう?川越に帰ったところで何をすべきなのかはわからない。きっとここと同じように、何もかもが灰になって…

灰に…


もしこの灰が、人間だったとする。 そうしたら、もしかしたら…


「母さんも、灰に…」


 そう考えると、僕は川越に帰るのを躊躇い始めてきた。でも足は止まらない。

 本能が川越に帰りたがっていたのだ。 いや、身体が川越に帰りたがっていたのだ。



途中で僕は国道254線に乗り換えた。ここは別名「児玉街道」。江戸時代に川越から群馬の藤岡までを結んでいた街道で、参勤交代の道路ともなっていた。

5月なのに気温は初夏を有に越えるような、強い日差しが照りつける。僕はその中を、ゆっくりと着実に歩いていく。

途中途中で休憩して、なぜか入れてしまったエナジードリンクを置いていき、装備を身軽にした。リュックの中は水やスポーツドリンクと携帯食料、適当な甘味である。

ぼーっと街道を眺める。さっきまで走っていたかのように車が道路に並べられている。車の中には、量の大小はあれど、灰が詰まっていた。

この車を拝借しようかと思ったが、良心が咎めた。まず、道路にデカデカと青空駐車している輩があまりにも多く、とてもじゃないが運転できない。僕運転免許持ってないし。

これも、人間が灰になっていたのなら辻褄が合う。突然人間が灰になって、車に乗っていた人はみんな灰になり、車は道路で放置される。

 でも、僕はこの「合っていそうな仮説」を信じようとはしなかった。


「はぁ……」


未だ東松山。小川町駅からは何キロ歩いただろう。10キロ程度は歩いただろうか。

時刻は9時半すぎ。本来なら今頃、生きたくもない池袋の大学に通い、腹立たしいレンガ造りの門をくぐり、そして能動的に何もせず、

ただ流されるままに講義を聞き、

ただ流されるままに友人に会い、

ただ流されるままに課題を出し、

ただ流されるままに家に帰るのだ。


今は、能動的に動いているのだろうか。今だって、僕はただ流されるままに川越へ向かっているのではないか。

じゃあ、僕の能動って?

僕のやりたいことって?

僕はそうやって自問自答しては、答えが出せず悶々としていた。












16:59。やっと川越駅についた。

パリまで、あと9710km。









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