君へ送る本
ちくわ
男の話
僕は、君のアパートへと急ぐ。君のアパートは坂の上だから息苦しいし、何より君から借りた本がたくさん入ったこのトートバッグの重さときたら尋常ではない。
今日、僕は君に本を返す。別れの言葉とともに。君は、何が何だか分からないだろう。泣くかもしれない。だから、君が新たな一歩を踏み出せるように本を送る。
君と出会ったのは高校2年のときだった。ずっと本を読んでいる、まったく口を開かない女子。そんな印象だった。教室に差し込む西日の中、本を読む君を美しいと思い始めたのはいつからだったんだろう。普段まったく本を読まない(読むとしたらチャラついた雑誌だ)僕が、君と話すために本を読むようになったんだよ。君の力は凄いよ。そうそう、勇気をだして初めて話しかけたとき、君はなんて言ったと思う?「今、いいとこなんです。犯人を追い詰めてるから、後にして。」
だって。アガサ・クリスティの名探偵になりきってたんだって、付き合いだしてから恥ずかしそうに教えてくれたよね。その時は、まあ、そりゃ、かなりショックだったよ。でも、今なら分かる。君は、本を読みながら登場人物になりきっちゃうんだよね。その癖、僕にもうつっちゃったよ。困るんだよね。僕も本を読みながら顔に感情ぜーんぶ出しちゃうんだね。あれ、それには気づいてなかったの?
着いてしまった。もう終わってしまう。僕は、君の家のチャイムを鳴らす。怪訝そうな顔の君が出てきた。
「やあ。しばらくぶりだね。」
だめだよ、そんな口を大きく開けて。だらしないよ。
「あなたが、今…。どうして?だって…。」
ああ、もう、知ってたんだね。
「いや、これ、返さないといけなかったから。じゃ、それだけ。さよなら。もう会えないからね。」
できる限り冷酷なフリをして僕は背を向ける。
「ちょ、ちょっと待って、ねえ。待って。いかないで。」
ああ、やめてくれ。今振り返ったら、だめだ。君の顔を見たら、だめだ。いけなくなる。君の泣き声が背中に突き刺さる。
「全部、楽しかった。本も、君との毎日も。君は、人を変えられるだけの力がある。げんに、僕が、本の虫になって、出版社に勤めるまでになった。信じていい。」
一人で喋ってごめん。最後に君の声が聞きたかったのに。
「じゃ、ほんとにさよなら。」
僕は、元彼女になってしまった君のアパートの階段を降りていく。気づいてくれるだろうか?こっそり紛らせた、僕の本。読んでくれるかな。
そして、男は口の中でこう呟く。
-さよなら。君に出会えてよかった。
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