ランドラッグ
名取
RUNDRUG
走ってる時だけ自由になれる、とそいつは言った。
「本当にすげえんだって。マジでやばい。こんな上モン滅多に出ねえよ」
そいつが持ってきたのは薬だった。恐ろしく興奮している。路地裏の淀んだ空気の中で、長いこと座りっぱなしのあたしは、それを仰ぎ見て疲弊の息をついた。
「あんたねえ。それはうちらを死ぬまでこき使って走らせるために、国が作った最低のヤクなんだよ。売り物になんてなりやしない」
「国でも組でもどっちでもいいよ。とにかくこれすごいんだって」
全然聞く耳を持たないそいつは、そそくさとかがみ込み、錠剤をあたしの手に強引に握らせる。迷惑な客だ。あたしはうんざりしながら、ほんの少しガスマスクのゴーグルをずらし、そいつの顔を覗き見た。泥と煤だらけの顔は酷くやつれて、不自然に赤く、ひっきりなしに発汗している。声色はさわやかな好青年そのものなのに、目の焦点はまるで合っていない。
「あんたさ……これを持ってるってことは、金にはもう困ってないってことなんじゃないの。配給と給料、出るんでしょ? ドリームランナーってやつには」
「うん、まあね。でもやっぱ、もっといろいろ必要なんだよ。気持ちよく走るためにはさ」
ああダメだ。あたしはゴーグルを元に戻し、フードに深く顔を隠した。こうなってしまった
「帰ることだね。ここは、あんたみたいな裏切り者が来る場所じゃないんだよ」
路面に滲み出た廃油にも似た、ギラギラした笑顔を浮かべたままで、そいつは身悶えして狂ったように叫ぶ。
「なんでだよ! これさえあれば、みんな幸せになれるのに。なんでわかんないんだよ、デルタ!」
また始まった。心の中で吐き捨てて、あたしは痛む腰をさする。ドリームランナーの自分語りはいつも暑苦しくて長いのだ。
「走んなきゃなあ……努力しなきゃ、世界はよくならないんだよぉ。俺らが発電床の上で走ることで、電力が生まれて、そしてその電力で生命維持装置を動かすことができる。そしたらさぁ、経験豊富で頭のいい長老方が政治をお続けになられて、国が戦争を続けられる。つまりこの国を敗北から救ってんだよ。俺らがこの国を背負ってんだよぉ」
半分くらいは的を得たことを、そいつは言った。
第三次世界大戦が始まり、エネルギー資源を輸入できなくなったこの国は、なんと不足した電力を人力で確保することに決めてしまった。そのために作り出されたのが、通称「ラン・ドラッグ」——走ることで得られる脳内麻薬を数十倍にする代わりに思考力と判断力を奪う、世にもおぞましい薬だった。そしてこれを服用して発電にあたる、12歳以上の若者たちを「ドリームランナー」と呼ぶのだけれど、逃亡者は後を絶たない。彼らはあたしのように無法地帯で暮らすか、警察に見つけ出されて射殺されてしまう。
またそれとは反対に。
薬と名誉欲しさに自分から志願する、スラム生まれの腐ったジャンキーもわずかながらに存在する。
「そもそもな。デルタ」
突然そいつはあたしの肩を掴み、がくがくと揺さぶる。
「お前らクズ露天商が生きていけるのだって、全部ドリームランナーのおかげなんだぞ。だったら当然協力すべきだろ。なあ?」
「あんたいい加減にしなさいよ」
あたしは近くの水溜りにランドラッグを投げ捨て、その場に立ち上がる。
「あたしが生きてるのは、ここまで頑張ったあたしのおかげ。捨てられてた赤ちゃんのあたしを拾って、ここまで育ててくれた知らないおっさんのおかげ。会ったことも見たこともない、必死に機械にしがみついて戦争遊びにふけってるだけの汚い老いぼれなんて知ったことじゃない。そんな奴らのために、薬漬けになってまで走ってるだなんて、はっきり言ってバカだよ」
ガスマスクのゴーグル越しに、あたしは男を睨みつける。そいつは何を言われているのかわかっていないのか、しばらくギラギラ笑顔のままだったが、やがてふっと表情を消して機械みたいにこう言った。
「お前みたいなクズにはわかんないんだよ。走ることの素晴らしさが。俺たち若者の美しいエネルギーの発散が、老人たちの枯れた心を潤し、そして世の中全体が元気になる。この輝かしい循環の輪が。お前らは一生この尊い輪には入れない。薄ら汚い空気の中で、日の目も拝めずに死んでいくんだ」
あたしは勢いよく駆け出した。座りっぱなしだった体はびっくりしたように軋んだが、構っていられない。フードとマントをしっかり被り直し、ブーツで凸凹の地面を必死に蹴って路地の奥へ逃げる。半分だけ振り向いて後ろを見ると、男はさっきの場所に立ったまま、優雅にストレッチを始めていた。
「……」
ニッコリと歯を見せて笑うドリームランナーに、ゾッと全身に鳥肌が立つのがわかった。ガスマスクの内部が暑くなり、鼻と口元が汗で蒸れる。走るのはこれだから大嫌いなのだ——無駄に疲れるし、肌に悪い。
「さぁて! 行こうか!」
獣のように獰猛で、しかしどこまでも爽やかな独り言が聞こえる。でもそこそこ距離は離せたし、そうそう追いつかれることはない。今のうちにどこかに隠れるか、とわずかに足を緩めたその時だった。
「え、」
視界の端に映ったのは、満面の笑みで走る化物の姿だった。
体を左右に大きく揺らし、歓喜に震える口を大きく開き、唾液を撒き散らしながら、前のめりになって前進する何かが、あたしの横を通り過ぎる。変な人工甘味料みたいな甘ったるい匂いがした。かなり距離が空いていたはずなのに、気づけばもう数歩の先に、奴はいた。
「へっっへへへへへへへっっへ! ハハーッ!」
どうだ、速いだろう。すごいだろう。
どこまでもそう言いたげな形相だった。玉のような汗がびっちり吹き出し、眼球は飛び出んばかりに血走って、表情筋は過剰な負荷に歪み切って戻らない——もう人間には到底見えない顔になっているというのに、全身から溢れ出る生々しい自己顕示欲だけは、悲しいほどにヒトらしかった。
「楽しい! 楽しい! 楽しいよおおおおおおお!」
泣き出しそうな歓喜の声で叫びながら、奴はこちらに手を伸ばす。
「……あんた、今まで会った奴らの中では一番速いね。アホ面だけどさ」
あたしは後退りながら、最後の皮肉を言った。化物の手がガスマスクに触れ、終わりだと悟ったその時、路地裏が突然光で溢れた。
「ランナーNo.0645に告げる。支給品を売買することは規則で禁じられている」
化物の背後に、白服の警官が立っていた。
電子スコープ越しにこちらを一瞥した彼は、ドリームランナーの顔を認識すると、躊躇なく銃を撃つ。あたしはその幸運な一瞬を逃さなかった。懐から煙幕を取り出して投げ、再び走り出す。
一人必死に路地を駆けていく途中で、化物の嘆きが聞こえた気がした。
「なあ走らせてくれよ。俺は走りたいんだ。走らせてくれるだけで、それだけでいいんだ……どうか助けて……」
痛ましい、懇願の言葉。あたしの幻聴なのか、あるいはまた大声で叫んでいるだけなのか。いずれにせよ、きっと彼は——自由になりたかったのだ。もしかしたら、ドラッグ目当てで志願したのではなく、ただ純粋に走ることが好きで、それを仕事にしてみたかっただけなのかもしれない。そういう馬鹿な夢を見たのかもしれない。あるいは、やはり薬で、走ること以外考えられなくなっているだけなのか。
あたしにはわからなかった。
だから、ただ走った。
息が切れるほど走って、走って、走り続けた。
でもいくら走っても、自由になれた気なんて全然しなくて、あたしはついに道端にくずおれて泣いた。息苦しさに耐えられなくなって、ガスマスクを外して空気を吸い込むと、廃油の匂いがしてまた苦しくなる。
走るのなんて、やっぱり嫌いだ。
だから他人を走らせてまで生きていたいと思う奴らは、やっぱり頭がおかしいのだ。走らなくたって……別に急がなくたって。人はちゃんと、前に進めるのに。自転車だって、乗り物だってあるのに。どうして走ることにしたの。他と競うことにしたの。ひとを、殺すことにしたの。
走りたいと叫ぶ声は、もうとっくに聞こえなくなっていた。けれど彼の魂は、きっと永遠に彷徨うのだ。あたしは絶望しながら——涙でぐしゃぐしゃになった顔を淡々と拭いながら、静かに悟った。
神の御許に昇ることも、地獄に落ちることさえできず。
あたしたちはこの最低な地べたの上を、水平に走り続けるしかないのだろう、と。
ランドラッグ 名取 @sweepblack3
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