煙草は吸わないけれど

@J2130

第1話 なんでだ‥

「川端、煙草ないか‥」

 どこのヨット部でもエンジン付きの小さい救助艇を持っているが、その船のことをだいたいテンダーと呼ぶ。テンダーボートの略なのだが、テンダーと言えば、救助艇と思ってもらえばね、いいんだけれども。

 そのテンダーの上、

「マイセンですけどいいですか」

 川端先輩はそう言った。

そして二人の先輩は何事もなかったように、実にうまそうにおだやかに煙草を吸った。

風は強いが空には雲もなく、三月の海面は寒かったけれど晴れたいい日だった。


“ああ、生きられるんだな‥よかった”


 僕は心の中でつぶやいた。

 この状況で余裕で煙草を吸っている上級生の姿は、かっこよく神々しくさえ見えた。


“煙草っていいかもな‥”


 当時でも喫煙者はだんだんと居心地の悪い思いをしていたが、今ほどではなかった。

 だが、やはりね、煙草は害悪という社会情勢がせまってきていたころだ。

 だけど僕はこの時のことを思い出すと、

“そう悪くないんじゃないかな‥”

 と思っている、今でもね。

**************

「マッハの恐怖」

という柳田邦男さんのノンフィクションを読んだのはいつだったかな。


 事故はまさかが、こうでなかったらが重なった時に起きる、そんな印象が残っている。雨天でなければ、滑走路のライトがもう少し暗かったら、あと5センチ高度が高かったら、山岳気流が強くなかったら、もっと富士山上空で高度をとっていたら‥などなど。


「沖の様子見と、練習やれそうだったら、マーク打ってくるからな‥」

 白波がたっている、風も強い、でも波高はそうでもないし、練習をやってやれないことはないように見えた。


 それは三月のヨット部の合宿期間中で、風を除けばいつもとなんら変わりのない朝だった。


 ヨットの練習用に大きい浮きと言っては変だが、黄色い巨大で丈夫なビニール袋を使う。マークと呼ばれている。

 風上に一つ、風下に一つ、またはマークを一つにして救助艇を上か下のマーク替わりにして練習をしたりする。


 三年生の山本先輩が小型船舶免許を持っているのでテンダーの船長として乗り、同じく免許を持っている二年生の川端先輩が補助につき、当時一年生の僕が雑用として、白波のたつ沖にテンダーをくりだした。


「この風だ‥レグ(距離、この場合はマークとマークの距離)は短くしよう、この辺でマーク打て」

 山本先輩の指示で僕と川端先輩は巨大なマークを抱え海面に落とし、二人でマークにしっかりとアンカー(錨)ロープがついているか確認してそれを投げ入れた。

 アンカーが海底の砂にかかれば、風でマークが動くこともない。しばらくみつめたが、海流に流されていないことを確認して、

「いいかな‥、戻るぞ」

 山本先輩は船外機のスロットルを開けて船を陸へと動かした。


「調子悪いな、今日は‥」

 エンジンが止まり、川端先輩と僕が交代でスターターロープを力いっぱい数度引き、始動させた。この作業、意外ときついんだよね。これが二度ほど続いた。

 今はボタンひとつで始動できるのかな?

当時はスロットルを始動位置に回し、チョークを引き、スターターロープで初期回転をかけてエンジンを始動させていた。力仕事だったね。

 軽いエンジン音がしてまた動き始めると、

「ご苦労」

と山本先輩は僕らをねぎらい、そして

「今日にでもさ、これみてもらえよ、山野さんにさ‥」

 と言った。

 海の真ん中でね、エンジントラブルなんて恐ろしいからね。ハーバーマスターの山野さんにみてもらおう、二年の根岸さんに相談しようと思った。


「やべえな‥」

 さすがに三度目のエンジン停止はおかしい。まだ陸にはかなりある。

「なんだろうな‥川端‥」

 同じく船舶免許を持っている川端先輩に山本先輩は訊いた。

「昨日までは好調だったんですが‥。堀さ、昨日、塩抜きでなんかあったか‥」

 エンジンの塩抜きは一年生、三人でやっていた。

「別に大丈夫でしたが‥」

 なんだろうな‥、先輩方二人はエンジンカバーをあけてプラグなどを見ている。

「詰まってんのかな‥、燃料パイプ」

 赤い燃料タンクから延びる黒いパイプを山本先輩が点検している。なんともなさそうだ。川端先輩がタンクの蓋を開けようとしてそれを持ち上げた。

「あれ‥、なんか‥」

 先輩の表情が曇った。軽そうに片手でタンクを持ち上げている。片手で‥。


 僕はおそらく一瞬で青くなっただろう。

 川端先輩がタンクの蓋をひねり開け、そして中を覗いた。

 嫌だな‥、まさか‥。


「空だ‥」


 山本先輩が手を出し、タンクを受け取り中を見ている。

「ねえな‥」

 喉が渇いた

「なんで‥」

 僕はつぶやいた。なんでだ‥。

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