芋切干とカレーライス

増田朋美

芋切干とカレーライス

芋切干とカレーライス

今日も、寒い冬が続いて、相変わらず雪の降り続くパリ市内。冬というのは、本当に長くて、寒いなあというのが本音であるが、建前では、見かけを派手にして、おしゃれしたり、かわいらしくしたり。そういう所から判断すると、人間というのは、自然とともにというのではなくて、自然には向うというのが、基本のようである。其れだからいつまでも、自然というものから乗り越えられないような気がする。

その日も、モーム家では。

「おう、そうそう。包丁というのはそういう風に持つって、やっと分かってきたみたいだな。よく、子供のころに、クマの手とか、猫の手とかそういうこと言われてこなかったか?」

杉ちゃんとトラーが台所にいた。トラーが、一生懸命ジャガイモを切っているのを、杉ちゃんは指導官のように眺めていた。

「まあ、あたしたちは、そのようなことはしなかったわよ。其れに、あたし、意識した時から、家族はお兄ちゃんだけだったし。」

つまり、トラーは物心ついたときから、マークさんが親代わりだったということだ。それがいいのか悪いのかはわからないけれど、トラーが引きこもってしまったのは、それも一因のような気がする。

「過去の事はどうでもいいや。よし、次は、ニンジンを切ろう。」

「はい!」

トラーは、ニンジンを冷蔵庫から出して、ニンジンをぶつ切りにし始めた。

「ああ、ニンジンを切るときは、包丁はそうやって持つんじゃないんだよ。いいか、こういう風に、左手で抑えて、右手でニンジンを切るんだ。」

「わかったわ。」

トラーは、杉ちゃんが見て示した通りに手を動かした。

「よし、それでいい。それで指を切らないように気を付けてニンジンを切って。」

トラーはしっかり頷いてニンジンを切った。

「じゃあ、ニンジンを切ったら、次はホウレンソウを切ろう。そういう時に、菜切り包丁があると便利なんだけど、間に合いそうにないね。多分、道路が混んでいるとか、そういうことだろう。」

杉ちゃんは、ニンジンを切っているトラーにそういうことを言った。トラーも、ニンジンを切り終わって、時計を見たが、確かに予定していた帰宅時間よりも、大幅に過ぎていた。

「じゃあ、しょうがないな。ほうれん草を、文化包丁で切ってみるか。本当は菜切りのほうがずっと切れやすいんだけどね。」

杉ちゃんがそういうと、トラーはもう少し待ってみるといった。

「あたしは、ちゃんとした道具を使って料理を習いたいの。道具がそろわなかったら、しばらく待つわ。」

「そうか。そういう気ぜわしくないところが、日本人とは違うんだな。」

と、杉ちゃんもにこやかに笑った。

ちょうどその時。

「ただいま戻りました。行ってきましたよ。これでいいんですよね?」

と、玄関のドアががちゃんとあいて、チボー君が入ってきた。

「えーと、菜切り包丁というものは、こういう形の包丁なんですね。」

チボー君が紙袋を開くと、紙袋の中から、一本菜切り包丁が出てきた。

「あら、まさしくその通りだよ。日本でもなかなか見かけない、菜切り包丁じゃないか。こんな高級な包丁、一体どこで手に入れたの?」

杉ちゃんがそう聞くと、

「ええ、空港の近くに百貨店がオープンしたんですが、そこの七階に、日本食のフロアがあるんです。なんでも、今ヨーロッパでは日本食が大ブームになっていまして、漬物とか、卵焼きとか、そういうものが、結構百貨店なんかで売っているんですよね。」

と、チボー君はにこやかに答えた。

「そうなんだねえ。何だか皮肉だなあ。日本ではそういうものが、どんどん食卓から遠ざけられているのにさあ。今時日本で、菜切り包丁使っている料理人何て、果たして何人いるだろうかな?」

杉ちゃんがそういうと、

「それじゃあ何だか悲しいわねえ。」

「本当ですね。本場の国家で遠ざけられているのは、なんか悲しいというか、むなしいですね。」

トラーと、チボー君はそういうことを言った。

「それでは、この菜切り包丁を使って、ほうれん草を切ってみような。いいか、まず、持ち方はこうやるんだ。」

杉ちゃんに手本を見せられて、トラーは、言われた通りにうごいてみた。

「よし、そういう構え方ができたなら、それでほうれん草を切ってみてくれ。」

「わかったわ。」

不格好なほうれん草だけど、ちゃんとほうれん草を切ることができた。

「じゃあ、出刃包丁に持ち替えてだな、次は肉を切ろう。」

杉ちゃんに言われて、トラーは、出刃包丁を持ち、牛肉の塊を切った。出刃包丁は、チボー君が百貨店で買ってきたものだ。

「一体、何をつくるんですか?」

とチボー君が聞くと、

「カレーライス。杉ちゃんに言われて、つくってみたくなったの。」

と、トラーは即答した。

「それでは、肉をまず鍋の中に入れて炒めような。肉の色が変わったら、野菜を入れる。この時、日の通りにくい野菜、つまり、ニンジン、ジャガイモから順番に入れていき、ほうれん草は最後。」

杉ちゃんの指示通り、トラーはぎこちない手つきで、鍋に肉を入れて炒め始めた。肉の色が変わったら、ニンジン、ジャガイモと順番に入れていく。何だか炒めているというより、かき回しているだけのように見えるが、トラーは一生懸命やっていた。

「よし、じゃあ、水を一リットル入れてくれ。そして、20分くらい煮る。」

トラーは杉ちゃんに言われた通り水を入れた。

「結構、料理を作るのって疲れるのね。もうかなりくたびれてるのよ。」

トラーが思わずそういうと、

「いやあ、慣れればなんてことないさ。ただ、食べることはどんな奴でも必ずすることだから、利益にはならないけど、しっかりやらなきゃならんないことだよ。」

と、杉ちゃんが言った。

「そうなのね。それを毎日繰り返すなんて、一寸大変ね。日本人はそういう成果もなく、ずっとそれを続けるのかあ。」

トラーはそういうのであるが、チボー君は誰でもそういうことはやっているよと言いかけて、それはやめた。

「じゃあ、これで20分くらい煮るから、しばらく休憩だ。」

と、杉ちゃんが言うと同時に、ただいまという声がして、マークさんが帰ってきたことが分かった。

「ああ、お帰り。お兄ちゃん。」

トラーはいつも通り声をかける。

「一体何をやっているの?何か作っているみたいだけど。」

マークさんがそう聞くと、

「いやねえ、とらちゃんが、一度作ってみたいというので、カレーを作らせているところなんだよ。」

と、杉ちゃんが答えた。

「何、それは本当か?」

「本当よ。今、カレーを煮込んでいるところ。」

トラーがそういうと、マークさんは、思わず持っていたカバンを落としてしまった。と、同時に客用寝室から、又せき込んでいる声が聞こえてきた。

「あ、僕一寸水穂さんの様子を見てきます!」

チボー君が急いで、水穂さんのところにすっ飛んでいった。マークさんはちょっと身構える。いつものトラーであれば、この時どうしたらいいのかわからなくなって、泣いてしまう可能性があるからだ。

「ごめんなさい。あたしはカレーを作るから、お兄ちゃんは水穂を見にいって。」

いきなり彼女はそういうことを言った。マークさんはさらにびっくりする。いつもはもらい泣きしてしまう彼女が、今日は冷静で、そういうことを言っているなんて、前代未聞というか、初めての経験かもしれない。

「カレーは僕たちに任せてや。何かあったら僕が何とかするから。」

杉ちゃんに言われて、マークさんは急いで客用寝室へ行った。マークさんとしては、10歳年の離れた妹の事が心配でしょうがないという顔つきだったが、杉ちゃんに言われて決心がついたようだ。

マークさんが客用寝室へ行くと、水穂さんがひどくせき込んでいた。チボー君に背中をさすったり、たたいたりしてもらって、中身を出そうとしているけれど、中身はなかなかでなかった。二人が、水穂さんを布団から起こして、どうにか中身をはきだすのに成功したところ、

「カレーができたわよ。あと少しでご飯も炊けるから、みんな食べて。」

トラーが台所でそういっているのが聞こえてきた。

「カレーができた。」

マークさんは、トラーのセリフを、もう一度繰り返した。

「どうしたんですか。お兄さん。そんな顔をして。そんなにトラーがカレーを作ったことが、不思議ですか?」

チボー君はそういうが、マークさんは答えない。ただ、顔に出た涙を肘で拭いた。

「すぐに、水穂さんにもカレーを食べさせないとね。」

と、マークさんは気を取り直していうが、チボー君はマークさんの言いたいことがわかってしまったような気がした。

「お兄さん、今まで大変でしたものね。トラーが、だんだん、いろんなことに対応できなくなっていって、自傷したり、泣き叫んだりしていたのを、何回も止めてましたものね。其れが、ああして冷静に、カレーを作ったなんて言ったら、うれしくてしょうがないでしょう。」

確かに、チボー君の言う通り、それは大変な進歩だった。

「本当だ。この人のおかげだよ。」

マークさんは、薬を飲んで眠ってしまった水穂さんに布団をかけてやりながら、そうつぶやいた。

「本当は、日本に帰ってほしくないよ。彼のおかげでトラーが、まえむきに、一生懸命やってくれるようになったんだから。ずっと、ここにいてほしい。」

そういうマークさんに、チボー君はなんだか複雑な気持ちになった。確かに、水穂さんのおかげでトラーが、料理をするようになったのは、目覚ましい進歩である。どんな人だって、やることが在って、それを一生懸命やって、それで報酬という成績を得て生きていくしか、人間は生きていかれないという結論に至らなければならないが、世の中には何等かの理由でそれができなくなってしまう人が居る。そういうひとに、正気を取り戻させるには、きっかけというものがないとできない。トラーが、その第一歩を踏みだしたきっかけを作ってくれたのが、水穂さんだったら、これからもずっといてほしいという気持ちになってしまう。

「お兄さん、良かったですね。」

チボー君はそれだけ言っておく。

「何やってるのよ、早くしないと、カレーが冷めちゃうわよ。それでもいいの?」

台所から、トラーの明るくて元気な声がした。美人と言われるのにふさわしい彼女は、そういう明るくて元気な声をしているといっそう美人に感じられると思う。それを武器にすることだって、彼女はできるはずだ。

「はい、すぐ行きます。」

二人は、とりあえず、水穂さんも落ち着いてくれたということを確認して、客用寝室を出た。そして、すぐに食堂へ行くと、山盛りいっぱいのカレーライスが、それぞれの器に乗っていた。本当はそんな大量につくらなくてもいいのだが、今は何も言わないほうが良いとチボー君は思った。それに、カレーは、日本のコメではないので、ぱさぱさしていて、本当においしくなかった。でも、トラーがカレーを作ってくれたのは、前代未聞の進歩である。これをつぶしてしまうような真似はしてはいけないとみんな思って、カレーがまずいということは一切言わなかった。

翌日。

「ほら水穂。なんでもいいから食べてよ。食べる気がしないなんて、そんなことは言ってはいけないのよ。」

トラーが一生懸命水穂さんにご飯をたべさせようとするが、水穂さんはどうしても食べないのであった。

「どうしてなのかなあ。なんで何も食べてくれないのかな。」

しまいにはトラーのほうが、ため息をついてしまうくらい、水穂さんは食事をしようとはしなかった。

「別に、ムスリムでもあるまいし、食事をしないのは、おかしいわよ。何か理由でもあるの?」

トラーが水穂さんにそう聞くと、

「いやあねえ、まあ、いろいろあるんだな。日本では、なかなか複雑な事情がありましてだな。」

と、杉ちゃんが代わりに答える。

「でも、ここは違うわよ。そんなことをバカにする子は誰もいない。そのためにあたしたち、いるんだから。あたし、ずっと前に聞いたことあるわ。生きることは食べることだって。其れをしないってことは、もう生きて居たくないってことにもなるのかしら?誰だって、生きたくないと思うことはあるけど本当にやったらいけないってことも知ってるわよね?」

「ほう、とらちゃんいいこと言うじゃないか。そんなセリフが出るようになったのか。じゃあ、お前さんもきっと立ち直れるな。」

杉ちゃんとトラーがそういっているのを見たチボー君は大変複雑な気持ちになった。確かにトラーが、だんだん引きこもりから立ち直ってくれるのはうれしいのだが、それは同時に、自分のほうへ向いてくれなくなることでもある、、、。

「水穂、何か食べたいものとかそういうものはないの?本当に何も食べたくないの?」

トラーに聞かれて、水穂さんは少し考えるしぐさをした後、すまなそうに、

「芋切干。」

と答えた。

「ああ、無理無理。芋切干は、作れないよ。こんな連日雪が降ってたら、芋が外で干せないだろ。其れはあきらめて別のものをつくるから。雑炊とか、そういうもんで我慢して。」

と、杉ちゃんが言うと、水穂さんは、

「そうですね、ごめんなさい。」

と、申し訳なさそうに言った。

「それでも食べてくれるんだったら、芋切干をつくってあげたいわ。本当にこっちでは作れないものなの?」

トラーが杉ちゃんに聞いた。

「うーんそうだねえ。まず初めに、ここでとれる芋が日本のとは違うだろ。其れと、干すには専用の金網を使わないと干せないだろ。それに芋切干をつくるのなら、乾燥しているところでないと。こんなに連日雪じゃ、干すことができないよ。」

「そうなのねえ。水穂が、食べてくれるなら、なんとしてでも作ってあげたいけどな。本当に無理なのかしら?」

「無理な要望は無理だってば。」

杉ちゃんとトラーがそういう会話をしているのを見て、チボー君はどうしたらいいか迷った。水穂さんには、芋切干をたべさせてやりたいが、同時にトラーを自分からとってしまう、恋敵でもあるのだから。

「今雑炊つくってあげるから、それで我慢してよ。確かにお前さんの出身地では、芋切干が何よりごちそうだったかもしれないけれど、ここでは一寸作れないよ。」

杉ちゃんが台所に向おうとするのを見て、チボー君は決断した。

「ちょっと待って。もしかしたら、百貨店の日本食フロアにあるかもしれない。」

チボー君はタブレットをとって、急いで調べ始めた。

「ああ、いいよ。そんなことしなくたって。だって、ないものはないのは仕方ないだろ。そういう事もあるって、教えてやらなくちゃ。そうやって、適応していくもんだぜ。人間ってのはな。」

杉ちゃんがそういうが、チボー君は調べる手をとめなかった。日本語で一番わかりにくいのはいいよという言葉だということは、日ごろから知っていたが、今のいいよはどういう意味なのか、考える暇もなかった。

「人間にひつようなのは、適応よ。適応力よ。適応する力よ。其れが弱いか強いかで、生き様が決まるのよ。」

杉ちゃんの言葉もほとんど気にならず、チボー君は百貨店のウェブサイトを見るのに没頭した。水穂さんは確かに、自分にとっては恋敵とも言えて、一寸いやな相手というべきかもしれなかった。でも、彼のおかげで自分の想い人であるトラーが、こうして前向きになってくれたのであれば、やっぱり水穂さんに感謝するしかないとおもった。

「ああ、ありますね。芋切干というのはこれじゃありませんか?」

チボー君は画面に写っている写真を杉ちゃんに見せた。

「すげえな。よく見つけたな。こっちへ来て、芋切干を食わせてあげられるのは、すごいことだと思った。」

杉ちゃんは驚いている。

「じゃあ、これでいいんですね。僕、買ってきますから、少し待っていてください。空港の近くですから、一時間程度で行けると思います。」

チボー君はにこやかに笑って、そういい、鞄を持って、モーム家の玄関を出ていった。本当は、恋敵の

ために、彼の大好物である芋切干を買ってくるなんてことはしたくないという気持ちもあったけれど、昨日のマークさんの言葉も思い浮かんで、それは打ち消さなければならないと思いながら、百貨店に向って歩いていった。

「しっかし、こんなところに、芋切干が売っている店があるとは、信じられないよ。本当にどうもありがとうね。」

杉ちゃんがそういってお礼をしている。水穂さんのほうは、なんとなくうとうとしているようで、返事も何もしなかった。もしかしたら、ご飯をたべていないせいで頭がぼんやりしているのかもしれなかった。杉ちゃんは、水穂さんもせんぽくんに礼を言えと言ったが、そんな必要はないわ、とトラーに止められて、其れはしなかった。

「実はあの百貨店、もうすぐつぶれるのよ。最近は、ああいう格式ばった百貨店より、スーパーマーケットとかのほうが、人気になっちゃって。それで最後に、日本食の特集をやっているのね。」

と、トラーが説明する。

「そうか。それは日本でも同じだな。百貨店というと、どうしても、高給取りばっかりが行くところだからな。」

杉ちゃんもそういうと、

「そんな店が消えちゃうのは、なんだか寂しいわね。」

と、トラーは、一寸ため息をついた。

「なんか水穂さんと一緒。」

杉ちゃんはそれだけ言って、うとうとしている水穂さんを見つめた。

そうこうしているうちに、一時間たった。ただいま戻りました、という声がして、チボー君が戻ってきた。

「買ってきましたよ、芋切干。いやあ、百貨店に来ている人は、ほとんどがお年寄りばかりでした。買いものなんて、若い人は、しないんですかねえ。」

チボー君は、鞄の中から、袋を一つ取り出した。中には芋切干がたくさん入っていた。日本の芋切干より堅そうだが、ちゃんと芋切干の形をしている。

「よし、すぐに食わせて、喜ばせよう。」

と、杉ちゃんが言ったのと同時に、チボー君は芋切干の袋をはさみで開けて、

「水穂さん、芋切干買ってきましたから、食べてください。」

と、今度はにっこりしていった。





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芋切干とカレーライス 増田朋美 @masubuchi4996

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