3.11を思い出す。宮城県の沿岸部にいました。

夕日ゆうや

震災の時、宮城沿岸にいました。

 最初に申し上げますが、私は被災者です。でももう立ち直っています。同級生には親族に……、実家が……といった被害はありましたが、私は比較的に軽微でした。

 実家は仙台市。私は大学生で、沿岸にいました。近くには大きな川があり、そこを伝って津波が押し上げてきました。近くには高校があり、そこに避難したのですが、高校の一階が浸水。

 次の日には高校の一階と校庭にヘドロが広がっていました。車も津波で押し流されていました。


 同級生とケンカになりかけたり、他の人との生活にギクシャクしたりしたので、避難所生活はかなりピリピリしていました。特に、キライな人と一緒なのが辛かったです。

 避難所での生活は三日ほど。そのあとは自衛隊がきてくれたり、臨時のバスが出たり、しました。

 避難所の三日は、食糧不足が問題で、小さなおにぎりや保存食(パンだったかな)で飢えをしのいでいました。水も、途中で途切れてしまい、自衛隊がきてくれなかったら、大変なことになっていたでしょう。


 私事で申し訳ないですが、キライな人は頭を叩いたり「死ね」と言ってきた人なので、キライになりました。その他にふった、ふられた関係の人もいたので避難所生活は辛いものでした。


 三日後に実家のある仙台市に帰ったのですが、断水と停電。そこで二日・三日と過ごしました。幸い雪が積もっていたので、トイレの水として利用させて頂きました。

 被災から五日後、水や食糧は近くの中学校で配給・給水していたのでなんとかなりました。

 それまでは冷凍食品や冷蔵していたもので食いつないでいました。


 同級生いわく、水のひいた街中に遺体が残っており、トラウマものだったそうです。他にも私の同級生が浸水被害のある地域で、二階に取り残されたり、していたそうです。

 他にも、実家が流された。親族が亡くなった……といった大変ショックな出来事を聞きました。


 ここまで読んでいただき、ありがたい限りですが、地震のあとの津波はひどいものです。

 地震でも被害があり、私の目の前に蛍光灯が落ちてきて、危なかったです。へたをすれば直撃していました。

 今、こうして生きているのは偶然なのだと、思い知らされました。


 自分はこうはならない、自分は安全、なんて考えでは甘いです。明日は我が身という言葉があるように、普段から防災に意識を向けるのが重要かもしれません。

 地震で電車が止まったとき、知らない土地で下ろされるかもしれません。沿岸部で地震がおき、津波が襲ってくるかもしれません。地震で高層ビルの窓ガラスが割れ、破片が降り注いでくるかもしれません。


 住んでいる土地にて、柔軟な対応を求められるので、お気をつけください。

 食糧・飲料水は一週間は貯蓄していると安全です。食糧は乾パン、缶詰などがいいでしょう。

 備えあれば憂い無し。


 とにもかくにも、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 みなさんが防災に意識を向けてくれたのなら幸いです。


 ではでは。


※個人情報になるので、これ以上について話せません。ご了承ください。

※個人的な意見です。

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3.11を思い出す。宮城県の沿岸部にいました。 夕日ゆうや @PT03wing

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