KAC20212 走る

霧野

インドア派、疾走の果て


 赤い靴を買った。


 ブランド品でもなんでもない、その辺のホームセンターなんかで売っていそうな、安物のスニーカー。


 でも、かっこいい。


 全部、赤。真っ赤っか。靴ひもも赤で、靴の内側もみんな赤。ソールだけが白。

 速そう。もう見るからに速そう。なんならちょっとおめでたい感じもする。かっこいい。



 嬉しくて、届いた翌朝、日の出とともに靴を履き、外へ出た。


 こちとら生まれついてのインドア派。加えてこのところの自粛生活。

 何の用事もないのに外へ出るなんて久しぶりだ。しかもこんな早朝に。




 朝の空気が清々しい。住宅街はまだ眠っているが、おひさまと新聞配達の人はもうやる気を出している。誰もいないみたいなので、マスクを外してポケットへしまった。


 ひっそりとした、だがもうすぐ動き始める予感をはらんだ住宅街を、ひとり歩く。

 普段うるさくていらいらする工事現場も、この時間なら静かだ。自然と足取りが弾む。



 おはよう、スズメさん達。おはよう、カラスさん。朝ご飯にはありつけたかい?


 お天気にも恵まれ、朝のお散歩はとても気分がよい。なにやらむやみに優しい気持ちになってしまう。



 おはよう、名も知らぬ花よ。おはよう、どこぞの飼い猫ちゃんよ。今日もよい日になりますように。



 優しい気持ちが止まらない。我ながら不気味なほどだ。朝の光とはこうも人を浄化するものか。尊い。尊すぎる………



 あまりにも尊すぎて、気持ちが浮き立ってきた。これはもう、あれだな。足を伸ばして桜並木まで行っちゃおうかな。よーし、行っちゃうぞ。


 桜をわざわざ見に行くなんて、何年ぶりだろうか。車で出かけた(連れ出された)ついでに、ちょっと遠回りして見に行った以来だ。桜は綺麗だったが、花見客のカラオケにうんざりしたのを覚えている。屋外で、公共の場で、わざわざマイクを使ってどでかいボリュームで歌う必要が、どこにあるのだろう。しかも、たいして上手くもないのに……




 いかんいかん、不快な記憶で尊い気分が台無しだ。この通りを抜けたら河川敷のサイクリングコースに出る。少し歩けば川沿いに桜が並び、その先で街に降りればさらに、桜並木で有名な道がある。


 河川敷の土手に上がると、川沿いの桜が遠くに見えた。普段はサイクリングとジョギングする人が行き交うことで有名なコースだが、こんな時間には誰もいない。綺麗な景色を独り占めだ。

 なんだかウキウキしてきた。踏み出す足がだんだん早くなり、いつしか走り出していた。


 走るのなんて学生の頃以来だから、ゆっくり行こう。澄んだ空気を胸一杯吸い込んで、景色を楽しみながら、ゆっくり、ゆっくり……






 気づいたら、結構なスピードで走っていた。学生時代の気分で走っていた。

 インドア派とはいえ運動部だったから、当時は毎日かなりの距離を走らされたものだ。


 一度走り始めると、目の前の景色がぐんぐん後ろへ流れていくのが楽しくてぐんぐん走ってしまう。そしていきなり力尽きて、バッタリ倒れる。反省してちょっと休むと、また走り始める。そしてまた楽しくなってしまい、ぐんぐん走って……しまいには景色なんてどうでもよくなって、ただただ風を切る感触を味わい続けるために走り続けて……また倒れる。


 バカである。まったくもって、バカの走りである。



 やっぱり私はインドア派をやってる方が向いているというものだ………とか思いつつ、走りは止まらない。むしろスピードが上がっていく。やめられない止まらない。気持ちいい。風が前髪をかきあげ、荒々しく頬を撫で、服をはためかせる。視界の下に赤い靴がめまぐるしく交互に現れては消え、軽快な足音を残して私を力強く運んでゆく。

 汗が流れる。顔が熱い。鼓動が早い。息があがり胸が苦しい。でも、足を止めることはできない。この赤い靴は、誰にも止められない。もっと先へ。もっともっと先へ。どこまで行くのか。どこまでも、どこまでも………




 ふっ、と体が軽くなった。汗が引いて胸の苦しさからも解放された。


 気持ちいい。とても気持ちがいい。なんという開放感だろう。



 川沿いに立ち並ぶ桜を通り過ぎ、その先の桜並木も走りぬけ、私はどこまでも走った。天高く日が昇り眩しい光の中を。日が傾き、はちみつ色の優しい光の中を。日がかげりやがて暮れて、茜色に染まりゆく中を飛ぶように…………走っているあたりで、ようやく気がついた。



 。自分の身体を、置いてきてしまっていた。走るのに夢中で、身体をどこかへ置いてきぼりにしてしまったのだ。



 バカだ。まったくもって、バカの走りである。っていうか、そんなバカなことってある?! 有り得なくない? ありえなくない? アリエナクナーーーイ?!


 いいえ、アリエールでしょう。って、うるせえええええ!!!



 そう自問自答とセルフ突っ込みをしながらも、走りは止まらない。身体が無いのだから、そもそもどうやって止まればいいのかもわからないのである。



 身体はどこに置いてきちゃったんだろう。

 そういえば最近、めまいや動悸がしたな。頭痛もたまに。長年の不摂生と運動不足がたたって、どっかで倒れたのかな。通りすがりの誰かに発見されて、病院へ運ばれただろうか。

 それとも誰にも見つからず、野ざらしに? いやいや、そんな辺鄙なところは走ってないはず………そうか? 本当に? もはや、どこを走ったかなんて憶えちゃいない。 とにかく先へ、もっと先へ進みたいという衝動のまま、走り続けていたのだ。




 なーんて、一応身体の心配などしてみたけれど、実を言えばそれほど気にしていなかった。家族に迷惑をかけるなぁとか、数少ない友人も悲しむかな、という思いも一瞬よぎった。よぎったが、今ではそれらは瑣末なことに思えた。


 そんなことより走るのだ。気持ちいいから、走るのだ。しがらみや記憶、肉体さえも置き去りにして、私はただ走る。ビュンビュンと風を切って、いや、私はもう既に、風だった。


 帰宅中の女子学生のスカートの裾を揺らし、サラリーマンのコートをはためかせ、OLさんの髪を吹き流し……どこぞのお店ののぼりをひるがえし、梢をざわめかせ、大きな翼の鳥を乗せ………川を越え山を抜け、海を渡り………夜をすり抜け昼を過ぎ去り、星の間を駆け抜け月の頬を撫で、太陽に灼かれても、私はまだ走り続ける。どこまでも、どこまでも。




 私は、風になった。赤い靴で走り続けて、風になった。



 だからもう、インドア派ではなくなったみたいだ。




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