第四話:夏「消えたエリートとマッシュポテト」後編

 男は、職場で帰り支度をしていた。いら立ちながら帰り支度をしていた。


 いら立っている理由はみっつある。


 いら立ちのひとつめは仕事だ。絶対に需要が期待できる、テイクアウト専門のフードサービスの企画を部長に却下された。部長は、本当に見る目がない。


 いら立ちのふたつめも、やはり仕事だ。二時間ほど残業を強いられた。部長は管理職の仕事が出来ない。平気で明日朝イチの仕事を定時直前に放り込んでくる。まあ、たいした仕事ではないので小一時間で出来てしまうのだが、その小一時間の仕事を部長がやっている姿を、今まで見た事がない。

 部長職の今ならまだ解る、ただの平社員だった時ですら、やっている姿を見た事がない。


 男は仕事が出来ない部長に対するいら立ちを落ち着けるためだけに、定時開けに部長がそそくさと帰った後、行きつけの喫茶店でブラックコーヒーを飲み、たっぷり一時間つかってストレスを削ぎ落とした。


 そして会社に戻って頼まれた仕事をとっとと片付けた。

 表計算ソフトをさえまともにあつかえれば、小一時間で済む仕事をとっとと片付けた。

 結果、表計算ソフトをまともにあつかえないから、小一時間で済む仕事を、入社以来、かたくなに拒否し続けている部長へのいら立ちがますます大きくなった。


 いら立ちの最後のひとつは、安楽庵あんらくあん探偵事務所へ依頼している案件の期日が過ぎているからだ、依頼したのは七月二十一日の日曜日。今日は八月五日の月曜日。昨日で、助手の女が申し出た二週間を過ぎてしまっていた。


 男の名前は、滝本たきもとショウゴ。


 先々週の日曜日に、『占いの館 安楽椅子あんらくいす』の前で、首をかしげていた男だった。


 滝本たきもとショウゴは苛々いらいらしながら帰り支度を始めていると、胸元が震えた。スーツの内ポケットが震えた。スマホに着信があったのだ。

 滝本たきもとショウゴは、スーツの内ポケットからスマホを取り出して画面をみた。つい最近、アドレスに登録した、見覚えのある電話番号だった。


「もしもし」


 電話越しに、聞き慣れない男の声が聞こえてきた。


(お世話になっております。わたくし、安楽庵あんらくあん 探偵事務所の癸生川けぶかわと申します。こちら、滝本たきもと様のお電話でしょうか?)


「はい」


(大変お待たせいたしました。丁番ちょうつがいよりうけたまっておりました、調査報告書が完成いたしました。遅くなってしまい誠に申し訳ありません。ご都合の良い日にお越し願えますか?)


「できるだけ早くうかがいたいのですが……例えば、今日でも大丈夫ですか?」


(一応、営業時間は七時までなのですが、わたくしも、そして所長の安楽庵あんらくあんも、十二時近くまで事務所におりますので、滝本たきもと様のご都合がよろしければ……)


「可能であれば、お願いします。営業時間外にうかがう形となり、大変恐縮ですが」


(いえ、こちらこそ申し訳ありません。本来であれば、先週中にご連絡差し上げるのが筋でございますので。到着のお時間をお聞きしてもよろしいですか?)


「今からですと、八時前には……」


かしこまりました。わたくし癸生川けぶかわと、所長の安楽庵あんらくあんで、お待ちしております)


「承知しました。よろしくお願いいたします」


 電話を切ると、滝本たきもとショウゴはいら立ちが随分ずいぶんと収まっていた。電話越しの癸生川けぶかわという人物は、随分ずいぶんと仕事ができる。そのことを電話越しの語り口が物語っていた。


 滝本たきもとショウゴは会社を出た。もう午後の七時をすっかり回っているのに、日もすっかりと暮れきったのに、八月の夜はうんざりするほど暑かった。

 スーツ姿の滝本たきもとショウゴは、額に伝う汗をハンカチでぬぐいながら、まるうち線に続く階段を降りて行った。


 滝本たきもとショウゴは、まるうち線に乗り込み、終点の新宿しんじゅく駅で下車をした。

 そしてタクシーを拾うと、交通の便がすこぶる悪い、安楽庵あんらくあん探偵事務所の入った雑居ビルの名前と住所を告げた。



 カランコロンカラン


 滝本たきもとショウゴが、占いの館 安楽椅子あんらくいすの看板を掲げた安楽庵あんらくあん探偵事務所のドアを押すと、ドアは喫茶店のような音をたてて開いた。

 ドアの先では、黒いスーツで、短髪を整髪料でテカテカになでつけた男が、背筋を伸ばして待っていた。


「お待ちしておりました。滝本たきもと様」


 目が会うと、男は流れるようにおじぎをした。四十分ほど前に、電話をしてきた癸生川けぶかわだろう。


「お話は所長室で……」


 そう言うと、癸生川けぶかわはスタスタを歩き始めた。

 滝本たきもとショウゴは、癸生川けぶかわの後をついて行き、みっつのパーテーションで区切られた、占いの館の奥にあるドアの前で止まった。


 癸生川けぶかわは、ドアをノックした。


「イツキです。滝本たきもと様がお見えになられました」


「了解。了解。了解」


 ドアの向こうから、珍妙な返答があった。珍妙な返答だったが、つややかでとても魅力的な声だった。


 ガチャリ


 癸生川けぶかわがドアを開けると、滝本たきもとショウゴの目の前に、息を飲むほどの美人が立っていた。グレーのストライプのスーツに身を包み、腰まであろうかと言う黒い長髪をひっつめにして、銀の細フレームのメガネをかけていた。


 銀の細フレームのメガネの美人は、名刺を出した。


安楽庵あんらくあん探偵事務所、所長の安楽庵あんらくあんキコです」


 滝本たきもとショウゴは、名刺を受け取ると、冗談みたいな名前に目を疑った。名刺には、安楽庵あんらくあん 椅子いすと書いてあった。親の常識を疑う。


安楽庵あんらくあん探偵事務所、総務の癸生川けぶかわイツキです」


 滝本たきもとショウゴは、癸生川けぶかわイツキの名刺も受け取った。マナー通り、常識的に、役職順に、所長の安楽庵あんらくあんキコのもとで働く、総務の癸生川けぶかわイツキの名刺を受け取った。名刺には、癸生川けぶかわいつきと、常識的な名前が書かれてあった。


「では、こちらに」


 滝本たきもとショウゴは、案内された応接椅子に座ると、正面に安楽庵あんらくあんキコが座った。癸生川けぶかわイツキは、その下座に座った。

 滝本たきもとショウゴは、名刺をテーブルに置くと、改めて安楽庵あんらくあんキコの美貌びぼうに見入っていた。


 陶器のように白い肌に映える艶やかに長い黒髪。切れ長な瞳。銀の細フレームのメガネが乗った主張しない鼻に、同じく主張しない唇。そして最も驚いたのは、安楽庵あんらくあんキコの年齢が全くわからない事だった。年齢不詳だった。

 化粧っ気のない顔は、十代の少女のように見える。だが、その知的な佇まいは、とても十代のそれではない。自分と同じ、いや、考えられないが実はもっと上なのかもしれない。

 目の前の女性は、年齢不詳の、絶世の美人だった。


「それでは早速調査報告を……あ、そうか、コトリちゃんいないんだ……先生、申し訳ないですが、飲み物を用意していただけませんか? 先生の鑑定かんていの前に、調査報告を済ましておきますので」


 癸生川けぶかわイツキが言うと、安楽庵あんらくあんキコは「にやっ」と笑った。そして、メガネを「スチャ」と手にかけて、滝本たきもとショウゴに質問をした。


「コーヒー、紅茶、緑茶、どれがいい? 残念ながらお酢は出さない! 絶対出さない!! 出さない!!!」


 滝本たきもとショウゴは、おもむろに飛んできた珍妙な質問に言葉を失った。言葉を失っていると、癸生川けぶかわイツキが冷静に質問に答えた。


「先生、紅茶をふたつお願いします。あ、砂糖とミルクは四つずつ」


「了解。了解。了解」


 癸生川けぶかわイツキは、務めて冷静に甘党であることを告白すると、安楽庵あんらくあんキコは、応接椅子から立ち上がって、所長室を出ていった。

 癸生川けぶかわイツキはその姿を見送ると、流れるように調査結果をまとめたバインダーを滝本たきもとショウゴに手渡した。


「こちらが調査報告書です。ご依頼通り、事細かに失踪当時の様子を明記しております。滝本たきもと様のご想像どおり、凸凹凸凹ピーーーさんを、列車に突き落としたのは、あなたの上司です。

 あなたの務める会社で、部長職をやっておられる凹凸凸凹ブーーーさんです」


 滝本たきもとショウゴは興奮した。興奮して叫んだ!


「ありがとうございます! これを証拠として突き出せば、凹凸凸凹ブーーーを、先輩殺しの犯人として警察に突き出せるんですね!!」


 だが、癸生川けぶかわイツキは務めて冷静に、滝本たきもとショウゴの言葉を否定した。


「いえ……この証拠だけでは警察は動かないと思います。物証がない。凸凹凸凹ピーーーさんの死体がありません。なぜなら、凸凹凸凹ピーーーさんはご存命だからです」


「そんなバカな! 列車にかれたんですよ! 生きているはずは……」


「そうです。ですから、異世界でご存命です」


 癸生川けぶかわイツキは務めて冷静に、狼狽ろうばいする滝本たきもとショウゴの言葉を制して話を続けた。


凸凹凸凹ピーーーさんは、二〇一三年十一月四日、午後八時四十分四十秒、凹凸凸凹ブーーーさんにホームに突き落とされて、こちらの世界で死亡しました。

 そして、異世界になさっています。この少女は、凸凹凸凹ピーーーさんが転生した姿です」


 そう言うと、癸生川けぶかわイツキは新聞の切り抜きを差し出した。白く透き通った肌を持つ金髪碧眼きんぱつそうがんの少女が、可愛らしくはにかみながら微笑ほほえんでいた。


「期日ギリギリまで接触をこころみたのですが、運悪く軍の最高機密ミッションにおもむいており……接触はかないませんでした。誠に申しわけありません」


 何を言ってるんだ? ちょっとなにいってるか、わからない。


 ドガーン!!


 滝本たきもとショウゴが言葉を失い困惑していると、背中から大きな音が聞こえた。振り向くと、お盆を持った安楽庵あんらくあんキコが、ドアを勢いよく蹴り飛ばしていた。

 お盆の上には、マグカップがみっつ、そして、大量のスティックシュガーと使い切りのミルクが乗っかっていた。


日柱にっちゅう庚辰かのえたつ。土中の金。脳ある鷹。魁罡かいごう。爪を隠す。土中に爪を隠す。見た目は可憐かれん。乙女。だが中身は辛辣しんらつ。男を男とも思わない。ぶははっ! そりゃあそう! 中身、男性! アラフォー! アラフォー!」


 安楽庵あんらくあんキコは、コーヒーをテーブルに置きながら、まるでキャラクターの設定資料を読み上げるかのように、新聞の切り抜きに写った少女の人物評を行った。そしてとても失礼に、正体がアラフォー男性であることに爆笑した。


中心星ちゅうしんせい偏官へんかん。自分自身を攻撃する。犠牲にする。土にもぐるも蔵干ぞうかんひのえ。しかもふたつ。本人は土に潜ったつもりでも、潜り過ぎて地面を突き破る。反対側から突き破って空を飛ぶ。飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで回って回って回って回って回ってまわる。八面六臂はちめんろっぴの大活躍」


 安楽庵あんらくあんキコは、自分の席に置いたコーヒーに、冷静に淀みなく、砂糖とミルクをダバダバと入れながら、まるでキャラクターの設定資料を読み上げるかのように、先輩、凸凹凸凹ピーーーの人物評を行った。とても良い人物評を行った。


 そして、安楽庵あんらくあんキコは、満足そうにうなづいた。自分の仕事は終わったと言わんばかりに、「むっふー」と息を吐きながら、得意げに胸を張った。スレンダーな胸を貼って、砂糖とミルクたっぷりの、あまっあまのコーヒーをグビグビと飲み始めた。


 満足そうな安楽庵あんらくあんキコの代わりに、癸生川けぶかわイツキが流れるように話を引き継いだ。


凸凹凸凹ピーーーさんは、異世界で英雄となり、西欧諸国を所狭ところせましと跳び回っておいでです。そう、比喩ひゆではなく本当に飛び回ってらっしゃいます。

 わたくしも接触を試みましたが、残念ながら失敗に終わりました。ですから止むを得ず、新聞の切り抜きを持ち帰った次第です。ギリギリまで粘ってはみたのですが、力及ちからおよびませんでした。誠に申し訳ありません」


 滝本たきもとショウゴは理解できなかった。安楽庵あんらくあんキコの話は、初めから最後まで全て理解できなかった。

 癸生川けぶかわイツキの話も、半分以上理解できなかった。


 そして、いら立っていた。先輩を不当にホームから突き落とし、不当に会社で成り上がった、能無し部長の凹凸凸凹ブーーーを警察に突き出てない事実にいら立っていた。


「失礼ですけど、滝本たきもと様の事も占わせて戴きました。お仕事がいささか不調なご様子。心中お察しいたします。

 しかしながら、直属の上司をおとしいれようと企むのは、感心できかねます。それに、上司の過ちが事実であったと言えど、残念ながらお渡しした証拠だけでは、警察は動かないでしょう。そしてなによりこれは滝本たきもと様の……」


私怨しえん嫉妬しっと逆恨さかうらみ」


 癸生川けぶかわイツキの話に、おもむろに安楽庵あんらくあんキコが割り込んだ。


「ちょ! 先生、余計な事、言わないでください!! 申し訳ありません。お気を悪くしましたよね?」


 癸生川けぶかわイツキが、慎重に繊細せんさいに、オブラートに包もうとした事を、安楽庵あんらくあんキコはアッサリと言ってのけた。

 そしてその言葉に、滝本たきもとショウゴは、バッサリと斬り付けられた。

 痛いところをバッサリやられた。だが、とてもスッキリした気分になった。


 スッキリした滝本たきもとショウゴは、訥々とつとつと話始めた。


「……私怨しえん、その通りだと思います。私は……部長に嫉妬しっとしているのだと思います。部長は確かに人を殺そうとした。ですが先輩は異世界で生きている。それが事実です。

 そして、部長は確かに仕事ができない。ですが、できないなりに必死で自分をアピールして、まかりなりにも部長にまで昇進した人だ。

 部長は、汚い手段で肩書きを手に入れた。でも、その肩書きは悔しいけど本物です。

 私は、部長に企画をにぎつぶされたことを、逆恨みしていたんだと思います。だから今更いまさらになって、先輩を突き落とした事実を突きつけておとしれようとした……完全な逆恨さかうらみです」


「わかればいい!」


 安楽庵あんらくあんキコは、「むっふー」と息を吐きながら、得意げに胸を張った。スレンダーな胸を張った。


「……先生、少し黙っていただけませんか?」


「いえ、事実ですから。自分の事を危うく見失うところでした」

「わかればいい!」

「黙っていただけませんか!?」


 滝本たきもとショウゴは、安楽庵あんらくあんキコの口を必死でふさごうとする癸生川けぶかわイツキを見て、声を出して笑った。久々に声を出して笑った。


 スッキリした滝本たきもとショウゴは、マグカップをもってコーヒーをすすった。お酢が一切入っていない、ブラックコーヒを飲んだ。

 びっくりするほど不味まずかった。絶望的な苦味の中にほのかに感じる雑巾ぞうきんしぼり汁のような刳味えぐみ。コーヒー通を自認している滝本たきもとショウゴが飲んだ中でも、間違いなく生涯最低のブラックコーヒーだった。


 ガチャリ


「遅くなりました!」


 滝本たきもとショウゴが、コーヒーに砂糖とミルクをダバダバと入れていると、背中からドアの開く音が聞こえた。振り向くと、センスの良い私服を着た丁番ちょうつがいコトリが、大きなトートバックを肩から下げて、ものすごい早歩きで部屋の中に入ってきた。

 そして、滝本たきもとショウゴと目が会うと、ニコニコしながらおじぎした。


滝本たきもと様、いらしてたんですね! 大急ぎで着替えて、店番をタクミさんと変わります! なんや、あっちの世界で食べられとる、料理も作ってくれとる思います。少々お待ちください!」


 そう言うと、丁番ちょうつがいコトリは大急ぎで非常階段のドアを開けて出ていった。



 ゴンゴン。


 三分ほど経っただろうか、非常階段のドアから音がした。


 流れるように癸生川けぶかわイツキが非常階段のドアを開けると、両手にクローシュ……西洋料理を運ぶ、半ドーム型の金属製の覆いを被せたトレイを持った、和食の調理白衣着た大男が現れた。


「お待たせしました」


 大男は木訥ぼくとつと一言だけ答えると、ひとつのクローシェをエグゼクティブデスクの上に置き、もうひとつのクローシェを滝本たきもとの目の前にあるテーブルに置いて開いた。


 クローシェの中にあるそれは、たちどころに素敵なたおやかな匂いを巻き上げた。

 料理は大量のマッシュポテトだった。ドイツ料理だった。

 大男は、いつのまにか癸生川けぶかわイツキが用意した取り皿を受け取ると、マッシュポテトを三人分に取り分けた。


 滝本たきもとショウゴは、銀のスプーンでマッシュポテトを「すっ」とすくって、そのまま食べた。旨かった。食にはあまり興味のない滝本たきもとショウゴだが、そのマッシュポテトはとてつもなく旨かった。滋味あふれるとはきっとこう言った料理のことを言うのだろう。

 滝本たきもとショウゴはマッシュポテトを夢中で食べた。そしてあまりにも夢中になったものだから、むせてしまった。慌てて、あまっあまのコーヒーをグビグビと飲んだ。絶望的な味のグラックコーヒーは、どうにかこうにか飲める味になっていた……だが、ブラックコーヒーが飲みたい。このマッシュポテトには、美味しいブラックコーヒーを合わせたい。


 そう思っていた矢先、コーヒーのかぐしい匂いが鼻腔びこうをついた。癸生川けぶかわイツキが、流れるようにコーヒーを滝本たきもとショウゴの前に置いた。


「八階でビストロの店番をしている丁番ちょうつがいに、コーヒーをれなおしてもらいました。あの豆は、丁番ちょうつがい以外には取り扱いが難しいらしく……失礼いたしました」


 滝本たきもとショウゴは、丁番ちょうつがいコトリの煎れたコーヒーを飲んだ。

 前回は時間が経ちすぎて、少しだけ酸味が立ち始めたコーヒーだったが、やはりコーヒーはれたてに限る。滝本たきもとショウゴは生涯最高のブラックコーヒーを、最高のタイミングで味わった。ストレスが、ほどけるように溶けていくのを感じた。


「さすがにマッシュポテトだけでは忍びないので……こちらも」


 大男は、エグゼクティブデスクに置いてあった、もうひとつのクローシェをテーブルに置いて開けた。

 四角い形をした小さなハンバーガーが、うずだかく、そして規則正しく積み上がっていた。そして、脇には小さな瓶詰めが置かれてあった。


「スライダーです。ハンバーガーの原型と言われています。西暦一九二〇年頃、アメリカ合衆国のドイツ系移民がフィンガーフードとして作ったのが起源です。最近は日本でも流行のきざしがありますね。いろいろな味を少量ずつ楽しめるのが良い。今回は、三種類のスライダーをご用意しました」


 滝本たきもとショウゴは、勧められるままに、三種類のスライダーを食べた。ビーフパティとピクルスを挟んだスライダー。照り焼きソースのポークパティを挟んだスライダー。そして素っ気なく、ただじゃがいもを挟んだだけのスライダー。驚くべきことに一番美味しかったのは、じゃがいもスライダーだった。今まで、一度も食べたことない『知らない味』だった。


「こんなこと言うのは、失礼かもしれませんが、じゃがいもスライダーが一番美味しいですね……いや、私は味覚に自信がないですから、目新しく感じるだけかもしれませんが」


 滝本たきもとショウゴは、おずおずと、大男に話した。滝本たきもとショウゴは気づいたからだ。大男が、天才料理人、癸生川けぶかわタクミだと気づいてしまったからだ。

 滝本たきもとショウゴの心配をよそに、癸生川けぶかわタクミは、滝本たきもとショウゴの感想に、目を細めて喜んだ。


「良かった。私もじゃがいもスライダーが一番の自信作です。シンプルだが、本当に美味しい。調理も簡単で実に合理的です」


 癸生川けぶかわタクミは話を続けた。


「このじゃがいもは、異世界におもむいた、私の弟、癸生川けぶかわイツキが持ち帰った異世界のじゃがいもです。新芽に強烈な毒性があり、下処理が少々厄介ですが、それさえやってしまえば実に素晴らしい食材です。煮潰につぶしして良し、焼いても良し、そして特に面白いのがこちらです」


 そう言うと、癸生川けぶかわタクミは、スライダーの山の横にある、小さな瓶詰めを手にとって開けた。テーブルは、立ち所に発酵した強い酸味に包まれた。


「? ザワークラウト……ですか?」


「ザワークラウトをご存知でしたか。ですがこれはクラウト……つまりキャベツではありません。ポテトです。異世界のじゃがいもを瓶詰めにして、しばらく放置しただけの料理、ザワーポテトです。異世界で売っていたものを、イツキに持ち帰って貰いました」


 癸生川けぶかわタクミが小皿に取り分けたれたそれは、明らかにキャベツのザワークラウトだった。匂いも、食感も、味も、完全にキャベツのザワークラウトのそれだった。


「私は、今までこれほど便利な食材に出会った事はありません。調理工程を変えるだけで、ここまで応用が効くなんて。こんな合理的なじゃがいもに出会った事はありません」


「毒があるけど合理的。八面六臂はちめんろっぴの大活躍。お見事、お見事、お見事」


 安楽庵あんらくあんキコが感想を被せた。その感想に、天才料理人、癸生川けぶかわタクミの弟、癸生川けぶかわイツキが口を挟んだ。


「先生も、このザワーポテト食べません? 結構イケますよ!」


「酸っぱいのはイヤ。イヤ。イヤ。絶対」


 安楽庵あんらくあんキコはゲンナリしながら首を振った。 


 応接間の食卓に、笑顔の花が咲いた。


 ・

 ・

 ・


 滝本たきもとショウゴは、占いの館の入り口にの先にある、エレベーターのボタンを押した。

 占いの館の入り口では、天才料理人、癸生川けぶかわタクミの実弟、癸生川けぶかわイツキが背筋を伸ばして立っていた。


「では、お代は明日中に振り込みますので」


「期日に間に合っておりませんので……おこころづけを戴ければ構いません。あと、少しよろしいですか?」


「なんでしょう?」


「あなたの企画にとても興味があります。是非、融資をしたいので、独立をお考えになりませんか?」


 そういうと、癸生川けぶかわ樹は、流れるように胸ポケットから名刺を取り出した。

 名刺には、癸生川けぶかわイツキと書かれてあった。そして、誰もが知る財閥系企業と、目を疑う役職が記されてあった。


「腕の良い料理人もご紹介できますよ」


「! まさか! 癸生川けぶかわタクミが私の企画の監修を!? それは願ってもない!!」


「……いえ、兄は非合理が服を着た人間です。損益などに興味を示さない。ご紹介する料理人は、確かな腕と、確かな経営センス、清濁せいだく併せ持つ逸材です。きっとメニュー開発にたずさわってくれるでしょう」


 そう言うと、癸生川けぶかわイツキは、流れるようにスマホを取り出して画面を見せた。スマホに写っていたのは、ひとつ星の店だ。小さく、そしてカジュアルな居酒屋にも関わらず、異例のひとつ星を獲得した、今注目の店だった。


 ピーン


 古い作りのエレベーターが、きしみながらドアを開けた。癸生川けぶかわイツキは、頭を下げながらつぶやいた。表情はうかがいい知る事はできなかった。


「興味がおありでしたら、是非そちらの名刺の電話番号にご一報を」


「はい! 前向きに検討いたします」


 滝本たきもとショウゴは興奮しながらエネベーターで一階まで降りた。自分の企画を高くかわれて大企業の融資まで受けれるのだ。興奮しないわけがない。

 滝本たきもとショウゴは興奮しながらタクシーをつかまえて、興奮しながら行き先の新宿しんじゅく駅を告げると、タクシーの中で首をひねった。不思議なことに気がついたからだ。

 天才料理人、癸生川けぶかわタクミの実弟、癸生川けぶかわイツキは、なぜ、社外秘の私の企画を知っているのだろう……。



_________________________


幕間劇


 こんにちは。丁番ちょうつがいコトリです。

 ここまで、お読みいただきありがとうございます。めっちゃうれしいです。


 なんや訳わからん話ですみません。

 あと、イツキさんが、なんや、めっちゃ胡散うさん臭いけど、これだけは言うときます。


「イツキさんは、胡散うさん臭いけど悪い人やありません」


 優しい人を騙すなんてコスイ事は絶対せぇへんから、そこんとこは安心してください。


 あ、あとこれも大事な話やから、最後にうときます!


【この小説はフィクションです】

*実在の人物や団体、並びに実在の小説やマンガ、アニメーションなどとは関係ありません。


 そこんとこ、キッパリはっきりうときます。何卒、よろしくお願いします。

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