長い坂道

葛瀬 秋奈

長い坂道

 最寄りの駅から外へ出ると、もう外は真っ暗だった。

 いつもより少しだけ帰りが遅くなっただけで、こんなに暗くなるのだと少し心細くなった。駅から自宅までの坂道は民家が少なく、街灯も少ない。

 駅でトイレに寄らなければ一緒に降りた人達の中に同じ方向の人がいたかもしれないが、後悔しても仕方ない。長い坂道だ。尿意を我慢しながら登るのだって辛いだろう。

 

 仕方ない。仕方ないのだ。


 そういうわけなので、そのままひとりぼっちで歩き出した。虫の声が妙に耳についた。

 墓地の横を通り過ぎるときは特に緊張した。別に何もないとは思うが不審者が隠れるにはちょうど良い物陰があるので一応、警戒だけはしておく。


 別に何もない。少し怯え過ぎではないか。


 月がやけに明るいように感じで空を見上げた。今晩は満月だった。宵闇の空に白い月がぽっかりと浮かんでいた。

 深夜2時頃に見れば胸をざわつかせるような景色でも今はむしろ心を落ち着けるのに役立った。耳元で虫の羽音がする。蒼い月というのはこういうものなのだろうな。

 早く帰ろう。今日は昨日の残りのカレーがあるんだ。


 遠くで獣の遠吠えが聞こえた。


 犬だろうか。上の住宅街にも飼い犬はたくさんいるが、小型犬ばかりで遠吠えをするような大型犬種はあまり見かけない。

 いたとしても無駄吠えしないように躾けてあるものだ。住宅街だし。

 妹が夜中に起きたとき狐を見たと言っていたので山に狐がいるのかもしれない。狸という可能性もあるが狸が遠吠えをするという話は寡聞にして聞いたことがない。


 どうでもいいか。関係ないし。


 林のところまできた。この辺りがただの山だった頃の名残だ。

 梅雨の時期になるとここらで蚯蚓がわらわら道に出てきて死んでいる。悪臭がするので子供の頃はそれが嫌いだった。

 蚯蚓にすら仲間がいるのに、どうして私は一人なんだろう。


 違う。そうではない。


 違和感はずっとあった。

 今晩は月が明るい。そして虫の声がうるさい。足がだんだん重くなる。この道はこんなに長かっただろうか。

 急に後ろが気になって、つい振り返ってしまった。


 道の真ん中に闇があった。


 夜空の色とは明らかに違う漆黒。穴と言い換えてもいいだろう。小さな子供程もあるその闇に無数の虫が集まっているのだった。

 その闇が、ほんの5メートルほど後ろにあって、徐々にこちらへ近づいているのだった。


 走り出していた。考えるより早く。


 こちら側の歩道に民家はない。助けを呼ぶなら車道を渡る必要があるが、そんな余裕はない。こんな道でも車は通る。歩行者のことなんか気にも止めないくせに。

 私は走った。足の速いほうではなかったが、とにかく腕を振ってがむしゃらに走った。あれから逃げたい気持ちが先行していた。

 登りきれば誰かがいるはず。


 誰か。もう誰でもいい。誰か。


 息があがる。荷物が重い。足も重い。この坂道はこんなに長かっただろうか。

 足がもつれる。前のめりに転ぶ。受け身が取れたのは不幸中の幸いだった。荷物はぶちまけたが。

 ぶちまけられた荷物の中に、桃の缶詰があった。そろそろ期限が切れるからと職場の人に押し付けられた非常食だ。どうりで重いわけだ。

 私は。その桃缶を、追ってくる闇に向かって投げた。落ちる音はしなかった。一瞬虫達が拡散したものの、缶詰は闇に呑まれたようだった。


 駄目だ。嫌だ。死にたくない。


 私は再び走り出した。転んだ拍子にぶつけたのだろう、膝が痛い。それでも走った。一心不乱に。


 もうすぐ坂の上に出る。


 坂の終わりに何かがいた。黒い。黒い獣だ。犬だろうか。

 避けている余裕はなかった。ぶつかる直前、黒い獣は私の横を通り過ぎ、その後ろに向かって飛びかかった。ように見えた。

 虫の羽音と獣の唸り声が聞こえた。そのまま足を止めずに走った。


 交差点に出た。赤信号だった。


 もう後ろから音は聞こえなかった。足を止めて振り返る。何もいない。誰もいない。

 うるさく響く胸の鼓動と呼吸音が、先程の出来事が夢ではないことを告げていた。

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長い坂道 葛瀬 秋奈 @4696cat

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