針巣先生、走る
新巻へもん
気になる子
頭が痛い。くそ。日曜日の夜に日本酒なんか飲むんじゃなかった。ずっと変えてないシーツがかかったベッドから降りて尻をボリボリかく。パジャマ代わりのジャージのゴムが緩んでいたのかずり落ちる。くたびれたパンツも一緒に滑り落ち大事な部分が丸見えになった。
以前の嫌な記憶がフラッシュバックする。職場の歓送迎会でしたたかに酔っぱらい、帰り道にそのまま眠って交番にしょぴかれることになった。どうも立小便をしたままきちんとしまわずに寝てしまったらしい。罪状はわいせつ物陳列罪。幸い起訴猶予になったが、会社を首になり、俺は故郷に引っ込んで中学校の教師をやっている。
歯を磨き、飼い犬に餌を与えてから出勤する。職員室に入って行くと隣の席の椎名先生が声をかけてきた。
「顔色が悪いようですが、針巣先生大丈夫ですか?」
「ええ。何でもありません」
椎名先生はメタルフレームの眼鏡をかけて少し冷たく厳しい感じではあるが、男子生徒からは人気があった。まあ年上のお姉さまに憧れる年頃である。確かにスタイルも良く、リビドー全開のガキからすれば魅力的に見えるのだろう。
俺は出席簿を手にすると教室に向かう。担任をしている3年2組の教室に入ると騒がしかった教室が静かになった。中学3年は面倒な年頃だ。子供から大人になる間の不安定な時期。変に小賢しいところもあれば、幼さを残していることもある。ただ、俺のクラスは特に問題は起きていない。
別に俺が教師として優秀というわけじゃない。俺の人相の悪さが一役買っていた。自分で言うのもなんだが、前職の仕事の関係で訪問した警視庁の組織犯罪対策課の方が似合っていると思う。あの部署の方々は自分たちが取り締まる相手とどっこいどっこいの迫力がある。つまりはそういうことだ。
妄想力の逞しい中坊たちは色んな話をこさえている。針巣は東京で人を殺して故郷に帰ってきたらしいとか、俺達の2年先輩の北村愛紗先輩を騙して風俗に売っぱらったらしいとか。まあ、そんな前科があったら教壇には立てないわけだが、俺は別に誤解を解こうとはしなかった。
まあ、一度イキがっていたやんちゃなガキが俺を挑発してきたときの返しも効いているのかもしれない。その時は前の日に飲んだ酒が残っていた。
「ああ。そうなったら俺はもう教師じゃないから遠慮はいらんな。くだらねえお遊びでこれからの楽しい未来をおっさんの短い人生と引き換えにする覚悟があるなら好きにしろ」
別に声を荒らげたりはしなかったが、自分でもびっくりするぐらいの冷たい声が出る。イキがっていたガキは俺の目を覗き込んで目をそらした。生徒の親から脅されたと校長に苦情が入ったらしいが、校長はまったく動じない。俺の目の前でいけしゃあしゃあと言ってのけた。
「他の生徒にも聞き取りをしましたけど、静かな声で諭しただけのようですし。胸倉をつかまれての対応としてはごく常識的なものと思いますが。針巣先生がこのような容貌をしているからですって? さすがに顔のことをおっしゃるのは名誉棄損に当たると思いますけどいかがです?」
様戸校長は若い頃は柔道で日本代表にもなったことがある立派な体つきをしていた。生徒達には笑顔を絶やさないが、筋が通らない話には一歩も引かない。その後、教育委員会も様戸校長にねじ込んでくることはなく、イキったガキも表面上は大人しくなった。
そんなわけで、クラスの運営に支障が出なければ、女子生徒が俺に声をかけられるとビクつこうが構わない。俺に話しかけるときは半径2メートル以内には入ってこようともしなかったが放置していた。唯一の例外が佐藤
佐藤が俺と口をきくようになったのは、佐藤が雨の日にしゃがみ込んでいるところに通りかかってからだ。目に涙を浮かべながら震える不細工な子犬を撫でてやっていた。なんだかんだで、そのアホ犬は俺が飼うことになり、俺の家ででかい顔をしている。
休みの日にちょっと離れた公園のドッグランまで散歩に連れて行くと、佐藤がやってきて相手をする。アホ犬は俺にはたいして愛想を振りまかないが、佐藤にはよくなついていた。そうなると俺とも二言三言は言葉をかわす。次第に佐藤も学校でも職員室までやって来て分からないことを質問するようになった。
職員室には入り浸る生徒がいる。椎名先生のところにはマセガキが来ていたし、他の教師のところにも妙に距離感が近い生徒がいる。大抵の場合は情緒不安定だったり、家庭に居場所がない子だったりした。俺のところに佐藤がやって来るのもそれほど奇異な目では見られない。
というのも佐藤の家庭は要注意と前学年の担任から引継ぎを受けている。母親が佐藤を連れて再婚しているのだが、ネグレクト気味という報告だった。俺が進路の3者面談で会った時の印象もあまりよくはない。佐藤はあまりしゃべらず、母親ばかりが口を挟む。母親の蒲生佐知の整った顔は笑顔を浮かべていたが目は笑っていなかった。
ある日、俺は校長室に呼び出される。様戸校長は1枚の紙を俺に指し示した。そこには俺が中学校の女子生徒と定期的に会っているとの密告が書いてある。俺は事実をそのまま告げた。様戸校長はため息をつく。
「私はあなたの話を信じるわ。でも、こういうご時世だからね。あなたのためにも控えた方がいいと思う」
正論だった。管理職としてはこう言わずにはいられないだろう。俺はその主張を認めざるを得なかった。
その日は金曜日で佐藤は下校した後でそのことを伝えられずじまいになる。翌日は校長に言われたこともあり散歩を取りやめようとしたがアホ犬はリードを咥えてやってきて催促をした。仕方なくいつも通りに散歩に出て、公園まで30分近くを歩きドッグランにアホ犬を放す。
ベンチに座って転寝をしていると声をかけられる。
「あの。針巣先生」
目を開けると佐藤が立っていた。日頃から溌剌とした感じではないが今日は特に表情が暗い。
何か口にしようとする機先を制して、俺は佐藤に対してこんなことは今日で終わりにしようと告げる。
「お前も変な噂が立ったらまずいだろう。俺も仕事が無くなるのはちょっと困る」
「ちょっとですか?」
ほんの少しだけ笑うがすぐに元の暗い顔になった。佐藤は小さな声で分かりましたという。俺はベンチから立ち上がった。それにつられて顔をあげた佐藤の首筋が見える。痩せた首の一部が赤くなっていた。
「先生。さようなら」
一瞬何か言いたそうな顔をしていた佐藤はくるりと向きをかえ自転車で走り去る。
俺はまたドカリとベンチに座る。何か悪いことをした気分だった。生徒との距離は保たなくてはならない。一線を越えてはならないラインがあるのだ。昨日も遅くまで残業をしていたので頭の働きが鈍く、軽い頭痛もする。心が晴れず、飲む福祉と言われる酒を買いに行こうとアホ犬をリードにつなぐ。
コンビニでグレープフルーツ味の酎ハイとホットスナックを買う。路上だったが気にせずプルタブを引き開けて喉に流し込んだ。次いで唐揚げを食べる。ねだるので1個はアホ犬にくれてやった。多くは良くないがまあ1個ならいいだろう。酎ハイをぐいと飲み干す。ふう。少しもやもやが晴れた。
美男美女のカップルがコンビニにやってくる。俺がぺっと唾を吐き捨てると女が嫌そうな顔をして足早に中に入る。その後姿をなんとはなしに見ていると首筋に赤くうっ血している部分があった。その瞬間、頭の中に電気が流れる。佐藤の暗い様子、首筋のうっ血、継父、実母の冷ややかな眼差し。一本の線でつながる。ああ、くそ。
俺は空き缶をゴミ箱に投げ込み、地面にひざをつくとアホ犬に声をかける。
「おい。佐藤は分かるな。いつも遊んで貰ってるだろ。お前の命の恩人だ。佐藤を追いかけろ」
首を傾げていたアホ犬は小さくワンを吠えると駆けだす。
すぐに息が上がった。運動不足もあるし、濃い酎ハイを飲んだばかり。アホ犬のリードを引くと口に指を突っ込んで側溝に全部吐く。褒められた行為じゃないが今はそれどころじゃない。アホ犬に行けと言うと再び走り出す。ぜいぜい言いながら15分ほど走っただろうか。
前方にビニール袋を手にした佐藤の姿が見える。声をかけようとしたが息が上がって出なかった。門を曲がって道から消える。最後の200メートルをダッシュした。アホ犬が吠える。門にたどり着くと佐藤が玄関のドアのところでびっくりした顔をしていた。なんとか息を整える。
「さ、佐藤。何か、話したいことがあったんだろう?」
佐藤は逡巡する。押しのけるようにして男が外に出てきた。
「なんだ。うるさいな。近所迷惑だぞ」
横柄な男は俺の強面の顔を見て、顔色を変える。
「この外道が」
「なんだと?」
「てめー。娘に何をしてやがる。俺は全部てめーの所業を聞いたぞ。児相に通報してやろうか」
はったりだった。しかし、男はみるみるうちに青ざめた。
一旦玄関に引っ込むとゴルフクラブを持って出てくる。無茶苦茶に振り回すゴルフクラブをかわして膝蹴りを腹に叩き込む。男を取り押さえると佐藤の悲鳴が上がった。とたんにわき腹に鈍い痛みを感じ、母親の蒲生佐知の歪んだ顔と目が合う。意識が遠のく中、人殺しッという声が遠くから聞こえた。
***
目が覚めると病院のベッドの上だった。翌日、椎名先生が病室を訪ねて来る。賞賛を含んだ表情で、俺が意識を失った後のことを話してくれた。佐藤は保護され、両親は警察で取り調べを受けているという。そして、1枚の封筒を差し出す。封を切ると俺への謝意をつづった佐藤丁亜那からの手紙だった。署名の後ろにはハートマーク。
「針巣先生。退院出来たら快気祝いに飲みに行きません?」
椎名先生が職場では見せないとろけるような笑みで言う。なぜだか分からないが、俺はとんでもないトラブルの始まりの予感がした。
針巣先生、走る 新巻へもん @shakesama
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