秒速1年の別れの歌

いち亀

On Our Marks,

 小さい頃にモテるのは、足の速い男子だ――というのは、恐らくは一般的な見解だが。一般的であるだけで例外も数多い、現にスプリンター男子であるはずのりんは浮ついた話とは程遠い人種だった。

 それでもそのネタを笑い飛ばせないのは。燐自身が、「足の速い男子」に並々ならぬ執着を持っていたからかもしれない。


 ずっと一緒だった。

 ずっと一緒だと思っていた、けどそうじゃなかった。

 きっともうすぐ、別の道を歩むのだろうから。


「おい、あきら

 

 レーンに向かう途中。あえて彼に声をかける。


「うん?」

「最後くらい勝ってやるから。覚悟してろよ」


 ずっと俺より速かった、だから好きだった。

 ずっとお前より遅くて、お前に憧れていた俺を、このトラックに置いていくんだ。


 *


 幼稚園の年中から一緒だったというから、出会いは4歳になるのだろうか。

 春に転入してきた友達がにわかに脚光を浴びたのは、クラスで誰も習得していなかった逆上がりができたからだ。加えて、王子様然としたムードも人気に一役買っていた。


「あきらくんすげー! 小学生もむずかしいっていうのに!」

「じゃあかけっこも速いの? ねえ、りんくんと勝負してみてよ!」

 去年まで、スポーツのエースといえば燐のことだったのだ。もっとすごそうなヤツが来たから勝負させよう、というのは子供らしい順当な発想だ。


「へえ、りんくんも足が速いんだ?」

 同い年よりとびぬけて背の大きかった燐を、低い角度から無邪気に見上げる昭。闘争心の強かった燐とは違う、純粋に運動が好きな人間の目だ。

「負けね~ぞ、いつも俺が一番だったんだから!」


 一方的に昂ぶっている燐と、やや気圧されている昭をよそに、周りの園児たちはテキパキとコースを作っていく。


「レーディーー?」


 審判役の女の子が声を張り上げるのに合わせ、構えを取り。


「ゴー!!」


 猛然と駆けだした、その瞬間から魔法が始まる。

 必死に手足を動かしているのに、背は自分の方が大きいのに。昭は、まるで風に乗ったかのように、すいすいと前へ進んでいく。同年代とは思えない洗練されたフォームで、みるみる差がついていく。


 結果にしたら一秒そこらの差だったのだろうが、昭が軽々とゴールラインを越え、燐がそこに追いつくまでの時間は、いやに長く感じられた。その僅かな時間が、自分のプライドを徹底的に破壊し、新たな闘志を呼び覚ました。


 悔しい、よりも。すごい、以上に。

 疾走するその姿が、眩しくて、美しくて、格好よくてたまらなかったのだ。


 画面の向こうにいたヒーローが目前に現れたようだった。荒い呼吸の中で、こいつの姿をずっと見ていたい、いつか追いつきたい、そんな強烈な衝動が全身を駆けまわっていた。


 友情と憧れが混じった初めての感情は。今思うに、恋に近かったのだろう。そんな言葉なんて実感のなかった燐は、息を整えてから昭に歩み寄り、こう叫んだ。


「今から、昭は俺の親友な!」


 *


 幸運なことに、燐と昭は気が合った。二人とも身体を動かすのは好きだったし、何をやっても燐を上回る昭は変に威張ることもなかった。一番の友人であるのと同時に師匠でもある、そんな奇妙な関係は小学校でも順調に続いた。晴れの日は自転車を駆って公園を巡り、雨の日は家でスポーツを観戦し。何をしても一緒が楽しかったし、常に自分の先を行く姿には憧れがつのるばかりだった。


 中学では揃って陸上部に入り、短距離の選手になった。やはり昭の実力は抜きんでていたが、燐だってレベルは高い方だった。ずっと昭を追っているうちに自身も成長していることが、年を追うごとに実感となっていった。


 中学も後半になると、違う進路を歩む未来が現実味を帯びていく。とはいえ、燐はそれほど心配していなかった。運動部が強い高校に行きたいと話していたし、元から個人競技でのライバルだ。違う部活になったところで、たいした変化が起きる訳でもない。


 最大の転機は、中学二年の冬のことだった。

 いつものように部活で汗を流し、週末の過ごし方について話していると、昭はばつの悪そうな顔でこう言ったのだ。


「そういえばさ。俺、彼女ができたんだよ。だから燐と一緒に遊ぶのとか、ちょっと減るかも」


 彼女ができた。燐と一緒にいる時間が減る。


「……なんで?」


 自分でも動揺の理由が分からないまま、意識より先に漏れた言葉に、昭はおかしそうに吹き出す。


「なんでって、クラスメイトに告られたんだよ。燐は知らない子だけど、優しくて可愛い子だから。部活のことも応援してくれるし、練習サボったりもしないって」


 優しくて可愛い女の子に告白された――断る理由なんかない。

 部活にも理解があるから練習に支障はない――心配することもない。


 なら、どうして俺は、こんなに揺らいでいる?


「ああ、もしかして。燐、俺と遊べないの淋しいの?」


 淋しい。それが正解だと分かった瞬間、それを悟られたらダメだと直感した。


「別に淋しかねえよ! お前はそんなませたことするキャラじゃないって思ってたから意外だっただけで」

「ませたって……俺らもう中二よ? しなきゃいけないことはないけど、恋だのなんだのって話もおかしくないでしょ」

「そりゃそうだけどさ、俺らはやっぱり陸上が恋人ってかさ、チャラチャラした連中とは別格だと思ってたんだよ」


 いつもの軽いノリを演じながら帰宅し、家で一晩悩んで。

 10年かけて積み重なってきた違和感が、否定しようがない答えとして浮かびあがってきた。

 

 自分が昭に抱き続けてきた感情の正体。友情であり、敬愛であり、それ以上に深い恋に似た形。

 どんな異性に抱いてきたより、ずっと熱く深く切実に心に根付いた感情。きっと、昭が燐に抱くのとは全く違う感情。


 これからも、これまで通りに。燐の一番が昭であったのと同じように、昭の一番も燐であってほしかった。あるいは、燐が昭の一番であったことなんかないのかもしれない。

 素直に打ち明ければ昭は受け容れてくれるかもしれないが、自分のために昭の可能性を狭めてしまう訳にはいかない。自分のために人生を費やしてくれなんて、言えるはずない。


 いずれにせよ、どこまでいっても燐の独り相撲なのだ。気持ちの行き場なんてどこにもない以上、燐が変わるしかない。


 変わるためには、自分の足で憧れから脱するしかない。一度も勝てない昭に憧れてきたなら、勝ってしまえばいい。勝つしかない。


 *


 そうして迎えた、中学最後の大会の決勝ブロック。

 奇しくも、燐と昭は同じ組に割り当てられていた。


 前の組が走り終え、進み出る。三つ隣の昭を横目で見ると、いつも通りに涼しい顔をしていた。


 いつだってそうだった。気負いなど何もないような顔をして、ただ以前の自分を越えることのみを見据えて、誰よりも優れた結果を見せてしまう。その裏側にある膨大な努力だって楽しんでしまえる、言いたかないが天才だ。

 その在り方に憧れて、そう在りたいと願って。成れないことは苦しかったけど、追いかけることは楽しかった。どうやったら彼になれるか、どうして彼は強いのか、そればかり考えている季節は、どうしようもなく幸せだった。

 

 昭がそばにいない自分なんて、想像もつかないけれど。

 いつか道を違えることになるなら、違え方は自分で選ぶ。


 スターティングブロックに足を乗せ、手をトラックにつく。ずっとそばで見てきた、美しいクラウチングスタートをなぞる。


 目指すは、ずっと破れなかった12秒の壁。

 振り切るのは、12年近く積み上げてきた羨望と憧憬と執着。


 わずかな逆風を肩に受け、昂る心を感じながら、力と呼吸のバランスを整える。


 響く号砲。自然と飛び出した身体。


 踏み込む。ありがとう、愛しき憧れ。


 振り抜く。よくやった、今日までの俺。


 蹴りだす。さよならだ、大好きだった俺たち。


 苦しくて、幸せで、幸せな刹那の中。ずっと、隣を駆ける昭を感じていた。


 ――さあ、残りわずか。


 振り切れ、青春の全部。

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