第2話 まさかね‥
当時大学一年生の僕とケイスケとケンタが練習後に船外機、いわゆるエンジンをテンダーからはずして、真水を満たしたバケツにペラ(プロペラ)部分だけを入れ、アイドリングしてエンジン内の塩抜きをし、タンクに燃料をいれて翌朝に備えるのが日課になっていた。
「今日は早く帰れ、俺がやっておくから」
ハーバーマスターの山野さんは用事があったのか、昨日の夕方、薄暗いヨット置き場で僕ら一年生が作業をしていると不機嫌にそう言った。
逆らうわけにはいかない、お世話になっているしね。
「お疲れさまでした!」
元気よく挨拶してその場を後にした。
燃料タンクには補充しないままだった。
「昨日、山野さんに‥」
僕は事情をお二人に話した。でも一年生の責任なのは確かだ。
「積み込むときにわかったろう」
川端先輩が怒るでもなく訊いてきた。
「すいません‥」
僕は謝ったが、今朝は誰が船に積み込んだんだっけかな‥ケンタ、ケイスケか‥。
「川端、悪い、俺がタンク持ってきた」
山本先輩が言った。
「あ‥そうですか‥」
川端先輩、気まずそうだ。
いつもタンクを運んでいる一年生なら、明らかにタンクが軽いと分かったのに、よりによってこの日に限って三年生の大先輩が我々一年生に気をつかって運んだなんてね‥。先輩も数年前なら軽いことは分かっただろうが、幹部になったらね、タンクの重さも忘れたよね、間が悪いというか‥。
周りには漁船も部のヨットもいない。
そう、たまたま今回は補助すべきヨットは陸に待機している。いつもならね、ヨットを引き連れていっしょに沖に出て、マークを打つのに、いつもなら。
まさか、昨日、燃料の補充をしていないとは、一年生も山野さんも。
まさか、この日にかぎって三年生がタンクを運ぶとは。
まさか、今回にかぎって、テンダーだけで沖にでるとは‥。
まさかね‥。
僕は焦ったというか、動揺した。
燃料もなく、小船は沖にいる。風も強くこのままではきっと流される。
どうなる‥、最悪はこのまま‥。
三月、晴れてはいるが、海上は寒く、それでも僕は汗をかいていた。冷汗だ。冷汗って本当にあるんだ‥。
どうする、どうなるの。
え‥、今、ひょっとして絶望的‥。
しかも僕も含めて一年生の責任だよね。
うあ‥、最悪だ、最悪。
小さい小船の中で身を隠せるものだったら隠したかった。先輩方に申し訳ない、どうしよう‥。
僕は遭難、それによる絶望を目の前にしていた。現実にあるんだな‥、こんなことって。現実なんだよな‥この状況。
まさに大海の小船であり、その上の小さな三人の弱者、迷い人だった。
「堀、アンカー(錨)打て」
山本先輩は空のタンクを置くと僕に指示した。
“アンカー、今?”
「はい‥」
バウ(船首)からこのテンダーのアンカーを下した。砂にかんで、とりあえず海流と風には流されなくはなった。
とりあえずはね、この位置には止まったけれど。
「今日の満潮は覚えてるか?」
また山本先輩からだ。
川端先輩が応えた。
「次の満潮は‥」
新聞で見てきたけれど‥覚えてないよ。そんな余裕ない。
なんなんだ、なんなんだよ、この状況がわかってますか?先輩方。
「そうか‥、まだ満潮までは時間あんな」
山本先輩、おだやかだ。
さっきから一年生の僕のことも怒らないし、ちょっと気味が悪い。川端先輩も怒らないし、意味がわからない。
遭難が目の前の状況なんですよ、ねえ、先輩方。その責任の一端は我々一年生なんですよ。ねえ、先輩方。
そんな時だ、山本先輩はこう言った
「川端、煙草ないか‥」
“煙草‥、この状況で煙草‥”
僕は“え‥”と頭の中で言ったはずだが、おそらく近くの川端さんには僕の頭の中の声ではなく、本当の声が聞こえたのだろう。
ちょっと振り向いた。
後になってというか、何年たってもOBになってからも川端先輩にはよく言われたものだ。
「堀のあせった顔、初めて見た。後にも先にもなかったけれど、あの時、初めて見たな」
そりゃあね、仕方ない。動揺してたもんね。
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