終章
第21話 誓いのキス
アパートに生える桜の木が蕾をつけ始めた頃、オレたちは高校を卒業した。一は見事、第一志望の大学に受かって、それから手続きや入学準備に唸っている。オレはというと、姉ちゃんから紹介された仕事の面接に行って、結果を待っている段階だ。新しくオープンする小さなカフェで調理をするスタッフの募集だった。受かれば、しばらく経験を積んで、上手くいけばメニュー開発の手伝いも任されるらしい。料理は得意だし苦がなくできるけど、不特定多数のために作ったことは無いので、不安を感じる。受かってもないのにイメージトレーニングをしていたら、家で料理をするとき少し緊張するようになった。
引っ越しの準備も進んでいる。一が、仕送りをやりくりした貯金を引越しの費用に全額使うと言って聞かないから、お父さんのお金残しておくのが嫌なのはわかったけど、お金は大切に使おうよ、と説得した。しかし一は、この前内見した、今よりほんの少し大きめのアパートを契約して、勝手に引っ越し業者を手配していた。家賃はそこまで変わらないだろとか、それでも少し余るようにしたとか色々な屁理屈を捏ねてきたので、言い合いの喧嘩をした。久しぶりにお互いぶつかるような喧嘩だったからか、ちょっとだけ嬉しくなった。言い合いは落ち着いて、業者から受け取った段ボールに、自分の荷物を詰めはじめた。
「……思い出のものって、意外と少ないね」
冬に二人で買いに行ったマグカップを緩衝材に包んで仕舞っている。一は微笑んだ。
「そうだな。このマグカップくらいか?」
オレは漫画本を棚からごっそり掴めるだけ取った。舞った埃が眩しく光る。
「でも二人で生活してたし、ここにあるもの全部に、思い出があるだろ」
喧嘩した後には見えないくらい一はご機嫌で、口角が上がっている。初めてオレの前で笑って以来、一は徐々に笑顔を見せるようになった。嬉しい反面、他人にも笑顔を見せるようになると思ったら、気が狂いそうになる。だからって、オレだけに見せてほしいと伝えるのは、愚かで強欲だ。一にとって元々トラウマだったことだし、束縛して無理に押さえつけるのは、オレにとっても良くない結果を招く。でもやっぱり他人に見せたくない。
「比嘉、どうした?そんなところで突っ立って」
本棚の前でぼーっとしていたオレに、一は怪訝な顔で尋ねる。
「へ?ああ、いや……なんでもない、ちょっと疲れたなーって」
ごまかして作業に戻ろうとした時、オレが好きなロックバンドの曲が、爆音で流れ出した。今まで電話なんて来なかったからか、着信音の音量設定をミスっていたんだ。びっくりして跳ねる心臓を落ち着けるように、自身の胸を押さえてオレたちは見つめ合う。オレのスマホはテーブルの上で、早く取れ、と急かすように喚き、震えていた。
「姉ちゃんからだ、なんだろ。もしもし?」
『あ、零?おはよ~』
姉ちゃんの寝ぼけた声が聞こえる。もう昼過ぎなのに、シーツの擦れる音がスピーカー越しに聞こえた。
「なんかあった?」
『んあー、そうだ。前あんたが行った面接!履歴書に電話番号もメアドも書いてなかったでしょ!私んとこにオーナーから連絡きたよ』
「えぇ、マジで?あー……」
失敗した。書いてなかったっけ?普通に忘れた?抜けてるなんて程度じゃないな。ぐるぐると反省が脳内をめぐって、背筋が寒くなった。
『で、雇いたいって言ってたから、オーナーに連絡先教えとくね』
「はっ、え?うそ」
落ちたと確信して一人反省会を始める瞬間だったので、オレは混乱して声がうわずった。
『嘘ついてどうすんのよ。オーナーと連絡とって、正式に働けるようになったらお祝いしようね!ふぁ、ねむ……』
姉ちゃんは伝えるだけ伝えたら、あくびをしながら一方的に電話を切ってしまった。スマホを見ると、オーナーらしき人からメッセージの通知が来ている。
「比嘉。おめでとう、よかったな」
通話はスピーカーにしていたので、聞いていた一は声を弾ませた。
「あ、うん!よかった。安心したよお。ちょっと焦ったけど……」
一はオレの横で雑巾を握りしめながら安心した笑顔でオレを見つめている。保護者みたいな感情が入っているな、と感じた。親身になって喜んでくれるのは嬉しいけど、なぜか物足りないような気持ちになるのは、なんだろう。
「そうだ、比嘉。まだ昼食べてない」
「ああ、なんか作る?」
一は少し考えて、思いついたように提案した。
「ちょっと出かけて、外で食べないか?部屋は今散らかってるし、気分転換でも」
オレは一についていく形で、いつも通りの散歩をしているつもりだった。しかし今、お洒落なレストランの、景色が綺麗な窓際の席に座っている。窓の外には庭があって、植物が美しく飾られている。庭の上は吹き抜けで、風が吹いては植物たちが陽の光を反射した。こんなところが近くにあるなんて知らなかった。
思えば着替える時に一がオレに対して、モノトーンは着ないのか、と聞いてきた時に理由を問うべきだったかもしれない。落ち着いた色合いではあるけど、普通にいつものパーカーを着てる。店に入る時、なんか場違いな感じがして少し、恥ずかしくなりかけた。一がいつもよりラフな格好をして出かけたので不思議に思ったが、オレが恥をかかないためだだったのかもしれない。そこまで考えられていると、別の意味で恥ずかしくて顔が熱くなった。
「……ってか、なんで予約してあるの!?出かけるつもりあったなら言ってよ……」
「悪い。ちょっと、驚かせたくて」
一と付き合ってからずっと一緒にいて、デートといえば散歩とか買い物だった。初めてこんな雰囲気のいい場所に来たので、嬉しいといえば嬉しい。ただ、いきなりのことで感情が追いついていないんだ。落ち着かなくてそわそわ、もじもじしてしまう。
一の方はというと、微かに不安そうな顔でオレを見つめていた。そもそもサプライズが得意には思えないし、一も緊張しているんだろう。普段は機転が効くできる男だけれど、オレのことになるとかっこ悪い失敗をしたりする。そこがまた可愛くて、好きなんだけれど。
「ね、なんで今日、こんなお洒落なところ連れてきてくれたの?」
料理の注文を済ませて店員が離れるのを確認してから、身を乗り出して聞いてみる。一は、目線を上にやってしどろもどろになった。
「あー、その……比嘉に、サプライズがしたくて、玲奈さんに相談したんだ」
「ふんふん、姉ちゃんはこういうの得意そうだもんなあ」
オレは、一にもサプライズをしたいという気持ちが本当にあるんだと知って、嬉しかった。姉ちゃんと連絡していたのを隠したのはいただけないけど、今回は目を瞑ってやろう。それにしても、サプライズ中に、人に相談したことを言っちゃうあたり本当に慣れてなくて微笑ましい。姉ちゃんが横にいたら、頭を抱えるだろうな。
「もう一箇所、ついてきてほしいところがある」
レストランのコース料理を堪能した後、一に導かれるままやや長い道のりを歩いてたどり着いたのは、先日卒業したばかりの学校だった。先生に挨拶をしてから、教室の鍵を借りる。誰もいない長い廊下を、オレは靴下でぺたぺた走った。床が冷たくて気持ちいい。
「ひゅう、誰もいない!休みだもんなあ」
「本当は屋上に行きたかったんだけどな、ダメだった」
教室の鍵を開けながら一は言う。建て付けの悪い引き戸に力を込めると、耳をつんざくような音を立てて開いた。風が吹いたような気がして、目を細める。中の空気は日差しのせいで生温かった。
「もう既に懐かしいなあ。窓開けちゃお」
オレが窓を一つ一つ開けているのを眺めながら、一は机に腰掛けた。
「あ、机座ってる!ダメって言ってたの誰だっけ~」
「はは……言ったな、そんなこと」
一は笑って机から立ち上がり、駆け寄ったオレを捕まえた。大きな体に抱きしめられる。がっしりしていて、温くて優しくて、安心感がある。オレも一の広い背中に手を回して、お互いに密着した。
「比嘉、好きだ。ずっと一緒にいたい」
か細い声で一は呟いた。
「オレも一のこと好き。ずっと一緒だよ」
一は少し体を丸めて、オレに体重をかけた。抱きしめる力もわずかに強くなる。
「……違う、これからは別々のところに通うし、離れる時間が多くなる。本当は嫌だ、ずっと隣にいたい」
そうか、これから二人で過ごす時間は今よりうんと少なくなるんだ。お互い不安になる時間が多くなるのかな。オレは、返事ができずに、苦し紛れに一の背中をさすった。
「なあ、比嘉。目閉じてくれるか」
一はオレの肩を押して体を離し、照れ臭そうに目を逸らしてお願いしてきた。オレは黙ってそっと目を閉じる。かさかさと何かを探る音が一の方からして、次の瞬間、一の唇で、オレの唇は塞がれた。ゆっくり舌が入ってきて、とろけそうになっていると、一がオレの手を握って、ひんやりしたものが指に触った。冷たさに驚いて体が跳ねてしまい、恥ずかしくなる。一は手を握ったまま、熱くなった唇を離した。
「はい。目、開けて」
恐る恐る開けると、左手の薬指に、細い指輪が通っていた。一にも同じものが通されていて、照れながら、ほら、と見せてくる。オレは頭が真っ白になって、自分の手をいろいろな角度から眺めた。指輪は窓からの日差しを反射して光る。綺麗な銀色。
「どっ、どうして、これ」
「ん、お互いに虫除け」
なんてムードのない返答だろう。それでも一の顔を見てたら、感情が込み上げてきて、どうでも良くなった。嬉しすぎて苦しい。いつの間にかオレは泣いていた。大粒の涙が頬を伝って、教室の床に落ちる。嬉しいことは十分伝わったようで、一は優しくオレの頭を撫でた。
「ありがと、大切にするね」
窓から風が吹いて、カーテンが踊り出した。オレはまだ泣きやめず、鼻を啜りながら教室を見渡して、一に向き直った。ふんわりと微笑んでこちらを見つめている。この男、オレたちが出会った教室でこんなサプライズなんて、ロマンチックなことしてくれる。心が、いつになく満たされた気がした。
「一はオレのもので、オレは一のものだね」
一の指を弄りながら、オレは実感する。一もオレの指輪を撫でて、穏やかな顔をした。
「最初からそうだったよ」
教室にチャイムが響く。どちらからともなく、オレたちはキスをした。誓いのキスなんてものではなく、純粋に、互いを求め合っていた。
パープルインザダーク 笹野有耶 @uya_sasano
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