別の人の彼女になったよ

T.KANEKO

別の人の彼女になったよ

 「秀樹、何でここにいるの……」

 「ゴルフしに来たんじゃねぇーか!」

 「なんか、嫌な感じ……」

 「俺だって……」

 二人の会話は殊の外大きく、周りにいたお客さんの視線を一身に浴びている。


 千葉県市原市にあるゴルフ場のキャディマスター室前で二人は再会した。

 男の名前は、石川秀樹。

 女の名前は、鈴木絵里香。

 二人は同じ大学に通っていた同級生で、当時はゴルフ部に所属していた。

 二人は体育会の新入生歓迎コンパで出会った。

 そして、大学2年の春から交際を始める。

 大学卒業後、就職した二人は同棲を始めた。

 しかし、その1年後に破局を迎える。

 今からちょうど2年前の事だ。

 破局の原因は二人にもよく分からない。


 二人は一人予約ゴルフというシステムを利用してゴルフの予約を入れていた。

 このシステムは、一人で予約した者同士を組み合わせてラウンドさせてくれるというもので、ゴルフ仲間を集めなくても気楽にプレーが楽しめるという利点がある。

 誰とラウンドするかは、予約サイトに表示されるのだが、大抵はニックネームで登録しているのでゴルフ場で顔を合わせるまで分からない事が多い。

 絵里香が予約サイトを最後に見たときは三人で回る予定になっていたが、すーさんというニックネームの人が直前にキャンセルしたようで、結局二人だけでラウンドする事になった。


 「どうするよ? やめるか?」

 「どうするのよ? やる?」

 「俺は、どっちでもいいぜ」

 「私も、どっちでもいいけど……」

 絵里香の言葉は語尾へ向かうにつれて小さくなった。

 秀樹は数秒間、絵里香の様子を見つめた。

 絵里香が寂しそうな気配を漂わせている……

 そう思った秀樹は、キャディバッグからパターを抜くと練習グリーンへ向かって歩き出した。

 その様子を黙ってみていた絵里香にひと言、呟いて……

 「せっかくだから、やろうぜ」

 「せっかくだからね……」

 絵里香は微笑を浮かべて、パターを抜いた。


 新入生歓迎コンパで二人は出会った。

 先に好きになったのは、秀樹のほうだ。

 弾けるような笑顔で、誰とでも分け隔てなく話す絵里香に惚れた。

 絵里香は飾り気がなく、どちらかと言えば素朴な感じであったが、逆に言えば、飾る必要がない美しさを兼ね備えていた。天真爛漫な絵里香に心を奪われた秀樹は三ヵ月後に告白する。

 一方で、絵里香は喜怒哀楽の激しい秀樹が苦手だった。

 大笑いをしていたかと思えば、ちょっとしたミスで怒りだし、勝負に負けると涙をボロボロと流して号泣する。そんな秀樹に手を焼いた。いや別に手を焼かずとも、放っておけば良いのだが、絵里香の性格上、そういう人を見るとついつい手を焼いてしまうのだ。

 告白された絵里香は、体よく断った。

 それでも秀樹は、諦めなかった。

 何度も何度も告白し、やがて絵里香は受け入れる。

 秀樹の激しい喜怒哀楽の根底には、物事にかける熱い思いがあると感じたからだ。

 絵里香に受け入れられた秀樹は喜びを爆発させ、そして号泣した。

 そんな子どものような秀樹の姿に、絵里香の心は揺さぶられた。


 同じカップを目掛けてパッティング練習をしていた二人のゴルフボールがカップの目前でぶつかり、2つとも外れた。

 「俺が先に打っているんだから、少し待てよ」

 「相変わらず言う事がちっちゃいなぁ……」

 「何だよ、ちっちゃいって!」

 「あのさぁ、私たちが付き合い始めた頃、私に何て言ったか覚えてる?」

 「そんな昔の事、知らねえよ」

 「『もしも付き合ってくれたら、俺は一生、絵里香の盾になる』そう言ったんだよ。『車から降りるときはドアを開けて待つし、車道側は絶対に歩かせない』そうも言ったよね」

 「……」

 秀樹は何も言えなかった。


 1番ホールのティーグランドに立つと、春の爽やかな風が背後から吹き抜けた。

 秀樹はバックティーを選択した。

 ティーアップしたボールの後方から目標を定めると、一度素振りをしてアドレスに入る。間髪おかずにテイクバックに入り、コンパクトなスイングで振り抜く。金属音を響かせて弾かれたボールは、青空に吸い込まれるように飛んでいき、右から左へ緩いカーブを描いてフェアーウェイセンターを捉えた。秀樹はボールの落下地点を見る事無く、ティーを拾って歩き出した。

 「ナイスショット、相変わらずいい球打つわね……」

 絵里香は、秀樹が放った弾道に目を細めた。

 「さぁ、夢とロマンを求めて行こうぜ!」

 スタートホールで秀樹が必ず口にする言葉だ。

 絵里香はレギュラーティーからショットを放つ。大きなバックスイングからゆったりと振り抜くと、ボールは綺麗な放物線を描いて、フェアーウェアのやや右に着弾した。

 「ナイスボール!」

 秀樹の大きな声が響いた。

 絵里香は、はにかんだような笑顔を浮かべた。

 二人並んでフェアーウェイを歩き出す。

 「今でも結構、ラウンドしているのか?」

 「月に1回くらいね……秀樹はどうなの?」

 「俺は、週に1回ペースかな」

 「へぇ……変わらないね」

 「これしか趣味がないからな」

 「そう言えば、秀樹とのデートって、ゴルフばっかりだったもんね」

 「そんな事ないだろ……フェスにも行ったぜ」

 「そうだったね……フェスにも行った」

 絵里香は思い出を振り返って微笑みかけたが、すぐに真顔に戻った。


 二人はセカンド地点に到達する。

 絵里香のセカンドショットは、残り150ヤード、ピンは左奥に切られている。5番ユーティリテイーで放たれたショットは、手前のバンカーを越えてグリーンセンターを捉えた。

 「ナイスオン!」

 相変わらず、秀樹の声は大きい。

 絵里香は秀樹のほうをチラッと見ると、小さく右手を挙げた。

 秀樹は残り100ヤードをウェッジで狙う。大きなターフとともに舞い上がった ボールはピンと重なるように飛んで行き、ピン手前3メートルに着けた。

 秀樹のショットを目で追っていた絵里香は、軽く手を叩いた。

 グリーン上の二人は会話を交わす事無く、黙々とラインを読む。

 ピンまで10メートルの絵里香は、手前50センチに寄せて難なくパー。

 強気で狙った秀樹のパットはカップの淵をかすめて1メートル近くオーバー、それでも返しを入れてパーとする。

 グリーンを後にすると、秀樹は絵里香に向かって拳を突き出し、グータッチを要求する。

 絵里香はそれに応じて拳を出しかけたが、途中で引っ込めた。


 「何だよ、つめてぇーじゃねーか!」

 秀樹が不満そうに言う。

 「私たち、別れたんだよ。昔とは違うんだから……」

 絵里香は視線を合わせずに、乗用カートへ向かってさっさと歩き出した。

 秀樹は、わざと聞えるように舌打ちをした。

 すると絵里香は歩みを止め、踵を返して秀樹の前に立ちはだかった。

 「私、彼氏できたんだよね……」

 秀樹は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに平静を装った。

 「だから、昔みたいな関係ではいられないの……」

 絵里香の口調は、少しきつめだった。

 秀樹は一瞬黙した後、「そっか……それはおめでとう」と感情を殺し、ポツリと呟いた。

 秀樹らしくない小さな声を聞き、絵里香の心は少し痛んだ。

 ちょっと言い方がきつかったかな……と反省した絵里香は、柔らかい口調で問いかけた。

 「秀樹は、彼女いないの?」

 「俺はジコチュウだから、恋愛に向かないと思うんだ…………」

 絵里香はゆっくりと視線を逸らして下を向いた。

 「今度の彼氏はやさしいのか?」

 秀樹は明るい声で問いかけた。

 「やさしいよ、喧嘩することもないし、私の話をちゃんと聞いてくれるの……」

 「そっか……」

 素っ気無い受け答えをすると、秀樹は俯き加減で、カートには乗らず、2番ホールのティーグラウンドへと向かう。


 2番ホールは池越え170ヤードのショートホール、ピンは右サイド。

 秀樹は、グリーン右サイドのバンカーに掴まる。

 絵里香が使用するレギュラーティーからは140ヤード。

 ゆったりとしたスイングから放たれたショットは、グリーンのセンターをラクラク捉えた。

 二人は乗用カートに乗った。秀樹は前の座席、絵里香は後部座席だ。

 「そう言えば、今年のフジロックは行かないのか?」

 秀樹が唐突に尋ねた。

 絵里香の明るさを引き出そうと、わざわざ後ろを振り向いて笑顔を作ったが、絵里香は沈みがちな声で、「行かないよ……」、と呟いた。

 「フェス、行ってないのか?」

 「今の彼氏、そういうの好きじゃないんだ……」

 「ふーん、昔は毎年、行ってたのにな……」

 「仕方ないよ……それに、いつまでもはしゃいでいられないでしょ……秀樹は行くの?」

 「俺は毎年、行ってるよ! 一人ぼっちだけどな……」

 「それなら、早く彼女を作りなさいよ」

 「俺はずっと一人でいいんだ……」

 そう言った秀樹の笑顔は、少し寂しそうだった。


 秀樹のバンカーショットはピンを3メートルオーバー。パーパットはカップに蹴られてボギー。奥歯を噛みしめて悔しそうな顔を浮かべる。

 一方の絵里香は2パットでパー。

 「ナイスパー」という秀樹の声にも、頬を少し綻ばせるだけで表情は崩さない。


 「なんかさぁ、絵里香って、もっと楽しそうにプレーしてたよなぁ……」

 「そうだっけ……」

 「今の彼氏もゴルフするのか?」

 「するよ」

 「パーとか、バーディーとか取っても、はしゃがないのか?」

 「はしゃいだりする人じゃないの…… 秀樹みたいに映画を観て涙ボロボロ流したりもしないし……」

 「それで、楽しいのかよ?」

 「楽しいよ…… 色んな事に詳しくて、尊敬できる人なの」

 「ふーん……」

 視線を宙に漂わせた秀樹は、口を尖らせながらカートに乗り込む。


 アウトの9番ホールが終了した。

 前半のスコアは秀樹が39で、絵里香は40だった。

 秀樹はバーディを3つ取ったが、ボギーとダボを2つずつ叩いた。どんなホールでも攻めの姿勢を崩さない秀樹の特徴的なスコアだった。絵里香も学生時代は秀樹と同じようなスタイルだったが、今はどんな位置にピンが切られていようとも、常にグリーンのセンターを狙う。バーディーは取れなかったが、ボギー4つに堪えた。


 クラブハウスのレストランで二人は向き合った。

 「俺は、カツカレーと、もつの煮込み、それに生ビール」

 「私は、本日のパスタとアイスコーヒー」

 「あれ、ビール飲まないの?」

 「だって、車だもん……」

 「今からだったら、風呂でも入ってゆっくりしてりゃ、醒めるだろ」

 「そういうの、許してくれないの」

 「また、彼氏か……」

 秀樹が、からかうような言い方をすると、絵里香は頬っぺたを、ぷくっと膨らませた。


 「絵里香、ゴルフのスタイルが変わったよな……昔はもっとアグレッシブだっただろ」

 秀樹は頬杖をつきながら、喋った。

 「仕方ないよ…… 昔みたいにラウンド数が多くないし……」

 絵里香は姿勢を崩さずに話す。

 「今の彼氏ってさ、ゴルフ上手いの?」

 「上手いよ、だってゴルフのインストラクターだもん…… プロを目指している若い子達を教えているんだ」

 秀樹の目が大きくなった。

 「へぇーそうなんだ…… って事はゴルフでは敵わないな…… ん? ゴルフで勝てないとなると、何をやっても勝てないか……」自虐的に秀樹は笑う。

 「コースマネジメントとかも、結構言われちゃうんだよね…… 無茶な攻め方をすると、叱られちゃうの」絵里香は苦笑いを浮かべた。

 「それで、言いなりになっちゃうんだ…… 俺のときは言い返してきたのに……」

 「だって彼が言う事は、正しいんだもん……」

 秀樹は不服そうな顔を浮かべて、口を閉ざした。


 二人は、ランチを終えて後半のスタートホールへやって来た。

 午後になり、少し風が強くなっている。

 絵里香はウインドブレーカーを一枚羽織ったが、秀樹は半袖のポロシャツ一枚のまま。ティーグランドに上がろうとしていた秀樹は、芝をつまんで、空中に放り投げる。宙に浮いた芝は、風に吹かれて、左前方へ流れていった。

 「右からのフォローだな」秀樹が呟いた。

 その様子を眺めていた絵里香の脳裏に、学生時代の思い出がフラッシュバックする。


 秀樹とのデートは殆どがアウトドアだった。ゴルフ場はもちろんの事、二人でよく出かけたフェスも屋外だった。

 二人は大学の夏休みになると、フェスの会場を渡り歩いた。芝生の上に寝転んで、ビールを飲みながらのんびりと音楽を楽しんだり、ノリの良いバンドが登場するとタオルを振り回して、バカみたいに飛び跳ねた。

 お互いに主張しあうタイプだったので、ぶつかり合って喧嘩をする事もあったが、大抵の場合は、秀樹が絵里香を抱きしめることで解決した。


 秀樹は思いをあまり口にせず、どちらかと言うと行動で示すタイプだった。

 絵里香は、そんな秀樹に時に救われ、時にイラついた。

 別れた原因ははっきりとしない。

 秀樹が嫌いになった訳ではない。ただ、一緒に暮らしていて、何となく息苦しさは感じていた……

 これ以上一緒にいたら、秀樹の事が嫌いになってしまいそうだから…… 別れた。


 14番のミドルホール、ティーショットを打ち終えた絵里香に、秀樹は声を掛けた。

 「絵里香、なんか無理してないか?」

 秀樹はホールが進むにつれて元気が無くなっていく絵里香を心配した。

 「何が……」

 絵里香はハッと驚いた顔をする。

 「なんか全然、楽しそうじゃないぜ…… 昔はもっとハツラツとプレーしてたじゃん……」

 「仕方ないでしょ…… もう学生じゃないんだから。今は大人しくて上品なキャラを目指しているの!」

 「何だよ、キャラって…… そんなの似合わないよ…… 俺はさぁ、Tシャツに短パンとビーサンで、ヤンキー座りしながら缶ビールを飲んでいる絵里香が好きだったけどな」

 秀樹は笑いを誘うような口ぶりで言ったが、絵里香は凄く嫌そうな顔をした。

 「やめてよ…… そんな事したら、彼に嫌われちゃうよ……」

 秀樹は、彼、という言葉に嫌気が差してきた。

 「そいつ、絵里香の良さが分かってないんじゃないか」

 「そいつ…… なんて言い方しないでよ! 仲良くやっているんだから……」

 絵里香は口を尖らせた。

 「ふーん、それならいいけど……」

 秀樹は一瞬呆れたような顔をしたが、ガラっと表情を変えて自分のボールに向かって歩き出す。

 絵里香は唇を噛み締めて後姿を追った。秀樹の言葉に心がざわついているのを感じて……


 「そう言えばさ、絵里香の夢はどうなったんだ……」

 15番ホールのグリーンを終えて、カートに乗り込んだところで秀樹が唐突に問いかけた。

 「夢って、何のこと?」

 「スポーツライターになりたいって言ってたじゃないか……」

 秀樹は少し苛立ち気味に話した。

 「そうだっけ……」

 絵里香は、とぼけたような態度を貫く。

 「その程度の夢だったのかよ……」

 ガッカリした秀樹の声は萎んでいった。

 絵里香は、鼓動が早くなっていくのを必死で抑えようとしていた。

 スポーツライターになるのは絵里香の学生時代からの夢だった。

 その事を毎日のように秀樹に話していた。

 スポーツ観戦をしたら、それを記事にしてSNSにアップして、その道を目指した。

 そういう仕事に携わろうと就職活動をしたが、結局駄目で、それでも諦めずに事務の仕事をしながらも、その道を探った。それでも道は開けなかった。

 そんな時に、今の彼と出会った。


 秀樹とは正反対の性格で、何事においてもキッチリとしている人だった。

 一緒に居て不愉快にならないから喧嘩をした事は一度もない。

 感情のコントロールがしっかりとしている人で、どんな時でも冷静だった。

 そんな彼に惹かれて交際が始まった。彼のアドバイスは的確で、叶わない夢を追いかけて愚痴るくらいなら、足元をしっかりと見つめるべきだと言われた。

 スポーツライターの夢を諦めかけていた時だったから、そのアドバイスが心に沁みた。でも……

 秀樹は、自分の夢を追い続ける人だ。その姿はバカバカしいけど眩しい。

 そしてそれを他人に押し付けるところは本当に鬱陶しい……

 でも心の奥が熱くなる。

 鎮まっていた絵里香の心が疼き始めた。


 17番ホールは谷越え、打ち下ろしのショートホールで、グリーン上では前の組がプレーをしていた。

 二人はカートに乗って、ぼんやりと前の組を眺めている。

 秀樹が、ポケットからスコアカードを取り出し、ここまでのスコアをチェックしだすと、絵里香が徐に口を開いた。

 「やっぱり今日は、回らないほうが良かったかな……」

 秀樹はスコアカードから目を離して、絵里香を見つめた。

 「どうして?」

 「昔の思い出なんて全部捨てて今の彼氏と付き合い始めたのに、色々と思い出しちゃったからさ……」

 秀樹は小さく溜息をついた。

 「別に昔の思い出は無理して忘れなくてもいいんじゃん…… 別れたけど、楽しい時もあった訳だしさ…… それに俺は久しぶりに絵里香とラウンドできて、楽しかったよ」

 「そうだけど…… なんかさぁ、色々と比べたくなっちゃうじゃん…… 私、ずるい女だからさ」

 「どうせ俺には勝ち目なんてないんだから、比較になんて、なんねぇだろ……」

 そう言うと、秀樹は7番アイアンを抜いてティーグランドに上がる。

 プレーを終えた前の組が、グリーンを去ろうとしていた。

 いつも通りのルーティンから放たれた秀樹のボールは高々と舞い上がり、ピン奥に落下して、バックスピンが掛かり、ピン手前1mで止まった。

 カートに乗って移動していた前の組から拍手が沸き起こる。

 秀樹はそれに応えて、右手を高々と挙げた。

 絵里香は、口をへの字にして秀樹のショットを見つめていた。


 二人は最終ホールを迎えた。

 秀樹は相変わらず出入りの激しいゴルフをしていて、4バーディ、4ボギー、2ダブルボギーの4オーバー。一方の絵里香は、1バーディー、7ボギーで6オーバーだった。

 最終ホールは、グリーンの手前に大きな池があるロングホールだ。池越えで2オンを狙うか、池の右側を回りこんで3打目勝負に掛けるかがカギとなる。

 豪快に振り抜かれた秀樹のティーショットは、フェアーウェイのセンターをキープ。池を越えるのに230ヤードと言う絶好のポジションだ。

 絵里香のティーショットは右のラフに捉まったため、2オンは断念。残り120ヤードの安全な場所にレイアップした。


 秀樹は、当然のようにグリーンを狙う。

 スプーンから放たれたボールは理想の弾道を描いて、ピンに向かって飛んでいく。しかし、ボールは向かい風に阻まれ、あと数ヤード届かず、池に捉まる。

 「惜しいー!」絵里香が珍しく大きな声をあげた。

 秀樹は絵里香のほうへチラッと視線を送ると、ポケットからボールを取り出し、その場にドロップした。池を横切ったラインからの救済を受けずに、打ち直しを選択したのだ。


 先ほどと同じようにスプーンで打った打球は、同じ弾道を描いて、池を越えた緩やかな土手に当たり、コロコロと戻って再び池に捉まる。


 「秀樹、池を越えて戻ったから向こう岸から打てるわよ……」

 絵里香が叫んだが、秀樹はその声を無視して、再び同じ場所へドロップする。

 「相変わらずね……」

 絵里香は心の中で呟き、大学時代の記憶を辿った……


 交際している時、二人はペアを組んで、数多くの大会に出場してきた。

 二人の合計スコアを競うミックスダブルスで、二人は優勝争いをした事があった。

 あの日は最終ホールをトップで迎えていた。

 そして今と同じように池越えの2オンを狙うか、安全に3打目勝負に賭けるか微妙な判断を迫られる。

 秀樹は2オンを狙った。

 完璧なショットはピンに向かって真っ直ぐ飛んでいったが、あと僅かというところで池に捉まる。

 あの時も秀樹は、その場から打ち直した。そして同じように池に捉まる。

 絵里香は前方での救済を受けるよう進言したが、秀樹は聞き入れなかった。

 秀樹は結局3回池に入れて、このホールだけで10打も叩き、下位に沈んだ。


 ゴルフ部のメンバーは、秀樹がルールを知らないのではないかと馬鹿にした。

 秀樹の愚かさを笑う者も居た。それでも秀樹は胸を張った。

 「絵里香、ごめん…… もっと練習して、次は池を越えられるように頑張るから」

 秀樹の中に、戦略的な後悔は一切無かった。そんなバカみたいな潔さに絵里香は心を打たれた。


 3度目の打ち直しをする秀樹の姿が、大学時代のそれと重なった。

 2度、池に入れていることなど忘れてしまったかのように集中している。

 打ち直されたボールは、その前の2球と同じように飛んでいき、グリーンのカラーにワンバウンドするとピンに向かって転がった。

 「ナイスオン!」絵里香が大きな声で叫んだ。

 秀樹は唇を軽く噛み、はにかんだ顔を浮かべると高々と右手を挙げた。

 絵里香は、フェアーウェイを颯爽と歩いてくる秀樹を眩しそうに見つめた。

 「あの時と同じだね……」

 近寄ってきた秀樹に笑顔を浮かべて声を掛けた。

 「どうせ、バカだなぁと思ってるんだろ……」

 「まぁね…… 秀樹は全く変わらないんだね」

 「俺さ、失敗するのはイイんだけど、妥協するのはイヤなんだよね…… せめてゴルフくらいはさ……」

 秀樹はそのあとに何かを言おうとしたが、そこで話を止めた。


 最終ホールのグリーン上、秀樹が最後のパットを沈めると、絵里香は拳を突き出した。

 秀樹は一瞬、固まったが、笑顔を作って拳を合わせた。

 「おつかれさま」二人は拳を開いて、がっちりと握手を交わした。

 先に手を離したのは、秀樹のほうだった。

 絵里香の手は、そのまま宙に浮いていた。

 その手を見つめていた秀樹が、悪戯っぽい笑顔を浮かべて口を開いた。

 「また、一緒に回ってやってもいいぜ」

 「もう…… 回らないよ……」

 絵里香の笑顔は、寂しそうだった。

 「そっか…… じゃぁ、彼氏とうまくやれよ」

 秀樹の優しい笑顔が絵里香の胸を締め付けた。

 「そっちも、早く彼女を作りなさいよ」

 絵里香は言葉を搾り出した。

 「ムリだな……俺は彼女を作るなら、絵里香を超えるくらいイイ女じゃないと駄目なんだ…… 妥協したくないからさ…… そんな女、なかなかいないからな」


 秀樹の視線が、遠くの空を漂う。

 秀樹のひと言に、絵里香の感情は激しく乱れた。

 二人は肩を並べてクラブハウスへと歩き、秀樹は俯いている絵里香の背中をやさしく2度叩いた。絵里香は、叩かれた背中に懐かしい温かみを感じた。


 キャディーバッグを積み終えた二台の車が、ゴルフ場を後にする。

 太陽は、西に傾き始めていた。

 「気をつけて帰れよ……」秀樹は、車の中から手を振った。

 「元気でね」絵里香は、ドアの前に立って秀樹を見送った。

 秀樹が、クラクションを2回鳴らして走り去っていく様子を、絵里香はずっと見つめていた。

 秀樹の車が見えなくなると、車に乗り込んでハンドルに顔を伏せた。

 涙がじわじわと湧きあがってくる。一日中、ずっと溜めこんでいたものが溢れ出してきたのだ。


 太陽の光が車の窓から差し込んでいた。

 ハンドルから顔をあげ、西日に目を細めると、秀樹との思い出が蘇ってきた。


 秀樹がミスをして優勝を逃したミックスダブルスのこと……

 フジロックで好きなアーティストを追いかけて走り回った時のこと……

 ガード下の居酒屋で、朝まで夢を語り明かした時のこと……

 言いたい事を言いあって大喧嘩した挙句、ボロボロと涙を流して、抱き合った時のこと……

 別れの日、秀樹の部屋から去ろうとしたら、彼の背中が小刻みに震えていたこと……

 次から次へと思い出が浮かんできた。


 楽しい思い出ばかりじゃないけれど、お互い一生懸命だったなと振り返る事が出来る。お互いの思いを真っ直ぐに伝えて、それが噛み合う時もあれば、ぶつかる時もあった。ぶつかる時のほうが多かったのかもしれない。

 そんな時に、うまく折り合う事ができれば良かったのだが、そのやり方が分からなかった。

 今の私はどうなんだろう……


 絵里香は目尻の涙を指で拭うと、一度深呼吸をした。

 その瞬間、スマートフォンの着信音が響く、相手は秀樹だった。

 しばらく画面をみつめていたら、頬が緩んでいる自分に気づいた。

 「どういうつもりで電話してきたんだろう……」

 どこかで電話をしている秀樹の姿を想像したら、何故だか可笑しくなってきた。


 着信音は鳴り止んだ。

 絵里香は、秀樹の名前が表示されている画面に向かって呟いた。

 「早く彼女、作りなよ…… そうしないと……」

 そこまで言って、口を閉ざす。


 西日を受けて輝いている絵里香の車がゴルフ場から走り出した。


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