走る男の街

兵藤晴佳

第1話

 そのとき僕は、高い高い建物のてっぺんにある小さな庭の上から、街を見下ろしていた。

 ずっと見守っていてくれた、ふうわりと明るい光に包まれたきれいな女の人が微笑みかける。

「危ないわ、パーチヴァル」

 それが僕の名前なのだと、今朝、目が覚めた時にベッドの中で教えてもらった。

 部屋の中には、カーテンの隙間を抜けた朝の光が眩しく差し込んでいた。

 気持ちがものすごくうきうきして、床に飛び降りた僕は、足元に散らばった服を急いで身に付けたのだった。

 部屋の外に出ようとしたけど、彼女はダメだと言った。

 それでも言うことを聞こうとしなかった僕は、涼しげなノースリーブのワンピースに着替えた彼女に、この空中の庭……いうか高い建物の上へと連れてこられたのだった。

 ここから見渡しても、この街はどこまで広がっているのか分からない。

 僕は遠くへ目を凝らしながら返事をした。

「大丈夫だよ、プシケノール」 

 それが彼女の名前だった。

 ベッドの中でそれを囁いた口は、もう長いスカーフで覆われている。

 なるべく喋りたくないのだ。

 そこに気が付いた僕が考えたことは、こういうことだった。


 うるさいことを言われないうちに、やりたいことをやっておこう。

 

 朝日に照らされた家々が、広い……といっても空中につくられた庭から見降ろせば物の数ではない8車線ほどの道路に、長い影を落としている。

 だが、そこには誰もいない。車も走っていない。

 街は静まり返っていた。

 動くものなど、何一つありはしなかった……と言いたいところだが、それが早合点に過ぎなかったのはすぐに分かった。

「誰かが、いる」

 目には見えなくても、それは肌で感じられた。

 僕は道の上をじっと眺める。やはり誰も現れはしなかった。

 でも。

「間違いなく、気配がある」

 僕は言い切った。間違いなく、街の外から何かが近づいていたからだ。それも、信じられないくらいの速さで。

 しかもそれは、車のような冷たい機械のものではない。

「走っているのは……血の通った温かい人間が、多分、走っている。

 そこで、僕は緑色の葉を茂らせた、庭の隅に植えられた低木の中に分け入った。

 だけど、遠くへ目を凝らしても、「走る人」の姿はない。

 探すためには、庭の端から身を乗り出さないわけにはいかなかった。


 やってくる。この街の外から走ってくる。

 その人に聞きたい。どこから来て、どこへ行くのか。

 今まで通り過ぎてきたところには何があって、これから行く先には何が待っているのか。

 そうだ。

 いっそのこと、僕を連れていってくれないだろうか。

 ここではない、どこかへ。


 後ろから、僕の名前を呼ぶ声がする。

「パーチヴァル! 戻りなさい!」

 遅かった。

 僕の身体は宙に浮き、歩道へと真っ逆さまに落ちていった。


 一瞬だけ、目の前が真っ暗になった。

「やれやれ、まだ子供なのに」

 聞き慣れない声に目を開けると、そこには、小さな黒メガネをかけた、黒いマント姿のお爺さんがいた。

「大人の言うことを聞かないで死んだ悪い子は、どうするかね?」

 どうやら僕は、誰かにどこかへ連れていってもらう間もなく、遠い所へやってきてしまったらしい。

 尋ねられたのはというと、同じような黒いマントを着た、2人の若い男の人だ。

 左の目に片眼鏡をはめた、ひとりが答えた。

「良いこととが悪いことの区別を教えるのは難しいことですが、必要でしょうね」

 もうひとりの、右の目に片眼鏡をはめたが答える。

「今のうちに痛い目を見ておかないと、いつまで経っても子どものままでしょう」

 どちらの返事にも満足したらしく、お爺さんは大きく頷きます。

「では、この子をおまえたちに任せよう」

 そこで、ふと思いついたことがありました。

 この3人は、もしかすると死神とかいうやつではないでしょうか。

 左眼鏡の若者が、僕に尋ねます。

 

「互いに競い合う、2人の仲の良い詩人たちがいました。ひとりは良い人で成功を収めましたが、ひとりは悪い人で身を持ち崩し、盗みさえも平気になってしまいました。さあ、君が良い人なら、この友人を立ち直らせるためにどうしますか?」

 子どもには、ちょっと難しい話でした。

 でも、僕はすぐに答えることができました。

「悪い友人の名前を借りて、詩を書きます」

「どうして?」

 僕は、さらりと答えます。

「悪い人なら人の作品で有名になってお金が入ってきても何とも思わないでしょう。盗みを働く必要がなくなれば、こんないいことはないんじゃありませんか?」  


 若者はもう、それ以上は何も言えなくなってしまいました。

 いいことと悪いことの境目を溶かして消してしまった、僕の勝ちのようです。

 すると、右眼鏡の若者が僕に尋ねました。


「私は今、2人の女の命を握っています。ひとりは目覚めていて、君のそばにいます。ひとりは眠っていて、遠くにいます。2人はどちらも君を深く愛しています。でも、私は一方しか助けられません。さあ、どっちを助けますか?」

 こういうのが、いちばん嫌いです。意地悪です、考えるための手がかりが、全然ありません。

 答えられない恥ずかしさと悔しさで、僕はうつむくしかありませんでした。

 若者たちは両方とも、勝ち誇ったような笑みを浮かべます。

「では、このまま遠くへ連れて行くことにしましょう」

 確かに、それが僕の望みでした。

 でも、何かが違ったのです。

 それが何なのかは、すぐにわかりました。

 左眼鏡の若者が高々と手をかざした先を見ると、そこにはひとりの女の人がいました。

「プシケーノス!」

 高いところにある庭の端で、僕をじっと見つめています。

 

 ……今、そっちへ行くわ。


 右眼鏡の若者が手のひらを広げると、そこにはガラスの棺に横たわった、青い髪の女性の姿が小さく浮かんでいました。


「リュカリエール!」

 その声が、どこからか聞こえてきます。


 ……お願い、私を選ぶと言って。


 これは、僕の望みをかなえようとしているんじゃありません。

 罠です。

 たぶん、プシケーノスとリュカリエールのどちらかを選べば、3人のうち、2人が助かります。

 でも、選ばなければ、3人とも「遠く」へ連れて行かれるのです。

 それはつまり……。

 考えるのも怖くて、僕はそのまま動くこともできなくなりました。

 身体が、一本の棒のようになって歩道に転がります。

 お爺さんが、ぽつりとつぶやきました。

「選ばないのが、いちばん悪い」

 僕が死ぬのは、その罰だということなのでしょうか。

 これで最期かと思いましたが、そのときです。

 道の彼方から凄まじい勢いで走ってきた男が、強張った僕の身体を踏んづけて、真っ二つにへし折ってしまったのでした。

 痛みと共に、頭の中も働きはじめます。

 そして、真っ先に頭に浮かんだのは、この一言でした。


 なんで?


 でも、それは遅すぎたのかもしれません。

 空中の庭の端に立つプシケノースを指差して、左眼鏡の若者が残念そうにつぶやきました。

「悪い子には、おしおきが必要ですね」 

 右眼鏡の若者も、小さな声で僕にこう言いました。

「こういうときは、大事なものを両方とも失うのです」

 リュカリエールをとらえた指を大きく開いて、勢いをつけます。

 でも、どっちの若者も、僕は怖くありませんでした。

 どうしてかって?

 そもそも、おかしな話じゃありませんか。

 だから、僕はこう尋ねました。

「だいたい、そんなルール、なんで押し付けられなくちゃいけないんですか?」

 答えは返ってきませんでした。

 代わりに、お爺さんが聞き返してきます。

「じゃあ、他にどうしようというんですか?」

 もちろん、答えはひとつしかありません。

 何故か、僕はそれをよく知っていました。

「簡単です。あなたたちを倒して、ルールをなかったことにすればいい」


 左眼鏡の若者が、かざした手を降り下ろします。

 頭の上で風を切る音がしました。

 見上げれば、真っ逆さまに落ちてくるプシケノースの姿がありました。

 右眼鏡の若者は、手の中のリュカリエールを握りつぶしにかかります。

 そのとき、僕の視界で光の幕が弾けました。


 気が付いてみると、僕は裸でプシケノースを抱きしめたまま、石畳の歩道にうずくまっていた。

 眼の前では、左眼鏡の若者が、右眼鏡の若者を抱き起している。

 黒マントの老人が、呆れたようにつぶやいた。

「愚かな……ここから解き放ってやれるところだったのに」

 立ち上がった右眼鏡の若者が、老人に答えた。

「良いのではありませんか? 敢えて同じことを繰り返すというなら」

 左眼鏡の若者も頷いた。

「それが一番の罰なのでしょうね……ここに置き去りにするのが」

 そこでどこからか、あの足音が聞こえてきました。

 さっき僕を踏みつけて二つに折った、あの駆ける足の音が。

 走る男の姿を探しましたが、どこにも見えません。

 気が付いてみると、老人も、若者たちの姿も見えませんでした。

 代わりに、長い髪をたなびかせて走ってきた女の人がいた。

「パーチヴァル! 何があったの?」

 リュカリエールだった。

 すると、あの足音も?

 プシケノースも、僕の腕の中で目を覚ました。

「何やってるの、リュカリエール! 制御装置は?」

「気が付いたら、倒れてたのよ! 原子炉の前に!」

 そう言うなり、僕の腕を掴んで引き起こす。

「止めて! すぐ!」

 また記憶を失うが、仕方がない。

 僕はあの、「走る男」の正体を詮索するのはやめにした。

 この街にいる限り、まともな理屈など通りはしないのだから。

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走る男の街 兵藤晴佳 @hyoudo

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