大人になるまで繰り返す
狐
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時計を見る。16時。学校から帰ってきたところだった。
今日は火曜日だから、ピアノの日。
机の横からピアノのレッスンバッグを取り出して、ピアノに向かう準備をしなくちゃと思うのに、できなかった。
てのひらがじっとりと濡れている。これは、嫌な感じ。
部屋を見渡す。いつも通りの、自分の部屋だった。すこしだけほっとして、でもずっと、心臓が速い。
学校で美紀ちゃんに言われたことばを思い出す。
「土曜日に着てたお洋服かわいかったね」
土曜日……と、土曜日の洋服を思い出そうとする。土曜日はお気に入りの黄色いワンピースを着ていた。あれはたしかに、かわいいお洋服だ。それは問題がなかった。だけど。
土曜日、わたしは美紀ちゃんに会ったのだろうか?
まだ心臓がはやい。ずっと嫌な感じがする。
思い当たる節はいくつかあった。いくつか、というより、いくつもあった。
おばあちゃんが笑って言う。
「前にここで転んで田んぼに落ちて、どろどろになっちゃったんだから。気をつけて」
そんなことあったっけ、と思った。嫌な感じ。
ピアノの先生が首を傾げる。
「ここ先週はできてたじゃない、どうして弾けないの?」
そう言って、まだ譜読みしていないページを指差した。嫌な感じ。
おかあさんが物を投げる。
「同じこと何回も言わせないで!」
初めて聞いたのに、と思った。嫌な感じ。
ちょっと変だなと思うことはあった。でも、忘れっぽいだけだと思っていたのだ。
でもこれは、きっと気のせいじゃない。今まで気づかなかったのは、忘れても大丈夫なことだったからだ。もしかしたらそんなこともあったかもって、そのぐらいの話だったから。
だけど、ただ「忘れっぽい」だけで、こんなにも忘れるものだろうか?
大好きな美紀ちゃんと会ったことを、忘れてしまうものなのだろうか?
もしかして、自分は、忘れたいことを忘れることができる?
そう思った瞬間、ぐにゃり、と視界がゆがむ感覚がして、思わずその場にしゃがみ込んだ。立っていられなかった。目をつぶっても流れ込んでくるそれが、いくつもの映像と音声であることに気づく。
仲良しだと思っていた美紀ちゃんと桃ちゃん。わたしは2人のことが大好き。
3人で仲が良くて、何かをするときはいつも3人で一緒だった。一緒だと思っていた。それなのに。
土曜日のこと。
ピアノのお友達と一緒に行ったショッピングセンターで偶然、2人に会ったのだ。前から歩いてくる2人は楽しそうに喋っていた。わたしがいないところで約束して、2人だけで遊んでいるんだとおもって立ち止まりたくなる。だって、誘われもしなかった。
隠れたかったけれど、隠れるには気づくのが遅かった。まともに目があって、香奈ちゃんだ!と呼ばれてしまったら、避けられなかった。
少しだけ立ち話をしてすぐに別れた。2人は、うしろめたいことなんて何もないみたいにいつも通りだった。別れた後も、しばらく2人のことが頭から離れなかった。そして、忘れたいと思った。
友達と会ったことを忘れたいと思ったことは初めてだった。だって、友達と会うのは楽しいこと。嬉しいことだから。
別の映像。授業で指されたのに答えられなかった。みんなに笑われた。
別の映像。美紀ちゃんの筆箱を見た時、桃ちゃんと同じムーミンのかわいいペンが入ってた。あれはわたしの知らない、2人だけのおそろい。
別の映像。おかあさんが、ローラースケートをするときに膝につける防具を持って、わたしをぶってくる。
別の映像。
別の映像。別の映像。別の映像。別の映像。
目をギュッとつぶり、耳を塞いだ。心臓の音がうるさい。もういやだ、こんなものは見せないで欲しい。何も見たくない。いやだ。やめて。お願い。やめてください。
時計を見る。16時半。学校から帰ってきたところだった。
今日は火曜日だから、ピアノの日。
机の横からピアノのレッスンバッグを取り出して、それを持って部屋を出た。
大人になるまで繰り返す 狐 @wreck1214
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