駿歩

あぷちろ

 ひとたび足を踏み出せば、自然と二歩目が前に出る。うじうじとひた悩んでいたのが驚くほどばかばかしく感じるくらい軽やかに歩みが進む。

 いつしか脚の回転は速くなり、景色が次第に流れ始める。

 人気の少ない生活道路から街の大通りへ、玉の汗をにじませながらアスファルトを駆ける。すれ違う人のほどんどが不愉快そうに眉を顰め、殆どの人が無関心に景色と同化する。

 通行人が多くなるほどに地を駆る速度は落ちる。人を避けるという無駄な動きの所為で汗が顎を伝い落下し、呼気がどんどんあがる。

思わず声を大きく叫んでしまいそうな焦燥感に駆られ、心臓が不愉快な調子を刻む。

悪態をついて脇目もふらずに人込みを押しのけてその場を去りたい一心を抑えて、私は雑踏へと紛れたのだ。


私が彼女に出会ったのは場末のバーであった。その時は、書生として住んでいる住居の主に渡す創作物レポートが中々できずにいた時であった。

日付は当の昔に変わっており、店内にいるのも酔いつぶれた男か、店主か、私くらいであった。

その店は明け方まで営業しており、カフェインの入った飲料も提供される。

何かに行き詰まる事が多かった私が常連となるのも無理はなかった。

その日はカフェイン入りの酒という、睡眠導入剤なのか目覚ましなのか良く分からないモノを片手に、大理石のカウンターテーブル上に白い原稿用紙を広げていた。

ペン先が石を叩く音と、ヨッパライの鼾がBGM代わりで、私は大きなため息をつくと十数枚目となる原稿未満のものを握りつぶした。

カラリと、お客の来店を示すドアベルが控えめに鳴った。

丁度集中力の切れていた私は何気なく出入口の方を見てしまう。店内に這入って来たのは裸足の美女であった。そして私は一目で惚れてしまった。

 店主が短く着席を促すと、彼女は態々私の隣へ座った。

 おしとやかとは正反対に、乱暴にスツールへ腰かけて、カウンターへ紅のヒールを置く。

 先ほどの私と同じように大きなため息をつくと、すかさず饗された度数の高いアルコールを一気に嚥下した。

 彼女のあまりの飲みっぷりに私は思わず感嘆の声を漏らす。それが彼女の琴線に触れたのか、私に興味を抱いたようだった。

二三言、世間話を交わしただけであったが、彼女と私は直ぐに意気投合した。

彼女に感化され、私も手元の飲料を一気したのがいけなかった。たちまち気弱になってしまった私は、初対面の彼女に行き詰まっていると漏らしてしまったのだ。

すると彼女は間髪入れずに一言だけ告げた、「走れ」と。

走れば解る、走れ、走れ。と。

 今思えば彼女もヨッパライ、前後不覚になっていたのだろう。それは私もであった。

 

だから、私は走る。

脇目も振らずに走った。ただ愚直に、私はそれしか取り柄のない人間であるから。

そうして景色を置き去りにしていくと、終のタイミングで世界が開かれた。酸欠でもうろうとした頭が妙に冴える。ああ、彼女の云っていたことはこのことなのか。

 私はこの感覚が残るうちに筆を執った。

 タイトルは、彼女の名前に決めた。




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駿歩 あぷちろ @aputiro

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