ある男の孤独な戦い
桜木武士
仕事人の流儀
走る。逃げる。
男は走っていた。迫る危機から逃げていた。
黒いスーツに身を包んだ男が、夜の闇を駆ける。
一体どうしてこうなったのか。男は回想する。
男は今日も「仕事」を終え、帰途に就くはずだった。
雇い主の事務所を後にして、さらりと冷えた夜風に身を晒す。男が迫る危機の存在を感知したのは、ちょうどその時だった。
しかしその時点では、男は至って冷静だった。このぐらいの脅威なら、仕事柄、日常的に対峙している。
デパートの真ん中だろうと、走る電車の中だろうと、男はそれに対応できる自信があった。それだけの実績もあった。
男は落ち着き払って物陰に入り、スーツの懐を探り──その時、はじめて危機感を覚えた。
「!?」
そこにあるはずの手応えがなかったからだ。長年連れ添った男の相棒が。
「くそったれ」と吐き捨て、男はごくりと唾を飲み込む。
「走る、しかないな」
男は自らを嘲るように笑い、夜の闇へと身体を投げ出した。
「はぁ……はぁ……」
それからどれだけの時間が経っただろうか。男は全力で走っていたが、敗色が濃くなり始めているのは確かだった。
息が切れ、足取りが覚束ない。首筋を汗が伝う。
「うっ……」
男は腹部に強烈な痛みを感じて、うずくまった。見ると、自慢のスーツに内側から染みができていた。
「はは、クリーニング屋には、見せられなさそうだな……」
男はうすうす無駄だと分かっていながら、そこを手で強く押さえる。
「くそ……っ、長くは、保たねぇな……」
血がうまく回らず、男を目眩が襲う。
揺れる視界を落ち着かせるように、男は遠くに見える建物を睨んだ。その建物に着けば逃げ切れると知っているからだ。
しかし今はわずかな距離が万里の長城の如く、長く感じる。くそったれ。
男は同居し始めたばかりの彼女のことを思い出した。つくづく身の丈に合わない女だった。彼女が今の俺の体たらくを見たらどう思うだろうか。
きっと指を刺して笑うだろう、くそったれ。
「はぁ…はぁ……」
男はまた走る。走りながら考える。
本当に、どうしてこうなったのか。
どうして今日に限って「ストッピ」が胸ポケットにないのか。中学の時から連れ添ってくれた俺の相棒。
男は半泣きだった。腹部の痛みは強くなるばかりだった。スラックスの尻部分に内側から染みを作りながらも、決定的な崩壊は防いでいた。恥ずかしくてとてもクリーニング屋には見せられない。彼女が洗ってくれるはずもない。
そもそもの原因だって彼女ではないか。彼女が昨日出した刺身だ。
付き合う前から分かっていた。高飛車な彼女に、仕事がないから料理を作るなんて殊勝な心遣いはないことを。
「刺身は料理とは言わなくない?」
そんな言葉は勿論言わずに食べた。まあ、スーパーのパック刺身だから美味しかった。しかし彼女にとって「消費期限」や「冷蔵保存」という概念はやはり縁遠いものだったらしい。
男は走った。内股で走った。
覚束ない足取りで、それでも目的の場所を目指していた。通行人がほとんどいないのだけが救いだった。
深夜に煌々と光る、見慣れたチェーンのコンビニ。
あそこに着けば、トイレを貸してもらうことができる。
人間としての尊厳を失わないため、走る。大丈夫、俺は絶対に逃げ切ってみせる。
──次の日、俺は彼女にフラれた。
ある男の孤独な戦い 桜木武士 @Hasu39
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