今度は僕が走る番
最上へきさ
彼女はいつも、走ってくる人だった。
彼女はいつも、走ってくる人だった。
大学のキャンパスで僕を見つけると、息せき切らせながら駆け寄ってきて、
「おはよーっ、タカハシ君っ」
「……ミネクラさん」
どうしてそんなに一生懸命走っているのか、って聞いたことがある。
彼女は照れくさそうに笑いながら、
「あたし、フツーより背が低いから。走らないと追いつけないんだよー」
確かに彼女は小さかった。
頭の天辺ですら、僕の胸ぐらいまでしか届かないぐらい。
「あっ、でもちょっとだけね。ちょっと低いだけで、全然っ、フツーだからっ」
どうやらそれが、彼女のプライドらしかった。
自販機のボタンに手が届かないときは精一杯つま先立ちをして。
プレゼンのためにわざわざ踏み台を持参して。
図書館では根気強く車輪付きの脚立を押している。
「あの……取りましょうか。それ」
「えっ。い、いいの……?」
初めて声をかけたのは、親切心からだった。
一冊の本を書架から取り出して渡したら、それでもう終わりだと思っていた。
次の日、僕を見かけたミネクラさんはものすごい勢いで駆け寄ってきて、
「昨日はありがとーっ! 振り向いたらいなかったから、びっくりしちゃったよっ」
「いえ、あの、当然のことをしただけなんで」
目を背ける僕の手を、ミネクラさんは強く握った。
「なんかお礼させてっ」
正直、ちょっと鬱陶しいと思った。
あの頃の僕は、人と関わるのを避けていた。特に女の子との関わりを。
なんてことはない話だ。
高校時代に少しだけ付き合った彼女がいて、別れた途端に僕の悪評を流し始めたというだけ。
あんな女と付き合った自分が悪かったのだし、あんな女にノセられるような連中と関わらなければよかっただけなのに。
それでも僕は裏切られたと思っていたし、もう誰にも裏切られたくないとも思っていた。
「――ハイこれ、ホットココア! 甘いの好きなんだねっ」
ミネクラさんはやはり走って戻ってきた。
器用なことに、両手に掴んだカップの中身は一滴もこぼさずに。
「タカハシくんってさ、同じ講義取ってるよね? 教室で見かけたことあるよ」
「……開発経済学」
「それそれ! え、あたしのこと知ってた?」
顔を見かけたことがあった。
それだけ。
「小さい人がいるな、って思ってた」
「む。そういう憶えられ方か」
彼女は少し不満そうな顔で、カフェラテに口をつけた。
……僕達が話をするようになったのは、それからだった。
ミネクラさんは授業が終わると僕のもとにやってきて、やれ昼飯だの宿題だのサークルだのと、僕を引っ張り回してくれた。
彼女はいつも走っているから、一緒に行くなら僕も走るしかない。
僕がぜぇぜぇと息を切らしていると、ミネクラさんは笑いながら、
「どーだ、鍛え抜いたあたしのタフネス!」
「すごい、すごいから、ちょっと、休憩させて」
「なんだもー、情けないね、タカハシくんはっ」
彼女はどうやらタフで長身の女性に憧れているらしかった。
「あたしね、生まれ変わったらケイト・ブランシェットかミラ・ジョボヴィッチになりたいっ」
「オーシャンズ8とバイオハザード」
「タカハシくんも見た? あれカッコよかったよねぇ」
僕は、マイティ・ソーに出てきたケイト・ブランシェットが好きだな、と答えると、
「え、なにその映画?」
「アメコミ映画。知らない? MCU」
「えー、いがーい。タカハシくん、もっとサブカル映画ばっか見てると思ってた」
ミネクラさんは時々、そんな失礼なことを言う。
僕は涼しい顔で受け流しているつもりだったけれど、
「ごめん、怒った?」
「……別に」
「別にってことないじゃん、すごいむくれてる」
僕がそらした視界に、彼女は小走りで滑り込んできた。
「でもちょっとかわいいね。むくれたタカハシくん」
……そんなこと言われても、あの頃の僕はどう返せばいいのか分からなかった。
今だったら間違いなく、こう返すだろう。
ミネクラさんのほうがかわいいよ、って。
彼女の身体が弱いと知ったのは、僕らが付き合うようになって少ししてからだった。
「なんか、遺伝子の病気らしくて。背が低いのとかも、同じ理由。子供の頃は身体弱くて大変だったんだって」
まるで他人事のように、ミネクラさんは教えてくれた。
僕が脱ぎ捨てたシャツを勝手に羽織りながら続ける。
「今はまあ、走ったりできるけど。でも、妊娠とか出産は無理らしいんだよね」
そんなこと、僕らには関係ない。
気に病む必要なんて、全然ないよ。
あの時はそんなことを口走ったけど、今になってみれば、驚くほど無責任な発言だったと思う。
それはミネクラさん自身の問題で、僕の問題ではなかったのだ。
誰がなんと言おうと、彼女自身が抱えるしかないこと。
誰にも肩代わりなんかできない。
恋人だろうが、夫だろうが。
僕には分からなかった。分かろうとしていなかったのか。
ただ単に、想像できなかっただけか。
だから、大学を出て就職して、そしてプロポーズをしたとき。
断られるなんて、少しも思ってなかった。
「……ごめん。無理だよ」
ミネクラさんを乗せたタクシーが走り去るのを、僕は呆然と見届けた。
訳が分からないまま自分の部屋に帰ると、スマホの通知が光った。
『タカハシくんは、普通にしあわせになって』
分からない。
全然分からない。
何もかも分からなくなって、僕は。
部屋を飛び出すと、全速力で走り出した。
我ながら滑稽な姿だった。
泣いているし、鼻水が垂れているし、何度か転んだせいで膝をすりむいていたし、眼鏡も割れていた。
でも、走った。
走って、走って、走って。
気づけばミネクラさんの前にいた。
「タカハシく――えっ、ちょ、なに!? すごいことになってるけどっ」
「ミネクラさんっ!!」
自分でも信じられないぐらい、大きな声が出た。
深夜のアパートでは許されないレベルの。
「僕はっ! 君がいいんだっ!!」
「へっ、あっ、はいっ」
ズタボロの袖口で鼻水を拭ったら、血がついていた。
いつ出たんだろう。
でもそんなことはどうでもいい。
「君と一緒で! 君がいて! 君が、あの日、走ってきてくれて!」
君が与えてくれたから。
僕は幸せなんだ。
だから。
「どんな形だって構わないから! フツーじゃなくていいから! 一緒にいてくれっ!!」
言うだけ言って、僕はミネクラさんの手を掴んだ。
強く強く掴んでから。
……今、僕は何を口走ったんだ?
訳が分からないこと言ってなかったか?
まったく筋が通らない話をしてなかったか?
脳裏をぐるぐると駆け巡る不安と後悔が、口から零れ落ちそうになった頃。
ミネクラさんが僕の手を握り返してくれた。
「……あたし、フツーじゃないんだけど。いいの?」
「言っただろ」
「フツーの人がフツーにできることが、できないんだよ」
僕だってそうだよ。
君の辛さや苦しみを分かってあげられなかったんだから。
普通の人が普通に持ち合わせている普通の思いやりが、僕には無かったんだ。
むしろ今だって、君のことが分からないのに。
「だから。君を幸せに、とか、一緒に幸せに、とか、全然、言えないけど」
「……真面目だよね、タカハシくんってさ」
ミネクラさんは少しだけ笑う。僕もつられて笑う。
「ホントにあたしでいい? あたしだけでいいの?」
「君だけがいい」
僕は断言する。
そして彼女を抱きしめる。
「……じゃあ、わがまま言っていい?」
「好きなだけ」
僕の腕の中で、ミネクラさんが呟く。
「これからは、タカハシくんも走ってきてね。あたしのところまで」
「……もちろん、全力で」
今度は僕が走る番 最上へきさ @straysheep7
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