逃げる夢
凪野海里
逃げる夢
暗闇のなかを、俺はひたすら走っていた。ただただひたすら。
何故走っているのかはわからなかった。ただ本能が「逃げなきゃいけない」と言っていた。逃げないと何かとんでもないことが起こる。「何か」ってものが何なのか。「とんでもないこと」ってのがどういうものなのかわからない。ただ俺は、本能の赴くままに走っていた。
暗闇は延々と続いている。自分の体は見えるけれど、周囲に目印となるものがないから、自分が今どこをどう走っているのかわからなかった。前に向かって走っているのか、あるいは飛んでいるのか、浮いているのか。足にあるものはたしかに地面のはずだ。そう信じたい。土や床を踏んでいる音も感触もない。ただ、自分が足を動かしていることしかわからなかった。
いったい何にそんなに怯えているのか。けど、後ろを振り返るのすら躊躇われた。「振り返るな」と本能が言っていた。
突如、顔に強い衝撃がくわわった。なんだと思って、前方に手を置く。何もない。けれど、何かあるというのだけはわかった。それによって前に進めないのだ。けれど、前方に暗闇は広がっている。どこまでもどこまでも。
「なんだよ、くそっ!」
焦りが募る。だって、「何か」はすでにそこまで迫っているのだ。なんとか目の前の障害を壊せないかと必死に前方をたたいた。けれど壊れる感触もない。
そのとき、背筋にゾッとした寒気が走った。まずい、「あれ」が来る!
俺は咄嗟に後ろを振り向いて――。
***
「はあ、またそりゃ難儀なもんで」
クラスメイトの孝也に、最近よく見る夢の話を終えると、孝也はポッキーをくわえながら他人事みたいに言った。
実際他人事だからこの際、孝也の態度については何も突っ込まなかった。
「なんで同じ夢ばっか見るのかな、俺。もしかして呪われてんのか?」
教室に今いるのは、俺と孝也。2人だけだ。それもそのはず。教室の窓から見える外の風景は、すっかり夕暮れだし。壁掛け時計は5時になりかけている。校舎も、時折吹奏楽部の合奏が聞こえる以外は静かなものだ。
ちなみに俺と孝也は2人とも帰宅部で、こうして駄弁っているのは単に暇を持て余しているからだった。そんなとき、俺はふと孝也に夢の話をしたくなったのだ。
孝也はポッキーを食べ続けながら、手にあるスマホをいじっていた。そして「あ」と小さく叫ぶ。
「何かから逃げるために走ったりする夢ってのは、現実で逃げたいことがあるからって。そういう結果がでてるぞ」
「何だそれ」
「夢判断のサイトに載ってた、ほれ」
孝也が俺へと向けてきたスマホの画面を見る。たしかに孝也の言うとおり、「逃げる夢を見る心理は、現実世界で逃げたいことがあるから」と書かれている。
「何かに逃げたいこととかある? 期末試験がヤバいとかさ。このままだと夏休みは補修地獄だー! とかさ」
「それはお前だろ」
「あ、バレた?」
テヘ、と舌をだして笑う孝也のひょうきんさに、俺は思わず笑う。
「だって、わっけわかんねえだろ。特に今日の
「まあそうだな」
俺は孝也のYシャツの袖から青痣が見えた気がして、咄嗟に目をそらした。
孝也は夏だろうと冬だろうと関係なく長袖を着ている。痣を見られたくないからと、以前本人の口から聞いた。
孝也はここに来る前、親からひどい暴力を受けていた。傷を受けない日がないというほどに、散々な日々だったらしい。ここに来たのもそういう理由だと聞いた。今でこそ、ようやく本来の明るさを取り戻してきたみたいだが、初めて話を交わしたとき、孝也は目も合わせてくれなかった。
人って変われるんだなと思ったけれど、ここに来て今さら変わったところですでに遅かった。
「でも成績落とすわけにはいかないってのもわかるよ。お前は、どうする? 今年は帰るのか?」
「……さあ。まあ、試験次第だし。あとは迎えが来るか」
「毎年、来てんじゃん」
「そうだけどさ。いつそういうのがなくなってしまうのかって、不安になるときもあるよ。ほら、俺の親は放任主義だったし」
「ここに来てから今さら、親面されるのもたまんないってヤツか」
「まあそういうこと」
境遇は似ていないけれど、お互い親に対する不満はあった。環境に対する呪いもわずかにあった。俺はどっちかっていうとその呪いは浅いほうだったけれど、孝也は相当溜まっているだろう。正直ここを出ていったあと、いったいどうなるのか。先の見えない未来に不安しかない。
「とりあえず、目先の試験を乗り切ろう。夏休みはいつだって、楽しみたいもんだろ?」
「まあそうだな」
「もしお前に迎えが来なかったら、俺の馬に乗せりゃいいよ。どうせ人1人乗るにはデカすぎるし。通例なのか、2台だしてくれる家族もあるじゃん」
「うん、まあそうする。サンキュな」
「おうよ」
俺たちは拳を突き合わせた。
2週間後の期末試験でなんとか補修を回避できた俺たちは、無事に8月を迎えた。
朝起きて外に出てみれば、すでに寮の前には数え切れないほどたくさんの、ナスやキュウリに割り箸を差した乗り物があった。俺たちはそれを、馬と呼んでいる。
中にはキュウリを飛行機の形に象ったとんでもないものまである。ああいうのを見ると、そいつは家族に愛されてるんだなと分かって、なんだか羨ましい気持ちが湧いた。
出発の準備をして、最後に孝也のもとを訪れる。部屋をノックすると、でてきた孝也は一言「悪ぃ」と謝ってきた。
「やっぱり俺、ここに残る」
「迎えは?」
「ない。まあ、わかってたけどさ」
そうして、孝也はため息をついた。俺は「そうか」とだけ答える。何て答えたら良いのか、わからなかった。
孝也はそんな俺の気持ちを察してか、急に笑って「俺の代わりに楽しんでこいよ」と明るい口調で言った。
「楽しむつったって、どうせ家族は俺が来たことなんて知らないよ」
「それもそうだけどさ。……あ、ところで夢。あれってまだ見るのか?」
「うん。まあ、見るけど。でもどうせこっち帰ってきたら見なくなるよ。毎年そうなんだ」
「そうなのか」
そして俺たちは、帰ったら一緒にゲーセンへ行く約束をして別れた。
ナスの形をした馬で家に戻った俺は、家のなかへは入らず。なんとなく街中を徘徊した。
幼い頃から住んでいた町は、1年帰ってなかっただけでまた随分と変わっていた。人の流れは異様に少なく、みんなマスクをつけて歩いている。白い不織布からカラフルな布製のものまで。さらに、駅前に昔からあったレストランは閉店していて、中は真っ暗だった。
どうりで最近、こっちに来る人間の数が増えたもんだと自覚した。これは何か病気でも流行っているのかもしれない。
俺は駅の反対口へ歩いていく。そこは特に昔から人の通りがない場所だった。駅っていうのは、西から出るか、あるいは東から出るかで大きく変わる。特に俺の住んでた地域の、駅の西口は最悪だった。この地域に住む人は幼い頃から、「西口には1人で行かないように」と言われていた。
でも俺は、その掟を破って西口を降りたのだ。人生に嫌気が差して、自暴自棄になっていた時期だった。
毎晩帰ってくるのが遅い両親、チンして食べる冷凍のご飯、1人の食事、気軽に話せる家族もいなく、たまに顔を合わせたと思ったら「忙しいからあとにして」それが口癖だった。
西口は、ここ最近都市開発の影響もあってか、大幅な工事が続けられている。近くにショッピングモールが建ったり、住宅街ができていたりしている。
だけど俺はそんな明るい道からはずれて。まだ比較的開発のされていない暗い道を通る。居酒屋やパチンコ店、シャッター通りの路地裏へ。俺はその一角に立った。目の前は行き止まりだ。そこまで歩いて、俺は壁に手をついた。
わかっているのだ、俺には。何故あんな「何かに逃げる夢」を見続けているのか。特にこの時期は、毎年そうだ。
だってこの場所は、俺が生きていたとき殺された場所だったから。
犯人は今もまだ見つかっていない。
逃げる夢 凪野海里 @nagiumi
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