夜の砂浜で人魚と

湖上比恋乃

夜の砂浜で人魚と

 月の明るい夜、下半身が魚のかたちをした姪が、波打ち際に横たわっている。最近のマイブームらしく、打ち上げられたクジラごっこなんだそうだ。

 姉さんに結婚相手を紹介するから、と海に連れてこられたときはわけがわからなかった。いまではすっかり慣れたけれど、義兄と姪は人魚だ。生まれてくる子に足が生えていれば陸で、ヒレであれば海でそれぞれが引き取って育てることにしたらしい。だからヒレをもって生まれた姪は、義兄と海で暮らしている。

 おれも近くに住んではいるが、そりゃあ姉さんのほうが近いわけで。こうして会いにくることは秘密でも内緒でもないけれど、ちょっとうしろめたくはある。

「ねえ、走るってどんなかんじなの?」

 波打ち際より少し離れたところがいつもの位置だ。イスを置いて、海にいる姪と会話を楽しむ。波が届くところまでが、彼女の世界。それよりこちらが陸の世界。湿ったグレーゾーン。

「んー、そうだね。イロちゃんでいうところの泳ぐ、だと思うけど」

 真面目に答えたつもりだったけれど、イロちゃんは横たわったままカラカラと笑った。

「イロくん泳げないのに、わかるの?」

「そう言われちゃうとなあ」

 足にひじをついて頭を支える。

「走ってみたいなあ」

 両手を砂浜につきたてて上半身を起こす。絶えず揺れる波が彼女のまわりの砂をさらっては、また積み上げるのをくりかえしている。穏やかな夜だった。

「泳げなくなるかもよ」

「でも母さんは泳ぐのじょうずだもん」

 たしかに。でないと人魚と結婚なんてできないか。

「声がでなくなっちゃうかも」

 月に向かって高らかに笑う。

「おとぎ話だよ、イロくん」

 最近、唐突におとなびた表情をするようになった。

「でも本当にそうなったら困るからさ。イロちゃんは魔女と取り引きなんてしないでね」

 約束だよ。うん、約束。

「でもイロくんとは取り引きしてもいいんでしょ?」

 定番になったやりとりが続く。

「うん。それはいい」

 人間と人魚の婚姻は、世界に数例ある。まず人魚の存在を認めるところから大変だったと聞くが、いまや彼らのための研究が推し進められているのだから随分な進歩だ。おれはその、足をヒレに、ヒレを足にする魔法めいた研究に携わっている。

「じゃあさ、イロくん。あれやって、あれ!」

 打ち上げられたクジラごっこと同じくらい、いまイロちゃんがはまっていることがある。

「もう遅くなるから帰りな。おにいさん心配してるかもよ」

「にーげーなーい!」

 結局やってあげることになる。いつもそうだ。サンダルをポイポイ脱ぎ捨てて、湿ったグレーゾーンに侵入する。波に出会った足跡はだんだん小さくなっていく。

「今日で最後だからね」

 両腕をさしだすと、警戒心ゼロで身を委ねてくる。

 このまま陸にあげてしまえば、ごっこでもなんでもなく君は、死んでしまえるんだよ。

 服がびしょぬれになるのもかまわず抱きあげて、深呼吸。

「いくよ」

 自分への掛け声なんだけど、イロちゃんは律儀に「いいよ」と返してくるからちょっとおもしろい。そうして、砂浜を走りはじめる。これが意外性もなくしんどい。早歩きのほうがまし、くらいの速度でもイロちゃんは楽しそうにキャーキャー叫んでくれる。もっと速く走れるようになりたいと思ってしまうからもう末期だと思う。

 砂浜で人魚を抱えて走る、何度目かの最後の夜。

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