海へ駆ける風

入ヶ岳愁

海へ駆ける風

 走るなら校舎の屋上がいい。埃っぽいグランドより、正門前のざらざらしたアスファルトの坂よりも、わたしはここがいい。冷たくて、固くて、真っ暗で、何より高いのが気持ちよかった。わたしと煙は高いところが好きだと誰かも言っていた。

 壁やフェンスすら無い屋上を、夏の夜の蒸した風が勢いよく通り抜けていく。ここから一キロメートルほど南にある、あの海まで還っていく風だ。低く唸るような風鳴りは、深夜の屋上に忍び込んだわたしを咎めているようにも聞こえた。

 学校がある日の昼休みや放課後になら、これまでも何度となくこのフェンスの無い屋上まで来たことがあった。もちろん生徒の立ち入りは禁じられていたが、だいぶ前に誰かがやったんだろう、屋上へ通じる梯子の鍵はこっそり壊されている。わたしはここでお弁当を食べたり昼寝したり、中でも陸上部で走るのに嫌気が差した日には、代わりにここで飽きるまでシャトルランをして過ごした。

 でも夏休みの、それも深夜に屋上へ来たのは今日がまだ二回目だ。一度目は二週間前の土曜日で、ペルセウス座流星群が見えるはずの夜だった。


 わたしはその夜、町で一番暗くて一人きりになれる場所を探して、自転車を漕いではるばる深夜の学校まで行った。正門は閉じていたが、通用門は当然のように開いていて、宿直の先生がいるような様子もない。最初はグランドで星を見るつもりでいたが、呆れたことにあちこちにはもうカップルを含めた何組もの生徒らしき影が座り込んでいて、わたしは半ば追い立てられるようにして屋上まで上った。

 夜の校舎の屋上は、昼間と風の流れが真逆になる。それだけでわたしには世界そのものが反転したかのようだった。それまでに通ってきた校舎が怪談っぽい真夜中の不気味さを湛えていただけに、梯子を上った先で浴びる月光が神秘的なまでに感じられた。給水塔のドーム型がコンクリートに淡い影を落として、足元を這うように伸びた凹みだらけのパイプさえも、昼間見た時とはまるで違った物のように見える。

 わたしは流星群のことなどすぐにどうでもよくなって、ジャージ姿のまま夢中で夜の屋上を駆けた。ぐるぐると大きな楕円を描くように走って身体をあたためた後、わたしは屋上の北の端でクラウチングスタートの構えを取った。スターティングブロックの代わりに固定されたパイプへ片足を掛ける。ホイッスルを鳴らす顧問の先生はいない。時間を記録する後輩部員もいない。白線で引いたトラックもない。ただ、走るだけ。

 バン、と頭の中で火花が散る。パイプを蹴り込む勢いのままに上体を起こす。砂粒一つないコンクリートの上を、深夜の屋上をわたしの影が真ん中から切り裂いていく。以前に歩幅で測ったことがある。北端のパイプから走り始めた場合、給水塔の真横が大体二○メートル、そして南の落ちるか落ちないかというギリギリが、ちょうど五○メートル。

 調子は悪くない。肺を満たす夜気が心地よい。給水塔が視界の左に見切れた時、わたしは背中に一際強く風を感じた。いつも吹く向かい風とは真逆の追い風。海へ吹く風、わたしを海へ連れ去っていこうとする風。その分だけわたしは速くなる。全身が軽くなっていくような感覚、どこまでだって走っていける気がする。でも、だけど。

 走り抜けたゴールラインの先には、闇。

 わたしはトップスピードに入る寸前のところで両脚に痛いほど急ブレーキを掛けた。バランスを崩した身体が後ろ向きにぐるりと倒れ込んで、野球部員の男子がするようなスライディングの姿勢でわたしは無理矢理止まった。

 このまま肋骨ごと弾け飛んでしまいそうな動悸と、過呼吸寸前の息切れ。グランドで二○○メートル走った時にだってこんなことにはならない。お尻と右の手の平が痛くて、見ると右手の方は赤く擦りむいていた。

 ため息と一緒に涙が出た。鼻を啜る。怖かった。校舎の地平線の先に待つ、あの昏い闇が恐ろしかった。でもそれ以上に、途中でブレーキを掛けてしまった自分の脚が憎かった。誰にも邪魔されずに、めいっぱい走りたくてここまで上がってきたはずなのに。悔しくて、わたしはしゃくり上げて泣いた。


 あれから二週間。一度の登校日を挟んで、夏休み最後の土曜日だった。天気は曇り、前よりも暗い屋上に座って、わたしは家で作ってきたスポーツドリンクを水筒から直に口に入れた。

 今日は初めから走る気で来たから、服装もジャージじゃなくて走りやすいウェアを着てきた。夜風がむき出しの腕を撫でると少しだけ寒い。走り始めればすぐに気にならなくなるだろう。

 ぐるぐると、細長い長方形の辺をなぞるようにアップをする。呼吸のペースが整っていくにつれ、身体も石炭を詰め込まれたようにお腹の奥の方から熱を持つ。調子は、いい。わたしは校舎の北の端、凹みだらけのパイプで出来たスターティングブロックへと向かった。

 クラウチングスタートに構えた。おお、と風が吠える。わたしに語りかけてくる。それってわたしに一緒に来てほしいの? それとも家へ帰ってほしい? どっちにしたって、風の言うことなんか聞くものか。

 膝を地面から離して腰を上げる。バン、と火花が散ってわたしは走り出す。今日は初めから容赦のない追い風だ。海へ吹く風、わたしを海まで連れて行ってくれる風。わたしの目は下を見ていない。前へ、そのずっと先へ遠く町の向こうに見えるはずの海、今は暗くて波の煌めきさえもこの目には映らないけれど、必ずそこにある海。わたしの帰る家とは真反対の方角にあって、わたしの還っていくべき場所。

 走る。ただ走る、給水塔を置き去りにして。これまでに無いほど調子がいい。ベストが出ている自信はある。タイムを記録するのはわたしだけだ。脚の筋肉が喜びに悲鳴を上げる。髪の毛が逆立つ。身体が浮かび上がる。トップスピードなんてとうに超えた気がする。ゴールラインはすぐ近くに、風がわたしをさらって一息にその向こうへ、暗い闇へ、海へ、海へ、あの海へ!

 わたしは走り抜けた。

 足元から固い感触が失われた後も、もう二三歩は空を踏みしめて駆けていたんじゃないかと思う。それでもすぐに、初めは内臓が、次に腰が、絞り上げられた喉が、自分が空を落下していることに気付き始めた。

 視界が反転したような気がする。実際目は瞑っていた。さっきまでわたしを追い越していたはずの風が、今度は身体の下からとめどなく吹き込んでくる。両腕が何もない空を掴んで、右足が左のふくらはぎを蹴り上げた。二秒か、三秒か。最後の息を吸う間もなくわたしは校舎の四階分を真っ逆さまに落ちていって、

 地鳴りのようなとんでもない水音と共に、わたしの身体は生徒のいないプールの真ん中に頭から飛び込んだ。

 全身をバットでめちゃくちゃに殴られたような痛みが襲って、悶絶したわたしの口へ大量の水が流れ込んでくる。前の登校日以来一週間以上放置されてきた水、屋上から見た時は綺麗に見えたけど、なんだか嫌な臭いがする。わたしは本気で死にそうになりながら、水を掻いて何とかプールサイドまで泳ぎ着いた。梯子の支柱に肘を乗せて、深くため息をつく。動悸と息切れは前の時以上で、気を抜けばその場に倒れ込んでしまいそうだった。ウェアもびしょ濡れだ。

 まだ水を滴らせている前髪を手でかき分けて、ざらついたプールの壁を背にわたしは夜空を眺めてみた。ここからじゃ曇った空の先に暗い海なんか全然見えなくて、わたしは声を上げて笑った。

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