たどり着けない女

マフユフミ

第1話

女は走っていた。

ただひたすら走っていた。


ビルの立ち並ぶ賑やかな街のアスファルトを駆け抜け、人気のない裏通りを進み、日向ぼっこの野良猫の横をすり抜け、それでも休むことなく走る。


品のいい黒のパンプスはもう薄汚れてしまっているし、カツカツ鳴っていたはずの靴音はいまやガサガサした音しか生み出さない。それでも女はガサガサ走る。走る。


いつの間にか日は傾き、夕焼けがあたりに広がり始める。

オレンジに染まる街の中をただ一人、脇目もふらずに女は走った。


不思議なことに、これだけ走っているというのに疲労感はない。


絶対的な距離感を持ち合わせている自信はないため、どれだけ走ったのかなんてまったく分からないが、フルマラソンの一つや二つ走破しているのではないだろうか。


履き潰しそうになっているパンプスや、すっかり着崩れてしまっている涼しげな水色のカーディガンがその証拠だ。

だって、ただのOLが1日で靴を履き潰したり、羽織ものをこんなグダグダに着潰したりしない。めちゃめちゃに走ったり、めちゃめちゃに雨に濡れたりしなければ、こんなことにはならないはずなのだから。


そこまで考えて、女はふと思う。

自分は自分のことをただのOLだと知っていたのか、と。

そして、その時初めて、女は自分のことを全く覚えていないことに気づいたのだった。


晴れていた日中が嘘のように、空は分厚い雲に覆われていく。

街を美しく彩っていた夕焼けはあっという間に飲み込まれ、あたりは重いグレーに染まった。

そんな中も走る。

ただ走る。


やがてぽつりぽつりと水滴が女を濡らし始める。

ぽつりぽつり、ぽつ、ぽつぽつ、ぽつポツポツポツ……ザ、ザァー……


ザーザーと唸りを上げる雨の中、やはり女は走る。

踏み出す足は水滴を跳ね上げ、ただでさえ傷んでいた靴は激しい雨にその生気を奪われ、バシャバシャバシャバシャと音を鳴らす。

ぬかるみも、大小問わない水たまりも。

全てを踏みしめて、女は走る。


私が誰なのか、いつから走っているのか、ここはどこなのか。

自分で自分を忘れていると気づいたときから、最も気にすべき出来事に女は全く興味がなかった。

興味がない、と言うと語弊があるかもしれない。なぜかそこを追求する気持ちになれなかった、ただそれだけだ。

強いて言うなら、女は走りたかった。今までのように、これからも。

その欲望のおかげでパニックに陥らずに済んだのだから、女はこの衝動に感謝する。


疲れないならば走るとはいいものだ、と女は思う。

目に見える景色をすべてビュンビュン後ろへ飛ばし、この世に自分がいるというすべてのしがらみさえすっ飛ばしてしまう感覚。

悲哀の欠片もない、ただ爽快な喪失。

女はただの女としてここを走る。

目的も目標もないまま、走る、走る。


なんなら、よくある比喩のように風にさえならない。

どれだけ快調に走ろうが、「風になったような感覚」とは似ても似つかない一人の女がそこにいるだけだ。


何者でもない女がただひたすら走る。

誰かも何所へかもわからない。

女は晴れた朝も雨の夜もただひたすら走っていた。

決してどこかにたどり着くこともなく、走ることだけを意味として、女は走っているのだ。


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たどり着けない女 マフユフミ @winterday

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