お前は急に走れるか?
かどの かゆた
お前は急に走れるか?
夢を見ていた。
俺は県の陸上競技場に居て、周りには、自分と同じく全国出場を目指すライバル達が準備運動をしている。観客席には当時好きだったあの子が座っていて、俺の勝利を固く信じて待ってくれていた。
高校三年間の、集大成。
絶対に負けられない戦い。
でも、俺は、もう既にその結果を知っていた。
「オン・ユア・マークス」
すると、いかにも夢らしく、レースが突然始まる。
「セット」
ピストルの音と共に、俺たちは走り出した。全身のバネを使って、限界まで走る。身体も脳も心も、全てが速さを求めていた。
でも、前を走るアイツには、追いつけない。
俺は結局ギリギリで、全国出場を逃したのだった。
目が覚めた。
慌てて車窓から現在の駅名を確認する。乗り過ごしてはいなかった。
ひとまずほっと胸を撫で下ろす。それから顔を上げると、正面にいかにも気怠そうなおっさんが立っていた。
「……あ」
俺は「あ、譲りましょうか?」と言おうとして、口をつぐんだ。
それから、喉の調子が悪いふりをして、咳き込む。
向かいの窓に、自分が映っていた。
疲れ切って、腹の出たおっさんの姿。
こんなおっさんに席を譲られたら、きっとショックだろう。俺だったら羞恥と怒りで怒鳴ってしまうかもしれない。
結局俺は電車を降りるまで、席を譲ることは無かった。
自分も譲られる側になったんだな、と、若々しさを失った自らの手を見つめる。
電車から降りると、外は酷い寒さだった。予報によると、これから雪がかなり降るらしい。帰りの電車は大丈夫かと不安になるが、不安で会社を休むことは出来ないのだ。勤め人は諦めて、今日も必死に事務作業をするしかない。
午前中、仕事はそこまで忙しくなかった。
給湯室で自分用のコーヒーを淹れていると、ポケットの携帯がぶるりと震えた。画面を見ると、妻の理沙から電話がかかってきている。
あっちも仕事中だというのに連絡が来るということは、何か緊急事態なのだろう。
「どうした」
携帯を耳に当て、理沙に要件を聞く。
「あぁ、やっと繋がった。大変なのよ、あの子が……」
そして、理沙は事のあらましを説明してくれた。
どうやら、小学校で娘が熱を出し、親のどちらかが迎えに行かなければならないそうなのだ。取り敢えず母親である理沙の方へ連絡がいったが、彼女は今日、仕事の関係で普段とは別の支部へ行っているらしく、迎えには数時間がかかる。
だから、俺に娘の迎えへ行って欲しい、とのことだった。
身体の弱いあの子の為ならば、俺は喜んで仕事を投げ出す。
上司に事情を話すと、早退することを快諾してくれた。
早速電車に乗って、一旦家に戻ろう。かなり高い熱らしいから、きっと車で迎えに行った方が良いはずだ。
そんなことを考えながら会社を出ると、外は一面雪景色になっていた。
長年この街に住んできたが、ちょっと珍しいくらいの降り具合だ。
「……まさか」
嫌な予感がして、雪を踏みしめながら駅へ行く。
「すいませんねぇ、ちょっと止まっちゃって」
改札前で、駅員が申し訳無さそうに会釈をした。
別に、彼が悪い訳じゃない。
しかし私は、行き場の無い苛立ちと焦りを感じていた。まさか命に別状があるなんてことは無いと思うが、あの子は今も小さな身体で苦しんでいる。そこに直ぐ駆けつけられないのは、自分が熱を出すより嫌なことだった。
残る選択肢は、一つだ。
俺はコートのボタンを上まで全部閉めると、フードを被った。手袋をつけて、手をぎゅっと握りしめる。
……さぁ、急げ!
十数年、会社勤めだけを続けてきた男が、雪の街を走る。
そこには、美しいフォームも、しなやかにしなる身体も無かった。
ドタドタと間抜けな足音が、冬空に響く。肩や頭に降り積もった雪を振り払いながら、自分の息が荒くなっていくのを感じた。冷たい空気が喉に入り込み、肺が痛む。その痛みは、限界まで走り込みをして、過呼吸になった時のそれとよく似ていた。
俺は立ち止まって、未だに雪が降りしきる街の姿を眺める。
本気で走るのなんて、いつぶりだろうか。
高校の大会で負けてから、すぐに受験勉強がやってきて。大学のサークルは運動部とは名ばかりで飲み会ばかりやっていた。そして瞬く間に就職して……そして、俺は今の今まで、本気で走らずに人生をやってきた訳だ。俺の青春は、確かに走ることにあったのに。俺は今、走り方さえ忘れちまっている。
お前は急に走れるか?
雪混じりの向かい風は、俺にそう問うている気がした。
俺はもう、走れない側の人間なのか?
もっと若い父親なら、あの子のもとへ走って行けるのだろうか。俺たち夫婦はあの子を授かるのに、かなり長い年月が必要だった。でも、あの時間を無駄だとは思えないし、そんな風に考えたくない。
「……走れ」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「走れ、走れ」
多分、一人では、走れなかった。
でも、俺は雪塗れになりながら、再び走り出した。やっぱり不格好で、とろい走りだった。
走っている間、色々なことを思い出した。
外周を走った時に見えるグラウンドに植えられた桜の木。花が咲いている時より、沢山の葉をつけた姿の方が、印象に残っている。
スポーツドリンクを浴びるように飲んだ時に見た、入道雲。口から溢れて首筋がベタベタになった感覚まで、はっきりと浮かんできた。
試合で勝った時の、仲間たちの歓声。手を振ってくるマネージャー。汗でぬるぬるした握手。制汗剤の香り。打ち上げで食べた焼き肉。
楽しかった。
あぁ、楽しかったさ。
自分のために走って、結果も失敗も努力も喜びも悲しみも、全部自分のものだった。それが楽しくないはずがない。
じゃあ、今は?
俺は今、大切な人のために走っている。
責任とか年齢とか、色々な重みが、俺の足を遅くしている。
でも、止まらない。止まるわけにはいかないのだ。
そして、俺は、会社から家までを走りきった。
全身に痛みを感じながら、車のキーを取り出す。大通りには除雪車が通っていたので、冬タイヤならば学校に行くことは可能なはずだ。
小学校へ行くと、保健室のベッドで娘が寝ていた。俺の顔を見て起き上がろうとするが、高熱のせいか、ふらふらしている。
「大丈夫か」
そう聞くと、娘は熱いおでこを俺のお腹にくっつけて、朦朧としているであろう頭で一言、呟いた。
「……遅いよぉ」
俺は、目の前に居る小さな娘が、どれだけの不安を感じていたのかを、その言葉で理解した。そして、自分がその不安を軽減させるのに一役買っていることも、よく分かった。
「ごめんな」
俺は娘の頭を撫でる。
きっと昔の俺が見たら、鼻で笑ってしまうような酷く遅い走りだった。
でも俺は、確かな勝利をこの手に掴んでいる。
本当に今更なことだけど「変わったんだな」と思った。
寂しいけど、嫌じゃなかった。
俺は、走れるんだ。
その意味も理由も、何もかも違っているけど。
お前は急に走れるか? かどの かゆた @kudamonogayu01
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