皆が走らなくなった理由

常陸乃ひかる

皆が走らなくなった理由

 俺は二十九歳、寂しすぎてペットが欲しい独身男性だ。

 人間関係で前職、前々職――と退職を繰り返し、人と触れ合うのを拒んでトラックドライバーに転職した。が、この仕事も常に精神をすり減らす。

 主に、悪質な乗用車との闘い。あとは、眠気との闘い。

 どうやら多くの乗用車は、

『トラックは遅いから、前に割りこみしても大丈夫』

 と思いこんでいるようだ。


 最近のトラック業界はぬるい。昔なら、クラクションを鳴らされ、降車した運ちゃんに、どやされ、ブチ切れられるのが日常だったのに。

 むしろ、あのくらいでないと、逆に乗用車が横柄になるだけで――

「しまった! 考え事してたら、入るところ間違えた! 切り返せるか? ここ狭いぞ、用水路あるし。あぁもう……もう辞めたい、この仕事……」


   *


 あら、あのトラックの運ちゃん良いオトコ――

 あっ、じゃなくて私は主婦の翔子。アラフィフ。三段肉襦袢を落とすために、旦那が家に居ない昼間は、こうして内緒でジョギングをしているの。けれど、全然痩せる気配がないわ。やっぱり、走るだけじゃ意味がないのかしら。

 ん? というか、トラックが狭い道に迷いこんで困っているわね。

「ちょっとお兄ちゃん、ここトラック入れないわよー!」

「すんません、道に迷って……」

「仕方ないわねえ、ちゃっちゃとバックして抜けちゃいなさいよ! 車が来ないように、私が見ててあげるから! はい、オーライ!」

 パニくっていた彼は、私の助けもあってか、無事に抜けられたみたい。見たところまだトラックに慣れていない様子だったし、たまには人助けも悪くないわね。


「ありがとうございます、助かりました」

「ひとりで仕事って気楽で自由そうだけど、こういう時は大変ね」

「いや……運転はすべてドラレコで撮られてますし、速度だって会社に管理されてるから、昨今のドライバーに自由なんてありませんよ。乗用車も滅茶苦茶な運転ばかりで、仕事の邪魔してくるし……」

 私も乗用車に乗っている時、アクセルとブレーキだけ踏んで、ミラーもロクに見ないし、真っすぐしか見てないわね。ウインカーもたまに忘れるような……いえ、ここは黙っていましょう。彼の神経を逆なでするべきではないわ。

「彼女でも作って、気を紛らわしなさいな。人生一度きりよ! 若いんだから!」

「女よりも、可愛いワンコの方が何倍もマシです」

「草食ねえ。まあ良いわ、とにかく仕事頑張りなさい」

 私はドライバーに別れを告げ、普段の田舎道を、自宅へ向けて走り始めたのだけれど……体力の衰えって、本当に嫌ねえ……。途中、足元がふらついて、よろめいて、そのまま道路脇の用水路へ真っ逆さまだもの。

 あぁ冷たい。というか――足をくじいたか、折れたかで、とにかく痛すぎて自力では脱出できなさそうね。私、このまま死ぬのかも……。


   * *


 オレは犬。ちょっと汚い、茶色い犬だ。

 ここんとこ飼い主に虐待されてるんで、鎖がつながれてるポールを地面から引っこ抜いて、そのまま逃げ出してきてやったぜ。さーて、どこまで逃げてやろうか。

 頓馬な飼い主が絶対に追ってこれないところまで――ん? どっかから声が聴こえるな。それも道じゃなくて、もっと隅の方――


 って……おいおい、声の方へ様子を見にきてみたら、用水路に半身浸ったおばちゃんが、足をさすりながら、泣いているじゃねえか。

 まあオレにはカンケーねえ。これから野良犬生活を謳歌して――

「痛いわあ……折れたかしらあ、それとも捻挫? 歩けないわあ……」

 謳歌して――

「あぁ。誰か助けてーぇ……」

 このおばちゃん、正気か? 犬のオレに話しかけてやがる。オレのつぶらな瞳をしっかり見据えて、明らかに助けを求めてやがる。

 でも、そのうち誰かが見つけてくれるだろう。オレは脱走で忙しいんだ。もし、ここで飼い主に見つかったら、また棒で何度も叩かれる。飼い主の気まぐれと、不機嫌によって、全身がアザだらけになっちまうんだ。

 悪いけどおばちゃん、ほかの誰かに――

「あぁ、ワンちゃん……」

 ほかの誰か――

 あぁもう、しゃあねえな! 人通りのあるところまで、ひとっ走りしてやるか!


 ほれ、ワンワンワン! ワンワワン! 誰か来いよ、ワンワンお!

 おっ? 都合良く、ガタイの良い男発見。

 ほれ、ワンワン! こっち来いよワンワンワン!

「な、なんだこの犬は? なにか吠え方に尋常ではない気配を感じる。格闘家の道をひた走ってきた僕と、勝負したいのかい? いや、違う……もしかして、助けを求めて僕を呼んでいるのかい? そうなんだね?」

 よくわからないが、このガタイの良い男、やけに説明的だぞ。

 いや、そんなことより、タンクトップから伸びる筋肉質の両腕、また程よく隆起した上半身ならば、おばちゃんをひょいっと持ち上げて助けてくれるはずである。

「ワンちゃん? 僕についてこいって言っているのかい?」

 おっ、話がわかるぞこの男! 


 よっしゃ、このまま引きつけながら、はいワンワン、ほれワンワン。

 オレは数百メートル、力の限り吠えながら、自称格闘家の男をおばちゃんがハマっている用水路の近くまで連れてきてやった。

「ん? おばさんが用水路に落ちてしまい、足を怪我し、自力で這い上がれなくて困っている! 大丈夫ですか!」

 だから、なんでコイツは説明的なんだ? まあ、とにかくおばちゃんは救われたみたいだな。さて、改めて脱走犬の大冒険第一章でも始め――


「この糞犬が! ようやく見つけたぞ! なに逃げ出してんだ!」

 チッ……どうやらタイムアップか。

 いつの間にか、オレを探しに来た飼い主に見つかっちまった。

 くそ、こんなことなら人助けなんてするんじゃなかったぜ……。


   * * *


 僕がおばさんを引き上げると、お礼のキスをされかけて、それを拒んだ。途端、僕の後方から犬の悲鳴が聞こえた。

 おばさんとともにそちらに目をやると、僕をここまで連れてきてくれた犬が、粗暴の悪そうな男に蹴とばされ、棒で殴られているではないか。

 彼らにどういう主従関係があるかなんて関係ない。明確な虐待を目の当たりにし、黙っているなんて格闘家の道をひた走ってきた僕には、到底できるわけがなかった。

「やめないか!」

「なんだテメエ! 邪魔すんな!」

 僕が止めに入った瞬間、飼い主の男はありきたりな暴言を吐き捨て、脂肪で形成された鈍足パンチを放ってきた。が、大振りである。僕は軽く受け止めると、軽くひねって、軽く足をかけて、軽く転ばしてやった。

 ほどなく恥辱やら、恐怖やらで、「覚えてやがれ!」と負け犬の遠吠えを放ち、ワンちゃんを置いて背中を向けてしまったのだ。


「このワンちゃん、ほっといたらあの男に捕まっちゃうわよ」

「困りましたね……僕は最近、格闘の道をひた走るのをやめて、格闘系フィットネスを開いたんです。だから家に居る時間が少なくて、とてもペットは買えません」

「うーん――あ、そうだ! 私、心当たりがあるわよ! へっくしょん!」


   * * * *


 俺は二十九歳。ペットを飼いたい、元トラックドライバー。

「――可愛い白犬ですね。ぜひウチで飼わせてください」

「もともと茶色く汚れていたのよ。洗ったら白くなったわ」

 こないだ知り合ったジョギングおばちゃんから、会社経由で連絡が来たのが一ヶ月前――退職する二、三日前で、捨て犬が居るから良ければもらってほしいとのことだった。そして今――真っ白いワンコを抱いて、俺を訪ねてきてくれたのだ。

「ところで翔子さん、痩せましたよね? ダイエット成功ですか?」

「それがね。たまたま知り合った格闘家が、格闘系フィットネスをやってて、それに通い始めたら、みるみる痩せてねえ。だから私は走る理由がなくなったのよ。それにこのワンちゃんも同じね。走ってたのは昔の飼い主から逃げるため……」

「そうだったんですね。あ、実は……俺も走るのを辞めたんです」

「あら? 無職?」

「いえ、そうそうにフリーランスを始めて今は在宅ワークです。このワンコとも、おうちでたくさん過ごせます」

 

 こうして皆、一様に走るのをやめた。

 こだわりを捨てる。皆は、それもまた人生だと悟ったのだ。

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