今のところ、扉一枚隔てるのがいいらしい

糸花てと

第1話

「パパー、お金ちょうだい」


 趣味ばかりで溢れた俺の部屋。妻は毎度々、一瞬だけ立ち止まっては溜め息をついていく。俺の金なんですけどー、駄目ですか? 見逃す、呆れる。可能性があるのは、その辺り。

 だから、部屋を訪れるのは娘しかない。振り返る、すらっとした美脚が目に飛び込んできた。じっと見てしまうのを堪え、鎖骨辺りで、毛先をくるくる。人差し指で弄っているその仕草に、戸惑いや焦りから現れる視線の揺れを避難させた。

 娘が話し掛けてきたと思ったら、小遣いをねだられる。いつもの事ではある。


「いくら欲しいんだ?」

「五千円かな」


 財布から札を一枚抜き取り、きらきらした爪の、娘の手へ乗せた。


「ありがとっ!」


 元気よく、そして笑顔の娘。思春期真っ只中、それ以上の会話は無かった。いつもの事ではあるが、寂しいなんて言えば気持ち悪がられるだけだしな。




 コンコン。軽快なノックの音、そのあとに、「パパー、ちょっといい?」娘の声だ。


 常日頃から開けっ放しの部屋。俺が帰宅してきて先ずする事は、窓を閉めること。妻が言うには、加齢臭が気になるから、だという。どうしようもない気がするんですが。

 だから、わざわざノックする必要がない。用事があるなら声をかければいいだけだ。このパターンは初めてで、ちょっと戸惑うな。


「どうした?」

「これ、味見してくれない?」


 小皿には、三枚のクッキーがあった。味見という事は作ったという事だ。思春期真っ只中、理由はなんであれ、そうしたい年頃なんだろう。不味くても旨いっていうべき……いや、そこら辺は、娘の中では既に答えが出ているし、正直に言っても問題ないだろう。


「クッキーなんて久し振りだなぁ、いただきます」


 バレンタインに、妻から貰った以来だ。丁度いい硬さ、バターの香りが広がる。時々しょっぱいか……? 店でもそういう商品あるよなぁ、塩なんちゃらってやつ。


「どうかな?」

「旨いよ」

「ほんとにっ!?」


 確認が済んだらしい、娘は行ってしまった。友達とお菓子の交換でも始めたんだろうな。小皿の上には、残り二枚。もうちょっと食べたい。




 とっぷりと日は沈んだ。「ただいまー」とキッチンへ続く廊下で言ってみる、耳をすませて「おかえり」が返ってきた。部屋着になり、キッチンへと進む。

 テーブルには一人分の夕食。妻と娘は済んだらしい。


「あなたにプレゼントですって、クッキー」


 食器を洗っているため、後ろ姿しかわからない。どんな表情でプレゼントと言ったのか。喜んでいいのか、買い物へ付き合って欲しいから言ったのか。とりあえず、


「おぉー、旨そうだな。綺麗に包装もされて──…」


 この味、バターの香りが広がって、ちょっぴり塩。娘の手作り? 味見してと言って持ってきたのと、似てるような?


「がんばってたもの。私ダイエット中だから、助かったわ」


 妻のその言葉は、なにか関係があるのか? 早々に夕食を終え、娘の部屋へと足を運ぶ。螺旋状に造られた階段、途中から、啜り泣きが聴こえてきた。


 相手は誰であれ、泣いてるのは、どうしていいかわからない。足音を出来るだけ消して、扉の前に座る。




「わ、びっくりした。あなた何してるの?」


 下での用事が済んだ妻がやってきた。薄暗い廊下、娘の部屋の前に座る俺、確かにな、何やってるんだろうな。

 ジェスチャーで〝静にー!〟と促しても手遅れだった。扉越しに、娘が言う。「え、パパ、そこに居るの!?」


 扉が開く様子もないから、その状態で続けた。妻は通りすぎる際、「ふふっ──」と笑っていた。


「えっと、な……その、クッキー、ほんとに旨かったぞ」

「……ありがと」


 あれこれ言ったってうるさいだけ。でもなー、言いたくなってしまうんだ。苦労も喜びも悲しみも、人によって違うのはわかってるんだけどな。


「まー、人生いろいろあるよなぁ。いっぱい泣いて、また前を向けるならそれで良いと、パパは思う。愚痴とか言いたくなったら、来たらいい。しっかり受けとめるからな」

「そんな大事おおごとじゃないんだけど……、まぁいいや、ありがと」


 ふーっ、と娘が深く息をついた。


「ねぇパパ、ママのどこが好きなの?」

「女の人にしては物怖じしないっていうか、サバサバした性格で、そこが逆に気になったかな」

「どういう事?」

「人に甘えることが少ないっていうのは、格好いいし頼れる印象なんだけど、人って沢山抱えられないから」

「それってさ、よく見てないと分からなくない?」

「確かにそうだな」

「それくらいママの事が好きってことだ!」

「内緒にしといてくれよ……?」


 扉越しにした、深い話。次は面と向かって言えるといいな。



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