マラトン
小早敷 彰良
歓喜の伝令
大勝利だった。フェイディビデスは歓喜した。
遠い砂漠の民が上陸せんとした我が愛する都市を、自らの手で守り切った。
涙を流さない兵はおらず、大地に転がる骸まで、表情を変えないその顔に笑みを浮かべていた。
あの日、海から湧く兵士の姿といったら、蜘蛛の卵を温めた様に似ていた。
足が速いことを讃えられ、伝令役として従軍していたフェイディビデスは、その黒々とした光景に蟻を思い出していた。
蟻が黒海の波うち際にいたのであれば、波が攫ってくれるだろうに、ポセイドンも案外意気地がなく、彼ら砂漠の民は上陸する。
彼らは真っ直ぐに、我が愛すべき都市を目指していた。
彼らは残虐なのだという。
豊かな海を越えて、他者の恵みを求める者ども。餓えと渇きをもたらす強大な軍隊。
彼らを背後の街に恋焦がれるのも、わからなくはない。
我々の愛すべき街は、豊かな美味と温かな人々、そうした柔らかな全てが集まってできている。
対峙した我らは、決して強くはない。
剣を持つ腕はしなやかで、靴に守られた脚はこの行軍で既に熱を持ち始めている。
抵抗を諦め、温かな海に身を投げる者もいた。街を出て放浪を始めんとする人物も少なくなかった。
それでも、諦めきれなかった。
我々は彼らに向かって、無我夢中で走った。
奇襲と白兵戦だった。
後に残すものはない、ここを抜けられたら、どの道終わりなのだ。
誰もが大汗を流し、重い剣を相手にぶつけた。血を流し、朝飯を吐き、鍛えた腕をもがれ、この瞬間のみ考えた。
故郷で待つ家族も、隣の家の好きな人も、野良犬の温かさも、その瞬間には忘れなければならなかった。
歯を食いしばり、少しでも柔らかな部分を殴り抉ろうとする彼らは、はたから見れば同じものだった。
強い敵だった。
しかし、我々は勝ったのだ。
横を見ても後ろを見ても、火の手は上がっていない。
聞こえる音は風と海の音、仲間の喝采のみだった。
フェイディビデスは、切っ先を敵の肉体に置いてきた剣を取り落として、泣いた。
奇跡的に、自慢の脚も腕も無傷だ。
潮の香りと共に、顔が思い浮かぶ。その顔は、家族であり、名も知らぬ犬であり、大好きな人だった。
彼らは、彼が出征するとき、泣いていた。そのせいで、思い浮かぶ顔は、皆、泣き顔だ。
早く、彼らの笑顔が見たい。
フェイディビデスは、心底思った。
指揮官に呼ばれた彼は、困惑した。
彼はおそるおそる口を開く。
「貴方は、俺たちに死ねと、言うのですか。」
「そうだ。」
戦いが終わり、傷を癒す兵士たちに囲まれた、安堵で満ちているはずのキャンプが、緊迫感で冷え込んでいる。
「一刻も早く、この勝利を我が街に伝えなければならない。」
指揮官は、吉報を我が都市に伝えろと、フェイディビデスに命じていた。
事情は、彼も聞き及んでいた、
世を儚んで自ら命を絶つ市民が、これ以上増えないよう、この意外な吉報は、可能な限り、早く伝えなければならなかった。
話では、市政を敷く有力者たちも、都市から去ろうとしている。彼らがいなくなるのは、海に魚がいなくなるのと同じだ。
だから、指揮官は、フェイディビデスに死を命じていた。
時間を争うがために、戦いに疲弊しきった彼の身体の限界を超えて、走れ、と言ったのだ。
フェイディビデスは、おののいた。
自分の身体の調子は、誰より自分がよくわかっている。
もう体力は残されていない。武具すら脱ぐ気力がなく、祝杯を持ち上げることすら叶わない有様だ。
走った結果どうなるか、心臓が痛いのは、鼓動が速くなっているからだけではないだろう。
なぜ自分なのか。
健脚であったのが悪いのか。戦いで傷を負わなかったのが悪いのか。
隣で話を聞くエウクレスの様子を伺い見る。
彼も先の戦いで傷を負わず、フェイディビデスほどではなくとも、健脚であることで知られた伝令兵だった。
フェイディビデスは、心の内で叫ぶ。
どうして、俺たち二人に言うのか。こいつ一人で良いじゃないか。どうしてこいつが傷を負わなかったのか、俺は知っている。
こいつは仲間の骸に交じって、死んだふりをして、戦いをやり過ごしたのだ。
伝令兵の仕事ではないと言って、戦いを避けたのだ。
見ろ、あの剣がきれいなことを!
エウクレスは、戦いで一度も抜かなかった剣を抜き、自分の右脚に振り下ろした。
「へ?」
床に先ほどまで、エウクレスにくっついていた右脚が転がる。
自らの武具が赤く染まっていくのを、フェイディビデスは、茫然と眺めていた。
エウクレスは言う。
「私には伝令は務まりません。肺は空気を吸わず、目はかすんでいます。走ろうとしても、道半ばで息絶えるでしょう。
しかしながら、それでは、慧眼なる指揮官と、勇敢なる伝令フェイディビデスにあまりに申し訳ない。
なので、二十年使った右脚という、ささやかながらの賠償をいたしました。
そしてこちらは、差し支えなければ伝令フェイディビデスに贈り、はなむけとさせていただきます。」
「うむ、許可する。その自己献身、女神アテナもお喜びになるだろう。」
指揮官の言葉に頷いて、エウクレスは、自らのものだった右脚を差し出した。
そして、フェイディビデスの耳元でささやいた。
「死ぬなんて、絶対にごめんだ。」
エウクレスの声は、フェイディビデス以外の耳に入ることなく、兵士たちの歓声でかき消えた。
フェイディビデスは、右脚を持って立ち上がる。
その姿に、歓声がより一層大きくなる。
代償を以て、死に向かう英雄の構図に、皆、興奮しきっていた。
指揮官に向かって、フェイディビデスは言う。
「どうしても、今行かねばなりませんか。一睡とは言いません。せめて、水の一杯を。」
その声は、涙を流す指揮官には届かなかった。
仲間たちの手で、戦いの跡が残る荒野に、フェイディビデスは押し出されていく。
ここから我が愛する街まで、走ってどのくらいか。
道は遠く、暗く、水の一滴も落ちていなかった。フェイディビデスの身体にこびりつく血に誘われたのだろう、獣の唸り声がかすかにする。
平たく果てしない大地だった。
「がんばれよ!」
仲間であったはずの手で押し出され、野営地の門がぱあんっと音をたてて閉められる。
右手に生暖かい脚を持って、フェイディビデスは立ち尽くす。
どうして、俺が死ななければならないのか。
脳裏に浮かぶのは、大好きな皆の顔ではなく、憎らしいエウクレスの顔だった。
彼は死なないために、自らの脚を切り落とた。彼の思う通り、フェイディビデスが伝令を務めることとなった。
ここから走って、我が都市に向かわなければならない。
動きそうもない身体に鞭打って、吉報を届けねばならない。
戦いに勝ったのに、死ななければならない?
この俺が?
フェイディビデスは、叫んだ。
困惑の嘆きであり、怒りの咆哮でもあった。
獣の唸り声はいよいよ近づいて、野営地の門は固く閉ざされたままだった。
彼は、エウクレスの脚に、噛りついた。
それは、一日半ぶりの食事であり、水分だった。
食らうたびに、涙があふれそうになり、フェイディビデスは唸る。
エウクレスのように、自らの脚を落とせば、きっと、確実に命は助かるのだろう。
それなのにどうして、あの場で断れなかったのか。自分は羞恥心がために、わずかな希望に賭ける道を選んだのか。
自らの愚かさの方が、今は恥ずかしい。
脚で許しを得るにはもう遅く、ただ、走るしか道がない。
骨を遠くに放り投げ、フェイディビデスは走り始めた。
腹はエウクレスでわずかながら満たされた。
やらなければならなくなったならば、仕方がない。星座となって見守る神々にも、顔向けできないだろう。そう、自分に言い聞かせていた。
いや、星座の神話など、フェイディビデスは信じていない。
彼は愚かにも愚直だった。
ただ、好きな人の顔を思い浮かべていた。
伝令の命を断ったならば、戦いの興奮のまま斬られ、顔を見ることも叶わなかったはずだ。
そうならばいっそ、今の方が良い。
フェイディビデスは走り出した。
最初は、よろめいた一歩だった。
二歩目も震えていた。
足跡はよろよろと乱れて、みっともなかった。
彼が選ばれた理由である、軽やかな足取りは失われていた。
それでも、彼は走った。
一歩ごとに、風の音が遠のいていくようだった。
視界の端から順に白くなっていく。
餓えた獣が向かってくるのを振り払いながら走った。
自分のなかで、幼い自分が止めてくれと懇願するのを、蹴飛ばしながら走った。
なぜ自分がこんな有様なのかを、最初に忘れた。
次に海の香りと犬の顔を、仲間の喝采は、意外とだいぶ後まで覚えていた。
最後に忘れたのは、エウクレスの哀れんだ目だったか、愛しい彼女の泣き顔だったか。
もう彼が覚えているのは、街に伝えなければいけない、勝利のみだ。
「貴女の顔が見られれば、俺は死んでも良かったと、一度は思いました。それで満足です。」
そう言おうと思っていたのは、何番目に忘れたのか。
朝焼けと共に、門は開かれる。
しかし、その日ばかりは、朝焼けの直前に都市に迎え入れられた者がいた。
ざわざわと喧騒が、門から波のように広がっていく。
口から血を流し、誰の物とは知れない血で赤く染まった武具を携えて、フェイディビデスは走っていた。
走るというには、あまりに遅かった。けれど誰もが、彼を走っていると言った。
彼はついに、街の広場にたどりつく。
政治家が幾度も経った、白い石の段に這いあがり、血をべったりとつけた。
市民の前で、彼は咆哮をあげた。
「我ら勝てり。勝ったんだ。俺は、かお。」
最期の言葉を言い終えると、誰の手も間に合わず、血の泡を吹き出した英雄は倒れこむ。
最愛の彼女は、彼を見る輪の中にいた。
誰もが英雄に近づくなかで、非力な彼女が彼に近づけたのは、フェイディビデスの目に光がなくなってから、何分も経ってからだった。
彼女は良き隣人のフェイディビデスが街に入ってから、今までずっと彼を見ていた。
しかし、一度も目が合うことはなかった。
出征するときと同じ泣き顔を、フェイディビデスは見なかった。
マラトン 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa
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