スプリンター夏目奈々子の災難

RAY

スプリンター夏目奈々子の災難

 

 一月下旬のとある日曜日。人気ひとけが疎らな海沿いの国道に、アスファルトを蹴り上げる、タッタッタッという、小気味良い音が響く。


 音の主は、真新しいランニングウェアに身を包んだ、ボーイッシュな少女。

 茶色味がかったサラサラの髪をフワリとなびかせながら歩道を走る様は、とても楽しそうでキラキラ輝いている。ところどころに水溜りができてはいるが、弾むような足取りが乱れることはない。


「天気、何とかもちそう」


 長いまつ毛に縁取られた、涼し気な瞳がかすかに微笑む。

 灰色の雲の切れ間からは青空が覗き、明るい光がこぼれている。


 少女の名前は 夏目なつめ 奈々子ななこ。小学六年生。先月このあたりに越してきたばかり。理由わけあって祖母と二人で暮らしている。


 細身の身体にまとっているのは、ラズベリーレッドが鮮やかな、フード付きのジャケットと黒いショートパンツ。それから、幾何学模様が入った、濃紺のレギンスに赤いランニングシューズ。

 雨が降ったり止んだりの愚図ついた天気だったが、前の日に買ってもらった、ピカピカのウェアとシューズで走りたくて、祖母が止めるのも聞かず家を飛び出した。「おばあちゃん、ごめんなさい」。心の中でひたすら謝りながら。


 この四年間、奈々子は毎日のように走っていた。

 ただ、そのとき身に付けていたのは、着古した普段着に穴が開きそうなボロボロの運動靴。今とは雲泥の差があり、まるで魔法を掛けられる前と後のシンデレラみたいだった。


 左手の手首に巻かれたランニングウォッチの表示は「10:52」。家を出てからかれこれ一時間が経とうとしていた。

 本音を言えば、もっと走っていたかったが、祖母に昼までに帰ると約束した手前、後ろ髪を引かれる思いでクルリと向きを変えた。


 国道を一本入ると道幅が急に狭くなり、昔ながらの商店が軒を連ねる。いわゆる問屋街で日曜日はほとんどの店が閉まっており、人のいる気配は感じられない。

 不意に後方から一台の軽自動車が近づいてくる。

 奈々子はチラリと後ろを振り返ると、歩を緩めて道路の端に身を寄せた――が、次の瞬間、想定外の出来事が起きる。


 道路にできたわだちに軽自動車のタイヤがはまり、溜まっていた泥水が噴水のように舞い上がった。奈々子は頭から水をかぶり、真新しいウェアは泥塗どろまみれになる。


「ごめんなさい! 怪我はありませんか……って、大変!」


 停止した軽自動車のドアが開き、ワークシャツにジーパンという、ラフな格好の女性が血相を変えて飛び出してきた。ずぶ濡れになった奈々子を見て「取り返しのつかないことをしてしまった」といった表情で口を両手で覆う。


「どうしよう……そうだ! 今からあたしの家まで来てちょうだい!」


 突然の申し出に奈々子の顔が強張こわばる。

 

「大丈夫。もともと雨で濡れてたから。それに家も近くだし」


 人見知りの激しい奈々子は何とかその場をやり過ごそうとする。


「ダメ、ダメ! 風邪引いちゃうよ! それに、このまま帰すなんて『サンシャイン・クリーニング』の名折れだもの。汚点が残っちゃう。クリーニング屋だけに汚点を残すのはマズイ……それは置いといて、あなたとその服、どちらも元通りにさせてもらわないと気が済まないの。一時間でいいからいっしょに来て! お願い!」


 長い髪を頭の後ろで一つに束ねた女性は、両手のてのひらを合わせると深々と頭を下げる。しかし、奈々子は、申し出を無視してその場を離れようとする。


「わかった! あたしが怪しいおばさんに見えるんでしょ? 確かに誘拐犯だって言われてもおかしくない状況だわ……。こうしましょう! 私の携帯からあなたがお家の方に電話をするの。その後、あたしが今の状況を説明してあなたを連れて行くことをお願いする。もしお家の方がダメだって言ったら諦める。それならいいでしょ?」


 そう言うが早いか、女性は奈々子の目の前に赤色の携帯電話を差し出す。

 奈々子は訝しい表情を浮かべる。なぜ女性がそこまでするのか理解できなかった。責任感が強いと言うよりお節介に近い。ただ、このままではらちが明かないことから、とりあえず祖母に電話を掛けることにした。自分のことを理解してくれている祖母であれば、女性の申し出を断ってくれると思ったから。


「おばあちゃん? 奈々子です。今近くの問屋街にいるんだけど、おばあちゃんと話がしたいっていう人がいるの。ちょっと代わるね」


 携帯を受け取った女性は丁寧な口調で状況を説明する――が、突然驚いたような声をあげる。


「夏目……先生……? 夏目先生ですか!? ご無沙汰しています! 以前、先生のお宅でお茶を習っていた吉野です! サンシャイン・クリーニングの『吉野よしの頼子よりこ』です……! と言うことは、この子は先生のお孫さんなんですね? なおさらこのまま帰すわけにはいきません!」


 口から心臓が飛び出しそうになった。

 女性が祖母と知り合いだったこと以上に女性の名字が彼――吉野陽太と同じだったことに驚きを隠せなかった。

 珍しい名字ではないことから単なる偶然なのかもしれない。しかし、その女性には陽太の面影があるような気がした。加えて、お節介なところもそっくりだった。


 女性が再び携帯を奈々子に手渡す。どうやら話がまとまったらしい。

 電話に出ると祖母がいつもの穏やかな口調で言った。


「頼子さんが家まで送ってくれるそうよ。今日のお昼は少し遅めにしましょう。ご迷惑を掛けないようにね」


★★


 軽自動車が「サンシャイン・クリーニング」と書かれた店の前で止まる。シャッターが下りていることから休業日のようだ。

 吉野頼子と名乗った女性は車の中でもしゃべり続けていた。ただ、その表情や話しぶりから悪い人でないのはわかった。

 頼子には六年生の息子がいて、朝から父親といっしょに室内陸上の大会を観戦に行っているとのこと。奈々子は彼女が陽太の母親であることを確信する。


「――Tシャツとジャージの上下、置いておくね。男物だけど我慢してちょうだい。一時間以内にあなたの服はピカピカにするから。プロの威信にかけてね。そうそう、下着はお風呂を出る前に乾かして脱衣所に置いておくから」


 奈々子が湯船に浸かっていると脱衣所から頼子の声がした。汚れた服はすでにクリーニング中のようだ。


 まさか陽太の家に来ることになるとは思いもよらなかった。しかも、風呂に入るなんてあり得ない。脱衣所に用意された着替えはおそらく陽太のものだろう。恥ずかしさが込み上げてきた。

 ただ、奈々子は恥ずかしさ以上に戸惑いを感じていた。普段から他人との間に壁を作って心を開くことのない彼女が、初めて訪れる場所でリラックスしているのがその理由。


『吉野くんの家だから?』


 頭の中にそんな言葉が浮かんだとき、入浴剤の柑橘系の香りが奈々子の身体をスッポリと包み込む。冷えた身体がお湯に馴染んできたのか、身体中がポカポカしている。


『吉野くんもこのお風呂に入ってるんだ』


 目をつむると、陽太の姿がぼんやりと浮かぶ。


『吉野……くん?』


 奈々子の脳内で陽太のビジョンが再現される。最初は顔だけだったが、次第に視点が首から下へと移って行く。同時に、細部か鮮明になっていく。風呂だけに当然服は着ていない。


「わ、わたしったら、なに考えてるの!?」


 思わず大きな声を出してバスタブの中で立ち上がった。

 顔のあたりが熱い。呼吸が苦しい。お湯にのぼせたわけではない。


「奈々子ちゃん、どうかした? そっち行こうか?」


 声を聞きつけた頼子が廊下から脱衣所を覗き込む。


「な、なんでもないから! 大丈夫だから! すぐ出るから!」


 頼子の言葉に動揺しながら、奈々子は再び湯船に身体を沈めると、俯くようにお湯に口をつけた。ブクブクっと小さな泡が立つ。何か言葉を発したようだ。

 奈々子は戸惑っていた。ポカポカとドキドキがいっしょになったような、不思議な感覚に。



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