女の話

 携帯電話を、こんなに必死に見つめたことはない。

ピリリリリリリリリリリリリ

無機質な音が狭い私の部屋に響く。彼のお母さんから。

「もしもし…。」

ああ、だめだったんだ。電話越しに、お義母さんが鼻をすするのが聞こえ、すぐに察する。

「あのね…。」

私は、電話を切り、そのまま携帯電話の電源も切った。彼女に、これ以上辛い思いをさせるのは、私の心が耐えられない。

 彼と初めて出会ったのは、高校2年生のときだった。私は、同級生に大した興味もなかったから、正直彼のこともクラスでよく騒いでいる男子という印象しかなかった。たしか、11月頃だったっけ。初めて彼が私に話しかけてきた。ほんとに申し訳ないことをしたと思っている。その時、アガサ・クリスティの名探偵になりきってて、クライマックス、犯人を追い詰めている時に話しかけられてしまった。現実に引き戻されたことにイラッとしちゃって(イラッとしたとは言えないけど) 、つい冷たく、

「今、いいとこなんです。」

とか何とか、言ってしまった。なんて最低な女なんだろう。それなのに、こんなやつに彼はそれから何度も話してかけてくれたっけ。私が彼を好きになるのに時間はかからなかった。年が明けたら付き合って、色んなところに行った。本屋巡りとか、図書館デートが多かったな。手を繋いだのも、キスも、肌を重ねたのも、初めては全部彼とだった。

 ピンポーン

チャイムが鳴って、顔を上げる。誰?こんな時間に。ドアを開ける。彼が立っている。いつものコートを着て。

「やあ。しばらくぶりだね。」

絶対、今とってもとっても変な顔をしているだろう。頭が情報過多でクラクラしてくる。

「あなたが、今…。どうして?だって…。」

亡くなったじゃない。そう言おうとしても喉が現実を拒んでしまる。

「いや、これ、返さないといけなかったから。じゃ、それだけ。さよなら。もう会えないからね。」

重たいトートバッグを玄関の床に置いて彼は背中を向ける。

「ちょ、ちょっと待って、ねえ。待って。逝かないで。」

頬が、湿る。

「全部、楽しかった。本も、君との毎日も。君は、人を変えられるだけの力がある。げんに、僕が、本の虫になって、出版社に勤めるまでになった。信じていい。」

声を出そうとしても、喉が開かない。

「じゃ、ほんとにさよなら。」

勝手に逝かないでよ。1人で喋ってばかり。階段を降りた彼を追って、道路に出た。彼の姿は、もうどこにも見えない。

 部屋に戻って、トートバッグを小さな本棚の前に持っていく。彼に貸していた、お気に入りの本たち。暫くは読めないなあ。

 一番上に、見慣れない本を見つけた。表紙には、

      君へ送る本

彼の字だ。少し斜めにいく癖のある彼の字。「君へ送る本」?

表紙を捲る。

1ページ目

2012年 11/15

初めて、本の虫の彼女に話しかけました。アガサ・クリスティは面白かったですか?

日記?彼が日記を付けていたなんて初めて知った。そのままペラペラと捲っていく。驚いた。私の事ばかりが書かれている。告白した日、初デート、初キス、初旅行、毎日のちょっとした私の言動。少し斜めの、でも読みやすい彼の字で。あるページで手が止まる。

902ページ目

2018年 7/14

残業続きで、もう2週間君に会えていない。家にも寝に帰るだけ。本当にごめん。ごめんなさい。

そう、この頃から、彼は調子が悪くなっていった。病院をすすめても、時間がないからと、行こうとしなかった。どんどん痩せて行く彼。そして昨日、彼は帰宅中に倒れた。もっと、強引に病院に連れて行っていればよかった。

 裏に、何か書いているのを見つけた。

君へ

もし、僕が死んだらね、これを幽霊になってでも君に届けに行きます。いつになるかはわからないけど、必ず行くよ。待っていてね。

僕と付き合ってくれてありがとう。君がいなかったら、僕は本の世界に触れない、生きた屍のような人生しか送れなかっただろうさ。

また、会う日までさようなら。

 

うん。こちらこそ、ありがとう。私も、君と過ごせて幸せだったな。


そして、女はトートバッグの中の本を本棚に直し始めた。

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君へ送る本 ちくわ @chikuwa290

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