第3話 今でも‥

「マイセンですけどいいですか」


 川端先輩は船の中央にある備品箱を開け、船検証や発煙筒などの法定備品、あと溺者救助のさいに保温のために飲ませるウイスキー、その下からタッパーを出した。


 濡れてはいけないものなどは、このタッパーに入れて船内に持ち込むと非常に便利なのだ。煙草とかメモとか今なら携帯電話とかもね。


 そのタッパーの中からご自分のマイルドセブンと百円ライターを取り出し、まず山本先輩に1本渡すと、両手で風を遮りながら火を着け、川端先輩自身も自分で1本くわえて同じように海風で火が消えないよう慎重に手でかこんでから着火させた。


「堀、お前も吸うか‥」

 僕にもお誘いがきた。でも先輩方はご存知のはずだが僕は煙草は吸わない。

「いえ、僕は‥」

「そうだったな‥」

 小船の舷側に背中をあずけて川端先輩は煙草をくゆらせた。山本先輩は船尾でいつものように椅子替わりのビールケースに座り、こちらも煙草を吸って空を見上げている。


 二人とも実にうまそうにおだやかに煙草を味わっている。本当においしそうだ。

 そこはまるで練習の合間の休憩時間のようであり、いつもの風景だった。

風が強いが空には雲もなく、三月の晴れたいい日だった。

 僕は二人のその姿を見たとき、

“ああ、生きられるんだな‥よかった”

 と思った。全身の力が抜ける、これも現実にあるんだな、心のそこからほっとした。

 煙草を吸って、いつもの変わらない、余裕たっぷりの先輩方の喫煙風景は、下手な励ましや言葉より、

“生きられるんだ‥、僕が思うより最悪ではないんだ‥。だって先輩の姿を見てよ。これが遭難者に見える?”

 そう思わせた。


 煙草を手にしているお二人は、まさに安心を絵にしたものだった。

 三人をとりまく空気、いや僕だけをとりまく空気が一変した。先輩方はね、落ち着いていたからね。

 思えばまだ朝だ、時間はある。

 他の大学のヨット部だってそのうち出艇してくるかもしれないし、陸には他の部員もいる。何時間も帰ってこなかったらね、通報もしてくれるだろう。

いや、この先輩方の余裕はちがうな、僕の知らない予備燃料タンクでもどこかにあるんだろうな‥、こんな優雅にかまえているなんてね、きっとそうだよ。

 他のヨット部ならともかく、保安庁にお世話になったらさ、活動停止とかにもなりかねないしね。

 なにはともあれ、煙草を吸うぐらいの余裕があるんだから、大丈夫なんだろうな‥。


“煙草っていいかもな‥”

 僕はこの時のことを思い出す度にいつもそう感じた。そりゃあね、吸っている本人の健康にもよくないし、周囲の人にもよくないのはわかっている。歩き煙草を吸っている人の後ろなどを歩いているときは、

“マナーを考えてよ、周りを考えてよ”

 と思うけれど。

 あと、子供つれているとき時も近くで吸われるとね、嫌な気分にはなる。

 だけど、あの海上での先輩方の姿を思い出すと

“そう悪くないんじゃないかな‥”

 ってね、この年になっても思う。

あの光景は、三十年ほどたった今でも目に浮かぶ。

 冬の薄い青空、かすむ三浦半島、岩礁、白波、対寒ように着込んだ山本先輩とドライスーツを着た川端先輩。船底のすのこに緑の備品箱。

 アンカーを打っているので、船は風上を向いている。バウ(船首)にいる僕のほうから風が吹き、先輩方の煙草の煙は船尾に流れていた。

 余裕やゆとり、落ち着きがね、いい意味で伝わって、煙はともかく、お二人の煙草は僕に希望と落ち着きを与えてくれた。

“煙草は吸わないけれど、いつか先輩方のようにね、後輩やみんなにピンチの時でも余裕を見せたいな”

 理想だね、でもいつかそうなりたいと感じた。


 さて、僕はまだ生きていて、その後結婚してできた一人娘も幼児のころは入院したり大変だったけれど、今年は大学にも入って元気でいる。

 そう、僕や先輩方はあの状況から生還した。


 先輩方二人は海の男だから、煙草の吸殻はちゃんと携帯の灰皿、ようは缶コーヒーの簡易灰皿に捨て、一服ついたあと、おもむろに僕に言った。

手には何か持たれている。

「堀、漕ぐぞ、アンカーあげろ」

“え‥漕ぐ”

 これは声には出なかったが、表情に思いっきり出た。やっぱりね、予備燃料はなかった。

「はい!」

 僕は先輩の差し出したオールをもらい、すぐにアンカーを上げ、そのままバウで漕ぎ、川端先輩は船の中央で、山本先輩は船尾でオールを動かした。

 テンダーにもエンジンはついているとはいえ、ちゃんとオールも装備している。

 ちなみにヨットにも万が一のためにオールは装備されている。

 今度は本当の汗をかいた。でもなんか、いい汗だ、希望の汗だね。


 長い道のりというか、道はないので海路というのか、休憩をいれたり、なんやかんやで二時間ほど漕いで、大分陸に近づいた頃、いつまでも戻らない僕らを心配した二年の根岸先輩とケイスケが、風もだいぶ弱くなってきたこともあり、何事かということでヨットを出艇してきてくれた。


「三人でテンダー漕いで、何あそんでんだ」

 と根岸先輩は思ったそうだが、すぐに察して、優れた技術でテンダーに接舷し、タンクを受け取ってくれた。風を動力にするヨットで細かい動きの接舷はね、難しいんです。

 ヨットは陸に戻り、すぐに満タンの燃料タンクを運んできてくれた。

 救助艇が救助される、かなりのレアケースがここに生まれた。


 後年、僕も船舶免許をとったが、車の運転もそうだけど、出発前に燃料の確認は基本中の基本だ。山本先輩も実は責任を感じていただろうし、川端先輩もおそらく確認しなかったことに後ろめたさもあったのかな。

 でも、根岸先輩には一年生全員、

「ちゃんとやっとけ」

 と怒られた。当然です、はい。

 合宿も、そしてその後、卒業するまで僕らはヨットに乗り、テンダーにも乗った。

 テンダーに乗り込むさいには、勿論、法定備品とそして燃料のチェックも忘れなかった。ちなみに夏でもウイスキーは積んでましたね。

 上級生になり、テンダーの船長として、それこそ何度も乗ったが、幸運にして船外機の故障も燃料切れもなかった。

 もし何かあったらね、僕だったら、どうしようかなって考えたことがあったけれど、煙草吸わないしな‥。

 でも、あの時の先輩方は、かっこよかったな。

 

 喫煙者には厳しい世の中で、以前勤めていた会社には、喫煙室はあったけれど、小さくて狭くて。でも僕は吸わないけれど、よく喫煙室で仕事の話しや、雑談をしていた。打ち合わせには一番いい場所だったし、僕はこんなこともあって、煙草って時と場所にもよるけれど、

“悪いことばかりじゃないんじゃないかな”

 って思っているので。

 今でも。

                                   了

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煙草は吸わないけれど @J2130

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